SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

養老天命反転地8

2008年03月30日 | Weblog
 先の脱構築の殉教者による「動物は喪の象徴論を、ときにはある種の墓さえもっている」という発言は謎めいているが、養老天命反転地にも同じように謎めいた場所がある。まさしく「不死門」と命名されたその場所は、養老天命反転地へのゲートと位置付けられている。以下、公式サイトからの説明である。

>一見、竹林のようにも見えるこのモニュメントは、養老天命反転地の構想時から荒川氏のプランにあったもので、養老天命反転地へのゲートと位置付けられています。足もとには、「養・老・天・命・反・転・地」の七つの文字がデザインされ、銅板に包まれた猫やうさぎ、小鳥、蛇が配置されています。銅板という人工的な素材で、動物や竹といった自然を閉じ込めることで、与えられたもの一切を否定するという、作者の意思を表しています。ゲートといえば、日本古来の鳥居を思い浮かべますが、鳥居はもともと2本の竹から始まったもの。この不死門は、現在の形式に至るまでの人工的な装飾を取り除き、原点に立ち返った門でもあります。

 謎が謎を呼ぶ展開だが、ここで小説家の保坂和志氏の語るおとぎ話にも耳を傾けてみよう。もしかしたら「不死門」の謎を解く何かのヒントになるかもしれない。以下、『小説の誕生』の450ページから転載する。

 遠い昔、まだその土地に農民しか暮らしていなかった頃のこと、ある農夫が毎日小さい娘と犬をつれて畑仕事に出ていた。ある日、いつものように農夫が娘を犬と遊ばせて畑仕事をしていると、娘の悲鳴が聞こえ、あわてて駆けつけると、すでに娘は血を流して死んでいた。
 農夫はてっきり犬の仕業だと思って、犬をその場でたたき殺したのだが、はっと気がつくと死んだ娘のすぐ傍らに毒蛇がいた。農夫は自分が大きな間違いを犯したことを知り、その場に犬を手厚く葬った。
 それから何世紀か経ち、その場所には街道が通るようになった。農夫が犬を葬った粗末な墓標は朽ち果てず残っていて、街道を行く旅人たちはそこに腰をおろして休むのが習慣となっていた。ある日ひとりの旅人が足を痛めてやっとの思いで墓標まで歩いてきて、しばらく休息をとって立ち上がると、足が治っているではないか。
 それ以来、そこでは奇蹟がたび重なり、
「これはありがたい聖人のお墓に違いない。」
 という評判が広がり、そこに教会が建ち、その教会には多くの人が集まるようになった。
 そしてまた時が過ぎ―、教会が老朽化したので再建の話が持ち上がった。それではせっかくだから昔からそのままになっている聖人のお墓をもっとちゃんとしたものに替えようと言って、お墓を掘り返したら、そこにあったのは犬の骨だった。

(a suivre)

養老天命反転地7

2008年03月26日 | Weblog
>ハイデガーによると、動物は死ぬことがありません。動物は〈くたばる〉か「終わりを迎える」ことはあっても、ほんらいの意味で死なないのです。私が改めて問題にしたいのは、この限界の体系です。人間または現存在(ダーザイン)が言語によって、ハイデガーが語る死なるものを私物化する関係を、死とのあいだで結んでいるというのは、明白なことではありません。逆に一般的な単数で「動物」と呼ぶものは(一つの、ただ一つの種としての動物しかいないかのように)、死とのあいだで、苦悩によって刻印されたはるかに複雑な関係をもっています。動物は喪の象徴論を、ときにはある種の墓さえもっているのです。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』下巻379ページより抜粋)(a suivre)

養老天命反転地6

2008年03月26日 | Weblog
>人間の責任の範囲は、基本的に物理的な条件で制限されている。デリダふうに言えば「エクリチュール」の問題です。エクリチュールには限界がある。なぜなら物質だから。これは口頭の会話でも同じです。しゃべり続けると疲れる。しゃべれなくなるから話題を変える。あるいは解散する。そうやってコミュニケーションは続いていく。限界があるからこそ無限に続く。これは矛盾でもなんでもなくて、具体的にそうなんですよ。(東浩紀『波状言論S改』237ページより抜粋)

 究極のバリア・フリーは「障害」という物理的な制限を無くしてしまい、人間の責任の範囲を失わせる。養老天命反転地がなぜ障害だらけの場所であるかは、このあたりに理由がある。荒川の「死なない」というスローガンも、やはりコミュニケーションに関わるものなのだ。(a suivre)

養老天命反転地5

2008年03月22日 | Weblog
>バリアを取り除きアクセス可能にしていくことは、少数の特殊な要求に対する特別な対応として取り組むこともできるが、このような要求をより普遍的な多くの人が潜在的に抱える問題と解釈し、根源的な対応として取り組むこともできる。設計や計画の初期の段階から利用者の多様性に注目し、対応可能な幅を拡大させるアプローチである。多くの人は融通が利くので、建築や製品に制限があっても特に問題を感じることなく使用してしまう。しかし、状況が変化すれば同じ建築や製品に対して不便を感じることも多い。建築や製品がもっと融通が利くように作られていれば、状況が変化したときも不便に感じることがなくなり、融通が利かない高齢者や障害のある人にも使える建築や製品を提供することができる。問題が発生するたびに対症療法的にとりくんできたバリアフリーに対して、問題自体が生じないため、配慮そのものに気がつかずに利用することができる。自らの能力の制限を自覚させられることもなく、最も自然な方法で行為が達成されれば、能力の制限そのものは意味のないことになる。かつてヘレンケラーは「障害は不便だけど、不幸ではない」と言ったが、不便でもなくなれば障害もある意味では無くしてしまえることになる。(相良二朗「バリアフリーとユニバーサルデザイン」より抜粋)

養老天命反転地4

2008年03月19日 | Weblog

 かの有名な『奇跡の人』(1962年アーサー・ペン監督)のファイナル・シーンである。ここでパティ・デューク演じるヘレン・ケラーは、ポンプの水に触れたことをきっかけに世界をいっきに理解し始めている。木に触る直前の、そのよろめきながら世界を掴み取ろうとしているヘレンの動作に注目してほしい。そう、この動きこそが荒川修作が造り出そうとしている空間の対象なのである。つまり荒川はヘレンを空間に合致させるのではなく、空間をヘレンのこの動きに合致させようと、世界の全体を秒毎に造り変えようとするのだ。そして荒川はこの反転を生と死の問題にまで拡大している。

養老天命反転地3

2008年03月14日 | Weblog
>ローティやメルロ=ポンティは、前述のように、近代哲学は目の隠喩で主体を捉えてきたと考える。それは妥当な意見だが、他方でデリダが1967年の『声と現象』で提案したように、近代哲学をむしろ声(耳)の隠喩から整理することもできる。その場合、デカルトからフッサール、ハイデガーにいたる哲学者たちの主体(あるいは現存在)概念に共通する構造は、「見る」絶対性というよりも、むしろ「自分が話すのを聞く s’entender-parler」自己産出性として捉えられる。目の主体はイメージで世界を捉え、耳(言葉)の主体はシンボルで主体をまとめあげる。しかし「目と耳のあいだの空間」について語るデリダは、もはやそのどちらが正解かを問題にするのではない。イメージとシンボルのあいだを自由に往還するエクリチュールの存在は、主体のモデルとなる知覚的隠喩を攪乱し、そのあいだを往還する。とすれば私たちが行うべき作業は、「目」からまた別の知覚へと範例を移すのではなく、むしろ諸知覚の分散状態、ひとつのエクリチュールを「目」や「耳」、あるいは「手」(触覚的隠喩もまた思想史上は重要だ)などによりつねに複数的に捉える状態のうえに、新たな理論的言説の可能性を探ることにあるのかもしれない。(東浩紀「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」第六回『情報環境論集S』P296より抜粋)

養老天命反転地2

2008年03月10日 | Weblog

その昔、人間と水の精は共存していた。水の精の導きと未来の予言に人間は耳を傾け、その予言は現実となった。しかし、いつしか人間は耳を塞ぎ、すべてを支配する欲望に駆られ、内陸へと移動を始めた。水の精が暮らす魔法の世界と人間の世界は切り離された。水の精はその後数世紀にわたり人間に語り続けたが、ついに背を向けた。人間の世界には暴力が溢れ、いさしめる者もいないまま戦争が絶えない。そして今、水の精は再び人間に手を差し伸べ始めた。大切な子供たちを人間の世界へと送り出したのだ。彼らは真夜中に人間の近くに運ばれてくる。水の精を一目見ただけで人間は目覚めるだろう。しかし敵がいる。水の精を守る掟はあるものの、命の危険がつねにあることにかわりは無い。生きて帰らぬ者も多い。それでも水の精は今なお手を差し伸べている。しかし人間は聞く術を忘れてしまったのかもしれない。