SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

美的判断とコミュニケーション

2007年04月30日 | Weblog
>美的判断はコミュニケーションとは関係がない。岡崎乾二郎が『経験の条件』のあとがきで、ウィトゲンシュタインの「自分の見ている青と他人の見ている青とが同じであるとは限らない」という懐疑を、そもそも「自分の見ている青と自分の見ている青とが、同じであるとは保証されない」と書き換える時、そこに重要な差異が生まれる。前者は結局、言語ゲーム(コミュニケーション)の問題でしかないが、後者は「美的判断(美的経験)」の問題となる。芸術によって与えられる「美的な経験」の質は、誰とも共有出来ないからこそ(そもそも自分自身に対してさえその同一性を保証出来ないからこそ)、他者に対し、世界に対し、徹底して開かれたものとなる権利が生まれる。(古谷利裕の偽日記07/04/26より抜粋)

 いや、むしろ後者は、孤独な美的判断(美的経験)のうちにコミュニケーションの経路がすでに入り込んでいる、とでも捉えるべきだ。自分と他人の間にあるコミュニケーションのギャップが、自分と「自分」の間にもあるわけだ。そしてその「同じであるとは限らない」もしくは「同じであるとは保証されない」という半透明なギャップの両義的反転なくしては、そもそも他者や世界に対して徹底的に開かれるという美的経験の透明性は生まれない。つまりコミュニケーション(交通空間)こそが孤独な美的経験という「錯誤」の隠された条件である。でないのかもしれないが(←マテ)。

現代アートとポストモダン 第7回

2007年04月23日 | Weblog
 東京という巨大なシュミレーション都市には何処にも謎がない。その深層無き表層性をどう理解したらよいのか?――。先のビデオ・プログラムでA・A(浅田彰)の意識はバブルの幻惑的なプリズムなかで逝ってしまっているわけではなかった。何かしら目付きや口調がおかしいにしても正気は保たれており、そこで語られた近未来予想は実に正確であった。いや、本人からすれば「残念ながら正確であった」と言うべきだろう。なにしろ現実の近未来では、そのA・Aにポストモダニストからモダニストへの転身をただちに迫るほどの過激な「表面性」が現れたからである。そこではもはや「底なしの深さの無さ」という逆説的な「表層性」についてアイロニカルに語っているような余裕はない。この「深層無き表層性」から「表層すら無き表面性」へのシュミラークル属性の移動は、ついに工学化した新たな深層構造の出現に対応したものである。その深層は謎に満ちているが、人文科学的な読解のいっさいを受け付けない。かつて流行した複雑系リゾームの多様化モデルなどというのも、すでに予感されていた工学系データベースの二層化モデルに対するヒステリックな拒絶反応にすぎなかった。そう、もうはっきり言ってしまおう。いまや都市の実像は、シュミラークルとデータベースの二層に完全分離している。そして、この新しいシュミレーション都市には、むしろ暗号化した謎だけがあり、何処にも人間がいないのである。

現代アートとポストモダン 第6回

2007年04月19日 | Weblog
 この室井尚氏による「新人類」世代への違和感もまた、ポストモダニズム精神によるポストモダン環境への無意識の拒絶反応として理解されるだろう。このとき室井氏は、ポストモダニズム精神とポストモダン環境を区別してはいない。しかし、違和感としてその違いに気付いているのである。確かに宮台真司氏や椹木野衣氏の言説のもつその「独特の密室的暗さと閉塞感」は、それまでの開放的で楽天的、そして何よりも「幻惑的」だった80年代のポストモダニズム精神には無い感覚である。たとえば、この86年に制作された浅田彰氏のビデオ・パフォーマンス(これこれ)を診ると、まさしくそのブリリアントな「幻惑」の作用こそがポストモダニズム精神の肝要であったことがよく分かる(というか笑える)。こうした幻惑作用にいまだ強く依存した「文化の気象学」を提唱する室井氏が、その幻惑を蒸発させるポストモダン環境に自覚的な宮台真司氏や椹木野衣氏の言説に違和感を持つのは当然なのである。90年代以降のポストモダン環境では、あらゆる知的幻惑は蒸発する。あるいは当然のように、茂木健一郎のクオリアという幻惑が干からびるのも時間の問題だろう。(続く)

現代アートとポストモダン 第5回

2007年04月18日 | Weblog
>現在において、「現代」が成立しないのだとすれば、それは「近代」というプログラムがもはや作動しなくなったということを意味するように思われる。それは「普遍(理念)」の失効、つまり「正しさ」が意味をもたなくなったということだと思う。これはつまり、より完璧に「神が死んだ」ということではないだろうか。我々は今後、神(普遍)の成立しない世界を生きなくてはならないのではないか。これが間違っていないとすれば、モダンとかポストモダンとか言っている場合ではないように思う。(古谷利裕の偽日記07/04/15より抜粋)

 いや、言ってる場合だと思いますよ。そうでないと、そもそも何故その「普遍(理念)」が失効するのか、その説明がつかなくなる。「何が“現代”の精神を忘れさせたのか?」と問う保坂和志氏は、実はそこでメディアの問題に触れている。コンテンツ志向メディアに基づくmodern(大きな現代性)と、コミュニケーション志向メディアに基づくcontemporary(小さな現代性)という二つの現代性の区分が、そこでは「文化人の発言が小学6年生の発言のように失笑を買わない理由」として語られている。ここで詳しいことは言わないが、要するに近代的な普遍(理念)が失効しかけているのは、係るメディア環境が「一方的」なコンテンツ志向から「双方向的」なコミュニケーション志向へと大きく変化しているからだ。ちなみに近代的な普遍(理念)とは「神が死んだ」からこそ可能となっている(近代=再帰的近代=否定神学)。

色彩に入る

2007年04月12日 | Weblog
 永瀬恭一氏による「内海聖史論」は了解できない。私の考えでは、内海聖史氏の作品はいわば「スケール・エラー」の絵画である。クオリア原理主義モギケンによれば「スケールエラー」とは、ある条件の下で子供たちが対象のスケールを無視して、例えば自分の足元にある小さな車のおもちゃのドアを開けて乗り込もうとすることがある、という奇妙な認知現象のことである。もちろん子供はその小さな車に乗り込むことはできない。だがもし、その車のスケールを大きくするか、あるいは逆に自分のスケールを小さくするかできれば、乗り込むことができる。つまりそうして「色彩に入る」ことができる。ここだけの話、この「スケール・エラー」は絵画のひとつの真実である。分かる人にだけ分かればよい(←何?)。

現代アートとポストモダン 第4回

2007年04月11日 | Weblog
>「ポストモダン」は、1970年代以降の社会的、文化的変化を広く指す言葉であり、「ポストモダニズム」は、そのなかで生まれたひとつの思潮=イズムを指す言葉に過ぎない。(『ゲーム的リアリズムの誕生』第一章A-3、P51)

 私がこの連載「現代アートとポストモダン」で目論んでいるのは、まず第一に、70年代以降の現代アートの再検討である。現在にいたるアートの「ポスト・ヒストリー」を、もう一度ここでキッチリと語り直したい。というのも70年代以降のアートのポストモダンは、実はこれまでまともに語られたことがなかったからだ。少なくとも日本で語られたのは、アートのポストモダンとは区別されるべきアートのポストモダニズムでしかなかった。これから「現代アートとポストモダン」について語り直すためには、おそらく作品(コンテンツ)と環境(コミュニケーション)を接続する新しい批評の方法が求められてくる。とはいえ当方もう頭がいっぱいいっぱいで......(←マテ)。(続く)

現代アートとポストモダン 第3回

2007年04月09日 | Weblog
 天国が満員となった1970年代の後半に、つまりジョージ・A・ロメロの映画『ゾンビ』が公開されたその年頃に、絵画はとつぜん蘇った。そのあり得ない新表現主義絵画を観て、美術評論家達は驚き、芸術もまた満杯なのだと悟った。新しい時代の若い画家達は、天国が物質でできていることを知っていた。70年代の後半には、宗教的信念も芸術的崇高も、すでに精神文明圏から剥落したフェテッシュなイメージとして、物質文明圏で広く流通していたのである。80年代のポストモダニズム絵画は、そのイメージをモンタージュさせて、張りぼての精神文明を描き出す。そこで画家は、いわば壊れたイメージ・プロセッサーだ。その激しいタッチから滴る人工塗料にはLSDが混じっている。最初のポストモダニズム絵画であったポップ・アートは、そのLSDを「イメージを呼び出す」ために使用した。しかし80年代のポストモダニズム絵画は、逆に「シンボルを呼び出す」ためにこそ使用した。どういうことだろうか? どういうことなんだろうねぇ...(←マテ)。(続く)

現代アートとポストモダン 第2回

2007年04月02日 | Weblog
 東京国立近代美術館ギャラリーで現在開催中の企画展『リアルのためのフィクション』展は、「コミュニケーション志向」を持った四人の女性アーティスト達による「小さな国際展」だ。このそれぞれに多様な印象を与える彼女達の作品からは、「フィクションを通して逆説的にリアルなものの扉を開く鍵」(プレスリリースより抜粋)となる、あるひとつの共通した方法論を見出すことができる。イケムラレイコは子供と大人の狭間にいる少女を描き、ソフィ・カルは私的な日記と公的な文書の撹乱を目論み、やなぎみわは商業資本と人々を繋ぐ案内嬢を演じ、そして塩田千春は身体を清める行為で身体を汚す。いずれも、ふたつの異なる位相(両義性)を、ひとつの同じ表現行為の内に開示している。私の気のせいなのかもしれないが、この四人の作品は、東氏の『ゲーム的リアリズムの誕生』(第一章B-10~11、P92~107)で展開される「半透明性」の議論と何か深い関係がある。というか実際そこでは「仮構を通してこそ描ける現実」についてガチに議論されている。だがそれにしても「透明な言葉を使うと消えてしまうような現実を発見し、それを言葉の半透明性を利用して非日常的な想像力のうえに散乱させることで炙りだすような、屈折した過程にあると考えられないだろうか」(同P102)という説明は難解だ。ここを突破しないと先には進めないとはいえ、すでに当方わけわからん(←マテ)。(続く)

現代アートとポストモダン 第一回

2007年04月01日 | Weblog
 美術批評家の市原研太郎氏が報告するように、現在、世界のアート界は、「アートフェア系」と「国際展系」という二つの大きな傾向に分割されている。この二極化現象について、東氏の新著『ゲーム的リアリズムの誕生』の議論(第一章C-17、P143)に即して考えてみたい。すると「アートフェア系」は「コンテンツ志向」の、そして「国際展系」は「コミュニケーション志向」の環境展開であることが分かってくる。そして市原氏の指摘を繰り返せば、この二つの志向系は現在、「完全に分割され、その溝がますます広がりつつある」。

>コンテンツ志向メディアは、ひとつのパッケージをひとつの物語で占有し、それを受容者に伝達する。コミュニケーション志向メディアは、ひとつのパッケージあるいはプラットフォームのうえで、〈まずコミュニケーションを組織し〉、その副産物として複数の物語を産み落とす。前者では、物語がメディアの内容(コンテンツ)そのものであるのに対して、後者では、物語はメディアの内容(コミュニケーション)の効果として生み出されるにすぎない。(『ゲーム的リアリズムの誕生』P143)

 90年代以降、現代アートは「リアル」と向き合おうとすると同時に「コミュニケーション」を求め始める。だがこのふたつの言葉を耳にして、たとえば古谷利裕氏や永瀬恭一氏みたいに「そんな馬鹿な、というかそんな事を言う人は馬鹿だ」と思う近代主義者は、そこで問われているのが「アーティスト達が何をリアルだと感じているか」という精神医学的な現実性ではなく、「アーティスト達が何をリアルだと感じることにしているか」という社会学的な現実性であることに気付いていない(同P60)。ましてや「表現はそのまま現実と向き合うわけではない。いかなる表現も、市場で流通するかぎり、発信者と受信者のコミュニケーションを抜きにしては成立しない」のである(同P143)。(続く)