SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

偏頭痛とトルコ絨毯 その2

2010年09月29日 | Weblog
「わたし自身の偏頭痛時の光には-それは目をつぶると鮮やかに、目を開いたままだとより弱く透明に見えたのだが-小さな枝分かれする線や視野を覆う、格子、チェスの基盤目、クモの巣や蜂の巣のような幾何学的構造が見えた。ときにはもっと複雑なパターンも見えたが、それはトルコ絨毯や複雑なモザイクのようでもあり、また渦巻きやスパイラル、松ぼっくりやウニのような三次元の形態が見えることもあった」(オリヴァー・サックス-港千尋著『書物の変』133ページ)

Video tour con Murakami 7 - Cosmos, 2003

 この「3D」と題された村上隆のサイケ壁画に組み込まれた半球状の丸い絵は、実は平面であり、立体に見えるような騙し絵として描かれている。世界には光と闇があるということを子供達に伝えるために描かれたこの壁画に、二次元を三次元的に膨らませる仕掛けが入っているのである。三次元的というのは2.5次元ということだが、この小数点以下の次元が重要なのである。パラマウンド理論の千葉雅也は語る。

「(森村泰昌の場合は)三次元の人物がブロマイドとかで二次元化されたものをさらに再‐三次元化するということをやっている。立体をさらに立体に再変換するなかで生じる小数点以下の次元性みたいなものがある。今日の映像文化では、『アバター』の問題もそうだけど、立体的な外在性とその表象の境界が、変なかたちで短絡されるという状況が出てきている感じがしますね」(『ユリイカ』9月号183ページ)

偏頭痛とトルコ絨毯

2010年09月27日 | Weblog
 オタク+サイケデリック=オタクデリック、これが村上隆の作品方程式だが、案外そのサイケデリックな側面については語られていない。村上隆の世界戦略が、まず最初にアメリカ西海岸への上陸から始まったにも関わらずにである。港千尋の『書物の変』(せりか書房)の第二章1説「内なるグリッド」には、「偏頭痛とトルコ絨毯」という項目がある(132ページ)。

>オリヴァー・サックスは、とつぜん襲われる激痛にさいして、何らかのパターンが「見える」ことに注意し、自らも含めそうした例を研究している。サックスの記憶では、三歳か四歳の頃、裏庭で遊んでいたところ、急に視界の左側にまばゆい光が現れて、地面から空へとつらなるアーチが見えたという。アーチの端に青とオレンジに光るジグザグ模様が見えたと思ったとたん、今度はすべてが真っ暗闇に反転した。何が起きたのか分からないでいると、母親が、それは「偏頭痛」のせいなのだと教えてくれたという。

 サックスは、激しい「偏頭痛」に伴って見える「トルコ絨毯」のような模様を、個人的な経験や欲望よりも深い神経のレベルで共通体験される「人類に普遍的なアーキタイプ(原型)」と考えたという。なにしろその模様の基本パターンは、港氏によれば、旧石器時代の洞窟画にも確認されるというのである。とうぜん麻酔もなかった旧石器時代、彼らが苦痛のさなかで見たであろう「内在光」の幾何学的パターンは、時を越えて現代人にも共有されている。西海岸でサイケデリック・ムーブメントが起きたとき、アメリカはベトナム戦争のさなかにあったのだ。村上隆のオタクデリックなアートは、本人いわく、明るく楽しく可愛く、そしてなにより希望に満ちたものであるという。だが村上隆が希望(ホープ)を込めたこの「トンガリ君」の制作は、苦痛(ペイン)に満ちたものだったのである。

Video tour with Murakami 9 - Tongari-kun, 2003-2004

都心から遠く離れて

2010年09月25日 | Weblog
 こちらに「文真堂書店」の社長、星野洋一氏の談話が掲載されている。「文真堂書店」は北関東の、いわゆる郊外型複合書店の先駆けだが、またべつに98年に出店した「ブックマンズ・アカデミー」は、その店名どおりの本格的な書店である。こうした野心的な経営者の考えていることは、やはり先を見越しており、専門書を揃えた本格的な書店が地方の郊外でも成功するということを知っていた。そして地域・学校・社会との連携を失えば、いずれ書店は滅びるということも......。『ユリイカ』の電子書籍の特集号でも、こういう経営者がホリエモンと対談したりすると話が面白くなるのだろう。新宿都心で「カリスマ書店員」を気取る幼稚な馬鹿はどうでもいい(笑)。

泡立つ声の水面

2010年09月19日 | Weblog
RT @hazuma_bot:存在論は二重襞性(クラインの管)を扱い、グラマトロジーは二枚重ね性(裏打ちされ剥離するDa)を扱う。存在者と存在のあいだの存在論的差異のかわりに、シニフィアンとエクリチュール、存在者とその幽霊とのあいだの差延が、声の水面を微細に泡立たせ続ける。(東浩紀著『存在論的、郵便的』304ページ)

 声の水面を泡立たせるだと......。ていうか、『シン・レッド・ライン』で日本兵に囲まれたウィットが何故か銃を上げてしまう件のシーンに、何事かの「差延」の働きを感じるのは気のせいなのか。その表情からも推測されるのは、そのときウィットは「音が聞こえていない」ということ。ではそもそも「差延」とは何か。初登場の高橋哲哉にキーワード解説してもらおう。

RT @TetsuyaTakahashi_bot:空間的差異化=間化(espacement)であるとともに、時間的差異化=待機(temporisation)でもあるような「諸差異の産出の運動」を表わし、differenceとdifferanceの差異は、発音上はまったく同じため声によっては知覚されず、文字として書かれてはじめて意味をもつことから、形而上学の音声中心主義が抹消してきた差異の運動、原エクリチュールの運動を象徴するとされる。(高橋哲哉著『デリダ』311ページ)

第9地区

2010年09月19日 | Weblog
 この南アフリカのヨハネスブルグ上空に浮かび上がった巨大UFOの姿は、それだけで十分に見る者の想像力をかきたててくるが、困ったことに監督のピーター・ジャクソンには、ほとんど小学生程度の想像力しかなかったようである。DVDを観始めてすぐに2倍速にし、次いで3倍速にして、およそ10分程度で鑑賞を終えた。地方のケーブル局の番組制作者が作ったシロモノだ、と言ってしまえばケーブル局に失礼だろう。これならまだ『エイリアンVSプレデター』のほうが楽しめるが、驚くべきことに、これほどのクソ映画に高得点を付けている大人が少なからずいるのである。なにしろ3倍速で観ていたので分からなかったが、とすると、もしかしたら傑作だった可能性もある。倍速のなかで見かけたあのエイリアンの子供の涙には、何か特別に深い意味がこめられていたのだろうか。誰かこの映画のどこに見所があるのか教えてくれないか。言われたとおりに見直してみるからさ......。

蜘蛛の網

2010年09月18日 | Weblog
>そのとき、蜘蛛の身体と蠅の身体の境界は緩やかに浸透している。蜘蛛と蠅は、ばらばらな身体であると同時に、網状の「大地」を通して同じ振動を共有する、「ひとつの」身体を構成している。まるで例えば、馬と馬に乗る人が、振動の同期を通して、ひとつの「人馬」という個体性へと生成するように。もちろん、ジョロウグモと蠅との振動的・接触的関係は捕食的なものであり、蠅はジョロウグモにすぐさま食われてしまいます。しかし可能的には、ここには、蜘蛛と蠅が、触覚的な交渉を通して、それぞれの認識論的閉鎖性を超えて、ばらばらでありながら「ひとつ」になる場が示されているということもできるでしょう。(平倉圭プレゼンテーション『蜘蛛のスクリーン』より)

 その名作ぶりがあらためて確認されたテレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』だが、このクライマックスで主人公の兵士ウィットは、どう見ても「蜘蛛の網」に引っかかっている(その直前のシーンでは日本軍による威嚇砲撃が、おそらく蜘蛛と蠅との「振動的」な関係(ジャーキング)を示しており、しかもそこで通信兵がケーブルの「断線」を告げている)。「お前か、俺の戦友を殺したのは。俺はお前を殺したくない。降伏しろ」。兵士ウィットを取り囲んだ日本兵のうち、ひとりが横に走り抜けていくのが見える。放射状に開くヤシの葉、そして泡立つ海水面......。この映画の分析成果を持ち帰り、ふたたび「けるけないの森」の探索に出かけることにしよう。

痩せたもの

2010年09月18日 | Weblog
RT @hazuma_bot:アウシュヴィッツでガリガリに痩せてしまった極限状態の囚人たちを、彼(アガンベン)は「ムーゼルマン」(イスラム教徒)と呼ぶのですが、彼にとって、人間性が剥奪され、動物的な「生」そのものが突出してくる局面の範例は、この収容所的な極限状態にほかならない。これは確かに大事な問題なのですが、そういう「動物化」というのは、思想的に理解しやすいというか、高尚な感じがするので問題にしやすいと思うのです。(東浩紀談『自由を考える』38ページ)

 ときに書店におもむき、柄でもなく文芸雑誌なんぞを手に取った時いつも思うのは、どうしてこんなに「痩せて」いるのかということである。文芸や思想の雑誌は、そのデザインやレイアウトが、とにかく貧しくて痩せている。挿絵の線も細く、枯れて干からびた趣向だ。それはあたかも、ガリガリに痩せたフォーマットでなければ、ものを書いたり考えたりしたことの価値がそこで測れなくなるかのようである。もしここで人文学における「本」というものを「収容所」との類比から考えたみた場合、文芸や思想の雑誌は、だから貧しく痩せたスタイルを好むのではないだろうか。昨今、極めて色とりどりの雑誌が並ぶ書店の棚で、純文学や思想の雑誌はいまだ高尚であろうとするがゆえ、その20世紀的なスタイルの「絶滅収容所」から脱出できずにいるのかもしれない。しかしそんなものに未来などあるだろうか?(写真はアンゼルム・キーファー)

文明の光と影とストライプ

2010年09月17日 | Weblog
 1995年に川久保玲がパリのショーで発表したコム・デ・ギャルソンの服は、そのストライプ柄がアウシュヴィッツの囚人服を思わせることから物議をかもし、ユダヤ人団体からなどの抗議を受けて、のち販売も停止された。華やかなショーの舞台にホロコーストの悪夢が紛れ込んだわけだが、真に困惑すべきはその後、これらアウシュヴィッツの囚人たちの写真が何か別のものに見えてくることである。ミニマルなストライプのイメージが、光と影、夢と現実、そして生と死のコントラストを貫通し、それらの二項対立を侵食しつつ解除させようとしているかのようである。むろんヨーロッパではホロコーストをネタにすることはタブーだが、この前衛的なデザイナーはこのとき、何かしら歴史的記憶に対する挑戦を行ったのではないだろうか。それはアートやデザインだからこそできる、文明転換への第一歩なのかもしれない。(参考

セックス&ヴァイオレンス

2010年09月16日 | Weblog
>ラスコー洞窟は芸術の発端であるという言説がよくなされますが、ラスコー洞窟はヴァイオレンスとセックスだと言ったのは、バタイユが唯一だと思います。それが芸術と宗教の始原の場である洞窟のなかで行われ、幻想のスクリーンに映し出されていたと思う。(中沢新一談『ヴァナキュラー・イメージの人類学』172ページ)

 セックス&ヴァイオレンス、エロス&タナトス。どのみちバタイユをスルーしてしまうことなどできない相談だが、日本では悪評高い村上隆のこの「エロス・フィギア」は、それを生み出した日本文化の歴史的な「イタさ」と結びついている。村上隆はアート界のセレブとなった今でも「僕はオタクだ」と主張し続けているが、それは自分のアートがその日本特有の「イタさ」とけっして切り離すことができないことを知っているからだろう。当のオタクたちが感じることのないであろうその「イタさ」を、村上隆は「本物のオタクではない」がゆえに痛感することができるのではないだろうか。この恥ずかしい「エロス・フィギア」は、何か途方もないヴァイオレンスをそのイメージの始原として、幻想のスクリーン上に映し出されている。

大地の魔術師たち

2010年09月14日 | Weblog
 モンド映画といえばイタリアだが、この1975年に制作された『Journey Into The Beyond』(英語タイトル)は珍しくドイツの映画である。日本でもオカルトブームたけなわの1976年に『超常現象の世界』というタイトルで劇場公開されており、それなりの評判をとったらしい。見所は、アフリカの祈祷師による空中浮揚のシーンである。カメラが浮いた祈祷師の後ろに回りこみ、トリックが無いことを証明する。しかし背中を写さないのはワイヤーで吊っているのを見せないためだろうが(爆)、そんな種明かしはともかく、このシーンで注目すべきは、二台のカメラが祈祷師の姿を立体的(三次元的)に浮かび上がらせようとしている点と、もうひとつ、大地からの浮揚が精神医学の言うところの「解離」を示しているらしき点である。トレーラーからも分かるように、この映画はひたすら「痛い」映画であり、この身体的な「痛さ」と精神との「解離」的な関係については何を今さら、斉藤環にでも尋ねてみればよい。......というわけで何が言いたいのかというと、日本ではオタクたちに評判の悪い村上隆の「ヒロポンちゃん」等の立体エロ作品が、実はこの大地から浮揚する祈祷師の立体イメージに近いのだということ。まずそのことを言っておきたいのである。(続く)

【訂正】「乖離」を「解離」に直した

村上隆とセルフオリエンタリズム?

2010年09月12日 | Weblog
RT @inumash:「現代美術の文脈」で村上隆を批評するならば、“セルフ・オリエンタリズム”という概念をベースにすることでその大枠は理解することができる。(Togetter「村上隆とセルフオリエンタリズム」より)

 @inumash氏は他のイナゴ達に比べてまだマトモだと思うが、しかし一連のツイートでせっかく(彦坂のコピペとはいえ)『アフリカン・リミックス』展を取り上げておきながら、そんな陳腐な結論は無いと思う。というのも、ご存知のように『アフリカン・リミックス』展には、1989年の『大地の魔術師たち』展の企画責任者であったジャン=ユベール・マルタンが関わっていたからだ。マルタンらの『大地の魔術師たち』展がいまだ重要なのは、いわゆる「多文化主義」をベタに主張したからだけではなく、そのリミックスがなぜ可能になったのか?というメタな問いかけを含んでいたからである。セルフ・オリエンタリズムなりマルチ・カルチュラリズムといった見かけ上の「イズム」を可能にする「文化的地層の大変動」を捉えなければならない。村上隆のアートも、その「大地(データベース)」と「魔術師(シミュラークル)」の二層構造の延長線上に位置づけられるのであり、そう考えることで、彦坂的なイデオロギー批判を超えた村上作品への真の批評が可能になってくるだろう。

別の次元

2010年09月05日 | Weblog
 ニコニコ動画でピーター・ハイアムズの『カプリコン1』(1977年)を観る。この映画の名作ぶりは、有人火星着陸のシーンで流される大統領のメッセージに尽きている。「諸君は、遥か彼方だ。光でさえ20分も要する距離だ。距離だけでない、時間も超越している。別の次元だ。諸君は未来という時間にいるのだ。......諸君は我々の真実であり現実だ」 2010年の今日、確かに私たちは1977年にハイアムズの予告した未来、その「別の次元」を生きている。それは人間の秘める「偉大な可能性」により開かれた別世界である。大統領は続ける。「我々は小さな種族だ。しかし可能性を秘めている。カプリコンの諸君は、その偉大な可能性を、今ここに示してくれたのだ」 そういえば初音ミクのコンサートも大成功なのだった。

ボイスとウォーホル

2010年09月05日 | Weblog


>ド・デューヴは、ウォーホルとボイスの中に奇妙な一致点を見出している。それは、一見相反する二人のロジックがいずれもひとつの政治経済学、一種の経済主義とでも呼ぶべき論理の中で機能しているという点である。それは、資本によって前衛が包摂された時代のコインの両面だったのかもしれない。現在においてボイスを考えなおすとしたら、それはその神話をいまいちど解体し、現代的な文脈に位置づけることにほかならない。(毛利嘉孝著「神話と創造性」より、『ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』(フィルムアート社)127ページ)

 ヨーゼフ・ボイスとアンディ・ウォーホル。このドイツの前衛芸術家とアメリカのポップ・アーティストが、80年代のメディア社会の中では、同じく神話的なポップ・アイコンとして機能していたという事実は興味深いものである。ボイスはウォーホルが肖像作品化した数少ない現代美術家の一人だが、このウォーホルの直感は鋭いものだったと言わざるを得ない。自分とは正反対のボイスに、しかし同じ記号性を見取っていたのだから。

>その意味では、ボイスは、アンディ・ウォーホルのいわばヨーロッパ的な対応物として捉えるべきだろう。ボイスとウォーホルは、戦後美術を語る時にしばしば対比的に語られる。〔...〕けれども、現代美術のメディア・セレブリティという点において、二人の社会的な位置は奇妙にも一致している。(同124ページ)

(続く)

けるけないの森へ その6

2010年09月04日 | Weblog


>彼(ハイデガー)によれば「すべての芸術は本質において詩作であ」り、また「私たちは泉に行き森を通り抜けるとき、つねにすでに『泉』という語、『森』という語を通過している」。そして動物には「世界がないweltlos」。(東浩紀著『存在論的、郵便的』254ページ)

「けるけないの森」というタイトルは、「わけるわけない」という言葉から「わ」だけを抜き、上記ハイデガー由来の「森」に繋げたものである。あずまんの『存在論的、郵便的』によれば、フーコーの「考古学的」記述(例えば「蛇」という語の分析)は、前期ハイデガーとまったく同じ論理展開で進められているという(254~257)。「近代的知は、メタ/オブジェクトのレヴェル分けそのものの産出構造について探求する」(257) ここでおそらく「わ」とは「環」であり、「わける‐わけない」のレヴェル分け自体を産出する環構造としての二重のリング=ダブルバインドの謂いである。そしてダブルバインドの基本が「目と耳のあいだの空間」の経験にあることから(20)、蝶と蜜蜂以外に、この「森」に目の見えない蜘蛛と、耳の聞こえない蛇の気配がするのは気のせいではない。蝶、蜜蜂、蜘蛛、蛇......こいつらは深い。

声なき世界から

2010年09月02日 | Weblog
RT @hazuma:ネットは「声なき世界」で、匿名性の世界です。中学生とか高校生でも、ネット上の文章をカット・アンド・ペーストしていけば、大学教授が書いたような評論が短いものなら書けてしまう。ネットの日本語はとても偽装が簡単なエクリチュールです。そして、そこにはなにか深い意味がある。それはひとつには、評論を書いたり、もしくは物語を書いたりすることのハードルが下がっているということを意味している。会ってしゃべる、手で書く、もしくはワープロで書いて文芸誌に送る。リアルでそういう作業を行うと、文学的教養がない「厨房」の、ネット用語で言うところの「DQN」の限界はすぐ分かってしまう。比喩的に言えば「声」を出せば分かってしまう。ところが、ネットではそういうところは全部隠されて文章だけが載る。そうすると偽装できてしまう。(東浩紀談、『表象』03号31ページ)