毎度おなじみ殉教者ジャックのテキストに『尖筆とエクリチュール』というニーチェ論があるのだが、どうもこれが気になるのだった。思うに、おそらくリンチがあのオープニングのグラモフォンのシーンで見せているのは、その尖った針先の摩擦(接触)そのものであり、古谷利行が『世界へと滲み出す脳』で書いたような「反復されるレコードのイメージ」(P59)ではないと思われる(そんな意見は単純すぎてリンチに失礼だろう)。あるいはこの映画には腹にドライバーを刺した女が登場し(上のシーン)、主人公のスーザンもドライバーで刺されるのだが、『尖筆とエクリチュール』の表紙や図版に使われているのがL・クラナッハの「ルクレチア」なのである。これからこのテキストを詳しく分析するつもりだが、そんな今の私は保坂・古谷組のリンチ理解を大きく引き離し、前人未踏の領域に入りつつあるのだった。もはやハイ・コンテクストすぎて自分でも怖いくらいだ、というか周りに誰もいなくなって孤独だ(笑)。
毎度おなじみ殉教者ジャックのテキストに『尖筆とエクリチュール』というニーチェ論があるのだが、どうもこれが気になるのだった。思うに、おそらくリンチがあのオープニングのグラモフォンのシーンで見せているのは、その尖った針先の摩擦(接触)そのものであり、古谷利行が『世界へと滲み出す脳』で書いたような「反復されるレコードのイメージ」(P59)ではないと思われる(そんな意見は単純すぎてリンチに失礼だろう)。あるいはこの映画には腹にドライバーを刺した女が登場し(上のシーン)、主人公のスーザンもドライバーで刺されるのだが、『尖筆とエクリチュール』の表紙や図版に使われているのがL・クラナッハの「ルクレチア」なのである。これからこのテキストを詳しく分析するつもりだが、そんな今の私は保坂・古谷組のリンチ理解を大きく引き離し、前人未踏の領域に入りつつあるのだった。もはやハイ・コンテクストすぎて自分でも怖いくらいだ、というか周りに誰もいなくなって孤独だ(笑)。