SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

インランド・エンパイア11

2009年05月25日 | Weblog


 毎度おなじみ殉教者ジャックのテキストに『尖筆とエクリチュール』というニーチェ論があるのだが、どうもこれが気になるのだった。思うに、おそらくリンチがあのオープニングのグラモフォンのシーンで見せているのは、その尖った針先の摩擦(接触)そのものであり、古谷利行が『世界へと滲み出す脳』で書いたような「反復されるレコードのイメージ」(P59)ではないと思われる(そんな意見は単純すぎてリンチに失礼だろう)。あるいはこの映画には腹にドライバーを刺した女が登場し(上のシーン)、主人公のスーザンもドライバーで刺されるのだが、『尖筆とエクリチュール』の表紙や図版に使われているのがL・クラナッハの「ルクレチア」なのである。これからこのテキストを詳しく分析するつもりだが、そんな今の私は保坂・古谷組のリンチ理解を大きく引き離し、前人未踏の領域に入りつつあるのだった。もはやハイ・コンテクストすぎて自分でも怖いくらいだ、というか周りに誰もいなくなって孤独だ(笑)。

エミリー&フィオナ姉妹の歌

2009年05月21日 | Weblog


 エミリー&フィオナの姉妹がニール・ヤングのHeart of Goldを歌っている。池田のアニキのような「古いファン」も納得の選曲だろう。ギターを弾いている姉のエミリーはやる気満々だが、妹のフィオナは仕方なしに付き合っている感じだ。

池田ヤング

2009年05月19日 | Weblog


 池田のアニキのニール・ヤング自慢は困ったものだが、こちらの池田ヤングも手に負えない感じだ。いったいニール・ヤングの何がそんなにオヤジ達をシビレさせるのだろうか。70年代を体験していない若造にロックの何が分かるか!とか言われそうだが(笑)。

いかしたバンドのいる街で

2009年05月09日 | Weblog


 スティーヴン・キングの小説『いかしたバンドのいる街で』を読む。かつてニール・ヤングは「ロックは死なない」と主張したが、この小説で主人公の夫婦が迷い込んだロックンロール・ヘヴンという名の街では、ロックは本当に死んではいなかった。すでに他界した有名なロック・ミュージシャンたちが、この街で毎晩のようにコンサートを開いていたのである。ロックファンにとっては、まさに夢のような場所だろう。入場は条件付だが無料だ。好きなだけ楽しめばいい。もうすぐ忌野清志郎もやって来る。 

(ちなみにYouTubeにこの小説のテレビ映画版がアップロードされている)

美術と臨床をめぐる対話 その2

2009年05月07日 | Weblog
>私たち美術に関わるものの世界では、「作家は黙って良い作品を作れ」というイデオロギーがあります。作り手が、作品批評なり美術史に意識的な発言や分析なりをすると、決まってこういう言説が現れ、一方的に怒られたり軽蔑されたりします。(永瀬恭一)

 ダメな絵描きが口先だけで何言ってもダメだろ。なぜ内海聖史が売れて永瀬恭一は売れないのか、理由は言うまでもない。黙ろうと喋ろうと、永瀬の絵は作品としてお話にならないのだ。貸し画廊の日曜画家の絵に目を付ける人などいない。作品の良し悪しの判断能力がまず作家自身に要求されるのであれば、客観的に永瀬はいっそ絵を止めるべきだ。そしてブログも止めて、人様にこれ以上の迷惑をかけないようにすべきだ。そうすればもう怒られたり軽蔑されたりすることもなくなる。(ちなみにかつて古谷利行が非難した内海聖史の作品は今年、東京都現代美術館に収蔵された。古谷の見立ての見当違いがよく分かる事例だろう。あらためて古谷の言うことは絶対に信用してはならない。奴の目は腐っている)

マラルメと荒川修作 その2

2009年05月06日 | Weblog
「僕は二十二、三歳くらいに書いたマラルメにはそれほど魅かれない。本当に興味が出たのは、彼がシンタックスをバラバラにしなくちゃならないようなところに行っちゃった、ということだった。だから、詩それ自身より、そのような場所に自分を置いたという芸術家マラルメに興味があったんです。一度シンタックスをバラバラにしちゃった芸術家というのは、自分でもう一度アルファベットをつくり始めるよりしようがないでしょう。それでいて感覚的には目を使い、耳を使い、鼻を使っているようにしなくちゃいけない。この世でどうしても生きなくちゃいけないし、またもう一方、自分の仕事というのは、この世から全く外れたところにある。彼は二つに分かれた世界に入っちゃったんじゃないか。
 おそらく彼は、空間とか時間というのはこの世には存在していない、そこから始まったろうと思うんです。時空というのは〈私たち〉によってつくられ、〈私〉によって殺され消されるものだということを、まともに考えたんだろうと思います。〈暗い〉とか〈夜〉とか〈影〉とか、そういう一つ一つのイメージは、この世にいるから仕方なくつくった物語だと。〈仕方ない〉という、それが僕にはあるんです。ほんの少しだけ説明を入れたと。未完成だという意味じゃなくて、あの未完成は完成してたんじゃないか。断片的だと僕たちは言うけど、あれは決して断片的じゃなくて、あのようにしかないと思うんです」(ユリイカ増刊マラルメ総特集号231ページ 荒川修作の発言より抜粋)

中空の感情、中空の経験 まとめ

2009年05月05日 | Weblog


>横浜の野毛山動物公園に、中野成樹、誤意訳・演出『Zoo Zoo Scene(ずうずうしい)』(エドワード・オールビー『動物園物語』)を観に行った。まず、スタッフに先導されて動物園をひとまわりして、閉園後、動物園内の広場で上演がはじまる、というもの。野毛山動物公園は、浪人時代にスケッチに行ったり、大学時代に映画の撮影に行ったりしたことがあったが、訪れるのは二十年ぶりくらい。(旧偽日記08/05/17(土)より抜粋)

>猿たちの動きを見ていると、木の枝と枝との間に、実際には目に見えない中空という抽象的な平面が見えてくるかのようだった。僕が作品のなかに見ようとしているのは、というか、作品が僕に見せてくれるものというのは、猿の動きによって見えてくる中空のようなものなのではないだろうか。作品を構成する細部というのは、一匹一匹の猿の動きのようなもので、それが、物理的にあるわけではない中空という平面を浮き上がらせる。それは、猿の動き以前には存在しなかった潜在的な何かを、その動きそのものがつくりだしているということだ。中空という平面そのものは、直接的に目で見ることも、手で触れることもできないが、しかし、それがあることは感じられる。(『世界へと滲み出す脳』あとがき329ページより抜粋)

>土曜の野毛山動物公園の公演を観ていたという人からいただいたメールに、会場にいた「どこかのバンドのミュージシャンみたいな男」の記憶と、偽日記の記述と、「美術手帖」の前の号に載っていた写真の記憶とが、後になって頭のなかで一致して、あ、あれが古谷だったんじゃねえの、と思った、と書かれていた(多少、脚色あり)。「どこかのバンドのミュージシャン」みたいって...。他人の描写(視線)を通して自分を観るのって、すごいへんな感じがする。(旧偽日記08/05/19(月)より抜粋)

磯沼ミルクファームまとめ

2009年05月04日 | Weblog


>散歩をしていて、いきなり、何もない芝生のひろがりに出くわして、どこかの大学のグランドかなにかだろうかと思ったのだが、その隅に数頭の羊とヤギがいるのをみつけた。動物を放牧する場所のようだった。住んでいるアパートから、まっすぐ歩けばせいぜい二十分くらいのところなのだが、こんな近くにこんな場所があるなんて今まで知らなかった。大きな木々で隠れて見えなかったところに、地面をえぐったように下ってゆく坂道があって、そこを下ってゆくと、四、五十頭の牛が並んで草を食べている大きな牛舎があった。牛は、歩いている道からを柵を隔ててすぐそこにいて、ぼくの気配を察して顔を向けた牛の顔が、手が届くほどの距離にあった。(旧偽日記08/01/18(金)より抜粋)



>最近はすっかり「牛」に魅了されていて、散歩に出るとついつい大きな牛舎の方へ足が向いてしまう。一見、無気力な家畜で、ただだらだらと餌を食っては糞を垂れ流しているだけにみえる牛たちも、ちょっと眺めているだけで、生得的な性格に違いがあることがみえてくる。他の牛の食っている餌にまで首をつっこんで横取りしようとする強引な奴もいれば、なにかと遠慮ぎみで、一歩引いているような奴もいる。足音に敏感で、近づくとすぐに振り向く奴もいれば、我関せずで、まるでこちらを気にしない奴もいる。繰り返し回帰する性格としての「私」。(旧偽日記08/02/14(木)より抜粋)

偽日記ヴァーチャル散歩ツアー 謎の本屋編

2009年05月04日 | Weblog
>途中、車がすれ違うのも困難な細い道に、抜け道みたいになっているのか、多くの車がはやいスピードでびゅんびゅん走っていて、軽くイライラした。そこを抜けた四つ角の角に、八百屋みたいな店のつくりの本屋があって、雑誌やコミック本が、野菜みたいにして台の上に並んでいた(「洋服の直しもやります」という張り紙もあった)。(偽日記2008-09-01より抜粋)

 八王子市の元横山町2丁目に「かどや書店」という謎の本屋がある。四つ角にあるためストリートビューの3方向から見学することができるが、どの方向から見てもまるで雑貨屋か八百屋か駄菓子屋のようにしか見えない。服のサイズ直しやクリーニングもやっており、何気に置いてある公衆電話の横のガラスに「洋服修理致します」という張り紙が張ってある。店の庇には「たばこ」の赤い縦旗が意表をついて横向きに吊るしてあり、その下には角を守るかのようにして自動販売機が5台も置いてある。クロネコヤマトの宅急便の旗が中途半端なコンビニエンス感を醸している。置いてあるダンボール箱には何が入ってるのだろうか。おそらく店内には雑誌をヒモで締めて並べるための台だけがあって、棚は無いのだろうと思う。

偽日記ヴァーチャル散歩ツアー ツタヤ―駅前編

2009年05月03日 | Weblog
 ノンワーキングプアな評論家の古谷画伯にとって、頼みの綱はツタヤの半額サービスである。西八王子店がメインで京王八王子駅前店がサブとなっているようだが、半額サービスの日の散歩は、足取りも軽そうだ。そのぶん浮いたお金で何かおいしいものが食べられるからだ。
 2006年10月12日の昼に画伯は、メインのツタヤから西八王子駅にかけて小さく散歩し、5枚の写真を撮っている。上から順に撮影場所を特定していこう。1枚目2枚目3枚目、飛ばして5枚目のストリートビューである。問題は4枚目だが、詳しい分析の結果、撮影場所がついに明らかになった。ブラインドの向こうに見える青と黄色の組み合わせに心当たりがないだろうか。そう、マツモトキヨシのカラーだ。隣には緑の屋根が、そして下にアーケードの柱らしきパターンが見え、手前にはバスが止まっている。この西八王子駅前のストリートビューを回転させてみよう。画伯はこの九州ラーメン店の二階にある「庄や」の窓際から、ブラインド越しに写真を撮っていたのである。何を食べたのかは知る由もないが。

フルチン・バビロン

2009年05月02日 | Weblog


「お酒を飲んで裸になる方が、人間らしいなあ」の佐伯剛や、「酒飲んで公園で素っ裸になるのがそんなに悪いことなの?」の保坂和志は、しかし自分では決してフルチンで暴れるなんて事はしないだろう。やったとしても余興程度であり、このGGアリンのようにガチでやるわけじゃない。チンポコ出して暴れるなんて人間として最低だ。GGが身をもって教えてくれたことを忘れてはならない。

偽日記ヴァーチャル散歩ツアー 用賀―二子玉川編

2009年05月02日 | Weblog


>随分と久しぶりに世田谷美術館へ行ったのだが、用賀の駅前の様子がすっかり変わっていて驚いた。本当に、駅前を再開発すると、どこも同じ風景になるのだなあと思って歩き出す。美術館まで十五分くらい歩くのだが、その道のりも「散歩道」風に整備されていて、歩いていてもちっとも面白くない景観になってしまっていて、うんざりする。砧公園は日曜のためか人がたくさん出てにぎわっていた。梅が七分から八分くらいに咲いていて、お花見みたいに花の下にシートを敷いて弁当を広げている人もけっこういた。でも、ポカポカと日は照っていたが、風は冷たく(風が吹くと枯れ葉がザーッと舞う)、それはさすがにまだ寒そうだった。世田谷美術館に行くために田園都市線に乗るたび、途中の二子玉川の駅から見える多摩川の河川敷を歩いてみたいといつも思っていて、でも帰りには疲れていたり既に暗くなっていたりして叶わないのだが、今日はちっちゃな展覧会を観ただけだったので、初めてそれが叶った。三時過ぎから暗くなるまで、ずんずん歩いたあちこちで野球をやっていたり...(偽日記2007-02-11より)

美術と臨床をめぐる対話

2009年05月02日 | Weblog
>しかし、あたりまえですが「良い」「悪い」の判断が最も必要なのは現場の作家です。正確にはその権限(権力)は美術批評家なり美術館学芸員なり画廊なりが握っていて、無力で盲目な作家がむやみに作った作品を一方的にジャッジするんですね。(...)そして、その判断の為には先行する、あるいは同時代の作品の分析が欠かせないし、それらの作品が作られ評価された文脈の検討も必要になる。(「美術と臨床をめぐる対話」から永瀬恭一の4月3日のメールより抜粋)

 画家は、自分の作品の何が「悪い」のかは分かっても、何が「良い」のかなんて分からないはずだ。自分の絵の「良さ」に自覚的な画家など、そんなのはイラストレーターであって芸術家ではない。そういう意味で芸術家が「盲目」であるのは、それこそあたりまえの話だ。芸術として絵を描くために、「先行する、あるいは同時代の作品の分析」とか「それらの作品が作られ評価された文脈の検討」など必要ない。荒川修作は「すべてが亡くなる前に、俺は新しい種を生み出すよ」と言った。そして浅田彰は「ゼロの自分が無限に挑むくらいの野心を持て」と言った。それが芸術的にどういう意味なのか、永瀬恭一はこれからよく考えてみるべきだろう。「分析」だの「検討」だの、犬も食わない言葉だ。保坂和志に笑われるぜ。