SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

ロン・ミュエック

2008年06月29日 | Weblog

金沢21世紀美術館でロン・ミュエックの展覧会が開催されている(8月31日まで)。この作家を観ずにして他に何を観ろというのか、誰か頼むから教えてくれないか。とにかくその情け容赦の無いハイパー・リアリズムと圧倒的なスケール・エラーの美学には降参するほかないが、その二つの要素が何故ここで結合しているのか考えてみる必要がありそうだ。荒川修作の連載から繋げれば、ハイパー・リアリズムの本質が「琥珀の棺」にあるとして、そこでスケール・エラーが「身体」に起こる、そのメカニズムの謎である。恥をしのんで茂木健一郎にでも訊いてみようか。やっこさん、何か知っているかもしれないぞ。

養老天命反転地17

2008年06月29日 | Weblog
 虫などが混入された琥珀のインクルージョンは珍しいものではなく、フェイクを含めて普通に手に入れることができる。だが遥か大昔に密かに行なわれた「殺害の瞬間」を収めたインクルージョンはたいへんに珍しいのだ。保坂和志の語る「犬の骨」の話では農夫が犬を間違って殺してしまうが、のちにその供養の墓を聖人の墓とさらに間違って教会を立ててしまう人々は、その事実について知りようがなかった。しかし、この二匹の羽虫のあいだで起こったことは「映像」として完全に記録保存されたのである。その殺害の瞬間にむけて、カメラなしでシャッターが切られたのだ。脱構築の殉教者は「この出来事はわたしたちにもまた起こることですし、まだわたしたちにこれから起こることでもあります」と言っている。「琥珀の棺の身体」とは、東浩紀氏が言うところの「データベース的動物」のことである。もはや間違うことができなくなった人間の結末は悲劇的だ。荒川は「人間を超えろ」と唱えている。

養老天命反転地16

2008年06月15日 | Weblog
 いまだ私は「不死門」の謎の前に立ち止まったままだが、ふと目を横に向けると、そこには「昆虫山脈」と命名された、これまた謎の岩場がある。険しい岩石が積み上げられたその頂上には、なぜか水をくみ上げるポンプが据え付けられている。「昆虫山脈という呼称は、水を求めて山をよじ登る姿を昆虫になぞらえたものです」という説明がなされているが、あたかもそこは、なにかの大きな災害によってすべてが崩壊してしまったあとの瓦礫の山であるかのようだ。「不死門」には「銅板という人工的な素材で、動物や竹といった自然を閉じ込めることで、与えられたもの一切を否定する」という意思が込められていた。そしてこの「昆虫山脈」には「人間は与えられた自然だけに服従しなくても、こういうもう一つの自然というものを創ることができる」という意図があるらしいのだが......。

>なぜこのことをお話する気になったのかわかりません。この発見そのものが出来事だったから、このように遺物(アーカイブ)が残されたほかの出来事についての出来事だったからかもしれません。一方では脆くはあっても動じない物質、物質的な保管庫、媒体(シュポール)、支持体、文書があり、他方ではこうして記載された出来事の特異性、一回限りの事実、「一回性」「空前絶後性」があり、この二つのあいだの関係を問おうとしていたからかもしれません。ここでは琥珀という抵抗する物質に、偶然的でなくしかも計算できない形で、保証なく委ねられることができる出来事について、問おうとしているからかもしれません。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻343~344ページ、『有限責任会社Ⅱ』所収のテキスト「琥珀のアーカイブ」より抜粋)

 一方で「不死門」が、そして他方では「昆虫山脈」があり、この二つのあいだの関係をまず問わねばならない。殉教者のテキスト「琥珀のアーカイブ」は、そのための大きなヒントを与えてくれている。人間が地上に現れるよりも5400万年前に、何かの地熱的な災害によって二匹の羽虫が琥珀のなかに瞬間パックされ、そのままの姿で現代に発掘されたという。この「昆虫」の話はあの保坂和志の「犬の骨」の話をかるく凌駕するスケールをもっている。とりあえず殉教者の話を聞いてみよう。とても大事な話だ。

>まだ時間というものが存在しないとき、人間もまだ動物も地上にその痕跡を残さなかったこのときに日付を与えるためには、堆積物について、岩石について、植物について調べることは可能でしょう。しかしそのことと、ある特異な出来事を参照することは、まったく別のことです。反復することのできない瞬間に、この動物が災害に襲われたある瞬間に、この動物が他の動物の血を吸い、享受しようとしていたこの謎めいたその瞬間に、あるいはまったく別の方法で何かを享受しようとしていた瞬間に、かつて起きたこと、たった一度限り起きたことを参照するのは、まったく別のことなのです。
 いまわたしは、愛を交わそうとする瞬間に、突然死に襲われたこの昆虫たち、人間が地上に登場する5400万年前に、わたしたちが記録に残そうとしているこの享受が行われた瞬間に、蜜色をした琥珀の中に固定されたこの二匹の羽虫について語っています。この出来事はわたしたちにもまた起こることですし、まだわたしたちにこれから起こることでもあります。わたしたちはここに、琥珀の棺の身体によって保護され、媒体(シュポール)の上に沈殿し、記載された出来事の身体的な痕跡を手にしているのです。一回しか起きず、一回限りの事実として起きたこの出来事は、たとえば琥珀そのもののように、その時代に存在し、現代にまで伝えられている元素の永続的な存在に還元することはできません。(a suivre)

シド・バレットの巻き

2008年06月07日 | Weblog


「巻いた人達」シリーズの第2回はシド・バレットである。シドのこの茫然自失ぎみの表情を見ていると、その精神の内部で、何かが静かに渦を巻き始めてきているのがわかる。結局この渦巻きを逃れなかったシドは自分のバンド、ピンク・フロイドから脱退することになるが、ふつうのロックスターならそこで死んで伝説だけが残るところだ。だがシドが凄いのは、そのあと廃人同然のまま60歳まで生きていたことである。廃人というのが言いすぎならば、いわば幽霊的な存在として、その声を、自分のいなくなったバンドに延々と響かせ続けていたのだと言ってよい。ピンク・フロイドの有名なアルバムのほとんどはシドに捧げられたものだ。

ジョン・カザル

2008年06月01日 | Weblog

 俳優のジョン・カザルが好きだ。ほとんど愛していると言っていい。その臆病で神経質な表情を見ていると思わず抱きついてキスしたくなる。「ゴッドファーザー」も「狼たちの午後」もカザルの存在あっての名作である。マイケル・チミノの「ディア・ハンター」はカザルに捧げられた。