SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

ゼロアカ道場の廣田周作

2009年06月26日 | Weblog
>「東浩紀のゼロアカ道場」の「ゼロ」は、むろん「ゼロ年代」の意味です。しかし、そこには、主催者自身も気がつかなかったけれど、もうひとつの意味があったのかもしれません。ゼロ年代のアカデミズムではなく、アカデミズムを「ゼロ」にしてしまう、リセットしてしまうという悪意が。そして、その隠された悪意を、門下生や道場破りのほうがむしろ敏感に感じ取っていたのかもしれません。ぼくはこの四ヶ月のあいだ、門下生や道場破りが、批評の尊厳を完膚なきまでに解体し、ネタにし、地に落として辱めているすがたを眺めながら、ずっとそんなことを考えていました。(東浩紀ゼロアカ本543ページより)

 そしてその悪意は、第六関門に至ってもなお消えることはなかった。道場主の東浩紀からすれば、まさか自分が通した第五関門の合格者の中に、これほどの悪意の持ち主が混ざっていただなんて思いもよらぬことだったろう。それも若い参加者の中では比較的に大人だと思われていた人物が、まさかこんなやり方でゼロアカ道場に嫌がらせをしてくるなんて、およそ信じたくなかったに違いない。たとえ廣田周作がテレビ番組の制作関係者であるということを知っていたにしても、である。
「申し訳ありません、すみません」......この最初のお詫びの言葉から始まる企画会議で廣田は、主催者側の求める批評的な主体性のいっさいを、いきなり放棄してきたのである。しかも、それでいながら自己責任に苦しんでいるそぶりを見せていたりして、いいかげん始末に負えない展開となっている。当然のようにこの廣田の会議は、いまさら批評とは何の関係も無い人生相談に終始することになる。
 主催者側からすれば、この第六関門に及んで、もはやゼロアカ道場をネタとして終わらせることなどできないのである。ゆえにここでは、廣田のそれがネタと分かっていながらもベタに応じるほかないという、何か深刻な事態に陥っているのではないだろうか。

http://shop.kodansha.jp/bc/kodansha-box/zeroaka/kanmon_06.html

インランド・エンパイア18

2009年06月20日 | Weblog
 何か微妙に間違った気もするが、とにかくリンチはそこで、引っ越してきたローラと「不気味な出会い」(フロイト)をしてしまい、その体験が『インランド・エンパイア』を制作する動機となったと考えてよい。下の文章は、そのときリンチに起きたこと、そしてこの映画内で起きていることの基本的な説明にもなっていると思われる。そろそろフロイトから電話がありそうだ。

>この文脈においては、「不気味な出会い」の体験は、私たちの心の内部を走る諸経路の複数性、情報処理の並行性を私たち自身にはっきり自覚させる体験として解釈できる。私たちは通常、自分をひとりの人間だと考えている。それはつまり、心に宿る情報処理装置がひとつだと考えていることを意味する。しかし前述の体験において私たちは、意識とは無関係に処理された別の情報が、やや遅れて意識へと回帰する現象に出会ってしまう。そのとき私たちは、心が分散されていること、実際に存在するのは、無数の情報がその内部を走るニューラル・ネットワークでしかないことを知らされる。その分散状態の再認こそが「不気味さ」と呼ばれる特殊な感情を引き起こすのだ。(東浩紀『情報環境論集S』230ページ「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」より抜粋)

インランド・エンパイア17

2009年06月18日 | Weblog
 ローラが「引越しの挨拶」に来たときリンチに起こったことは、つまりフロイトのいうところの「不気味なものの経験」である。リンチが家で女優ローラについて何かしら考えていたときに、そのローラ当人が突然「引越しの挨拶」をしにやって来たのだ。おそらくリンチは同じ町にローラが引っ越してきたことをすでに知っていた。あるいはローラの姿を町で見かけたが、しかしその知覚自体は感情的な動機により抑圧され、意識にのぼらない。にもかかわらず他方で、その情報を受け取った無意識は独自に連想の糸をたどり、ローラのことを心にのぼらせる。つまり一つの情報が二つに分割され、別々の回路で処理される。そしてそのあいだにリンチとローラの距離が近づく。結果としてリンチは、ちょうどローラについて考えていたとき、まさにその当人から声を掛けられることになったのである。

>ここでは「不気味なもの」の経験、つまり非世界的存在についての経験が、情報を処理する複数の回路(目‐意識と目‐無意識、さらに耳‐意識)の衝突、あるいは速度のずれの効果として見事に説明されている。以上のフロイトの分析はそのまま、『マルクスの亡霊たち』でデリダが「目庇効果(まびさしこうか)」――向こうからは見えるがこちらからは見えない――と呼んだ幽霊特有の性質、つまり声‐意識(フォネー)に一方的に侵入する幽霊の能動性についてのすぐれた解説にもなっていると思われる。(東浩紀『存在論的、郵便的』188ページより抜粋)

インランド・エンパイア16

2009年06月17日 | Weblog
 東浩紀は対談集『不過視なものの世界』で、「索引的」なゴダールの映画と「徴候的」なリンチの映画の違いを、ジャック・デリダのエクリチュール論を通して明快に説明し、対談相手のラカニアン斉藤環を困らせている。

>ここからゴダールとリンチの話に戻りますと、ゴダールが記憶に接続していて、リンチが記憶から切断されているというオン/オフの考え方よりも、むしろゴダールとリンチでは記憶される記号のタイプが違うという言い方のほうがいいと思うんですよ。つまりゴダールにおいては、記憶がシンボルとイメージの分割に沿って整理されている。対してリンチの場合は、シンボルとイメージの区別が付かない。そういうタイプの記憶のあり方を示している。索引的と徴候的の違いを、そのような記号のタイプの違いとして捉えることはできないでしょうか。(『不過視なものの世界』17ページ)

「シンボルとイメージの区別が付かない」というのは、もちろん「目と耳のあいだの空間」が開いているということだが、この対談で興味深いのは、しばらくして「地理的なヒエラルキーの崩壊と援助交際」の話に入っていることである。主体や共同体を作るうえでもジオグラフィック(地理的)なヒエラルキーは重要であり、エドワード・サイードによれば、そのとき必ず「不気味なもの」が外部に排除されるという。しかしサイバー系のメディアは、その地理的なヒエラルキーを壊してしまう。ポケベルや携帯電話という地理的な感覚を撹乱するメディアなくしては、遠く知らないオジサンといきなりセックスするなんてことは起こりえないというわけだ。東は言う。「ジオグラフィックな構造が壊れると分裂病になるというのであれば、身体を中心とした地理的感覚と象徴界の機能には、何か深い関係があるということですから」......統合失調的(分裂病的)といわれる『インランド・エンパイア』制作の発端は、女優のローラ・ダーンが、たまたまリンチの家の近くに引っ越してきたことにあるとされている。そして映画内でそのローラ演じるニッキーの統合失調的な混乱もまた、あの不気味な婆さんが「引越しの挨拶」をしにきたことから始まっている。ローラがリンチの家に「引越しの挨拶」をしにきたとき、はたしてリンチの精神に何が起きたのか? たぶん、この映画を観たとおりのことが起きたのではないだろうか。(続く)

インランド・エンパイア15

2009年06月14日 | Weblog
 ジル・ドゥルーズから電話。「あ、昨日はどうも。おかげで理解が進みましたよ」と言うと、ジルはこう言った。「そうか、いまカフカに代わるから」。私はあわてて電話を切った。さすがにカフカは怖いだろ......。しかしジルの指摘する「移動装置の上に亡霊機械を置いてみてはどうか」という以下の「カフカの示唆」は、ヴェンタースの映画のみならず、リンチの『インランド・エンパイア』にとっても重要ではないのか。

>カフカは、テクノロジーの二つの系列を、それも二つながらそろって近代的な系列を区別していた。すなわち、一方は、移動―コミュニケーションの諸手段であり、それらは、空間と時間のなかへのわたしたちの挿入と、そこでのわたしたちの獲得物を保証するものである(船、自動車、列車、飛行機......)。他方は、表現―コミュニケーションの諸手段であり、それらは、わたしたちの進路に亡霊たちを呼び起こし、わたしたちを、座標外の非協調的ないくつもの情動へと偏らせるものである(手紙、電話、ラジオ、すべての想像しうる「パーロフォン)と映画装置......)。それは、カフカの理論ではなく、彼の日常の経験であった。(ジル・ドゥルーズ著『シネマ1』第6章「感情イメージ―顔とクロースアップ」178ページより)

>カフカは〔二つのセリーの〕様々な混合をつくってみてはどうかと、すなわち移動装置の上に亡霊機械を置いてみてはどうかと示唆していた。これはその時代にはとても新しいことであった――列車内の電話、船上のポスト、飛行機内の映画。それはまた映画の歴史の全体ではないだろうか――レールの上のカメラ、自転車の上のカメラ、航空機のカメラ等々。(同179ページより)

インランド・エンパイア14

2009年06月12日 | Weblog
 部屋でひとりで瞑想していたら、突然ジル・ドゥルーズから電話がかかってた。ジルは「俺の『シネマ1』を読んでみろ」と、ただそれだけ言って電話を切った。愛犬のチャーリー(柴犬オス8歳)がすっかり怯えているが、最近いろいろな人から電話がかかってくるようになったのだ。さっそく『シネマ1』を読んでみた。

「孤立した顔の表現は、それ自体で理解されうるひとつの全体であり、思考によっても、空間と時間に属するものに関しても、その全体に付け加えるべきものは何もない。たったいま群集のただなかに見えていた顔が、その周囲から切り離されて浮き彫りにされるとき、わたしたちは、あたかも突然その顔と向かい合っているかのようになる。あるいはさらに、顔が以前には大きな部屋のなかで見えていたとしても、クロースアップでその顔をじっくり観察するときには、わたしたちはもはやその大きな部屋のことを考えないだろう。というのも、ひとつの顔の表現とこの表現の意味作用には、空間との関連あるいは結びつきはまったく存在しないからである。孤立した顔と向かい合うとき、わたしたちは空間を知覚することはない。空間に関するわたしたちの感覚は消滅している。或る他の秩序に属する次元がわたしたちに開かれるのである」(ベラ・バラージュ『映画の理論』78~79ページよりジル・ドゥルーズ『シネマ1』第6章「感情イメージ―顔とクロースアップ」から孫引き)

インランド・エンパイア13

2009年06月07日 | Weblog


>散種は、任意のコンテクストからの切断可能性=引用可能性から与えられる。したがってそれは定義上、記号を包む背後や深層によっては保証されない。ならば散種はどこから来たか。私たちがその効果を知るのは、前述したように「目と耳のあいだの空間」、一方に「war」という〈ひとつの同じ〉エクリチュールがあり、他方でそれが〈複数の異なった〉パロールで発音される、そのずれからである。つまり散種の効果は、ひとつの同じエクリチュールが複数の異なったコンテクストのあいだを移動することにより、〈つねに事後的に〉見出される。したがってここで私たちは、まず最初に散種の舞台があり、ついでそれが転倒されて記号の単数性が生じたという線形的な順序を考えることはできない。(東浩紀『存在論的、郵便的』23ページ)

 性的欲望(セクシュアリテ)と懐妊(コミュニケーション)の問題は、そもそも多義性と散種の差異の問題でもあるわけだが、上の「目と耳のあいだの空間」の説明のうちには「移動」という語が使われている(これ以外にも付近22、25ページでの同説明で「移動」という語が使われている)。ジャックのアドバイスをふまえて言えば、リンチのこの映画に「ロコモーション」のシーンが使われたのは、おそらくこの「移動」こそを示すためであろう。そのシーンでは、ロコモーション・ガールズ(それはまた「外傷」をも同時に示す)が、突然パッと消えてどこかに移動してしまうのだった。ひとつの同じエクリチュールが複数の異なったコンテクストのあいだを移動したのである。

インランド・エンパイア12

2009年06月02日 | Weblog
>ニーチェは、いたるところで検証できる明らかなことだが、懐妊の思想家である。この懐妊をニーチェは女のうちに劣らず男のうちにも同様に称讃している。そしてニーチェはたやすく涙を流していたがゆえに、懐妊した女が自分の(まだ生まれていない)子供について話すように自分の思想について語るということがたまたまあったがゆえに、私はニーチェが自分の腹の上に涙を注ぐ姿をしばしば想像するのである。(ジャック・デリダ著『尖筆とエクリチュール』88ページより抜粋)

『インランド・エンパイア』に設定された「裏切りの気配」について、この「懐妊」という脱構築不可能な問題点からこそ考えてみるべきだろう。東浩紀はジャック・デリダのテキスト「送付」に設定された「裏切り行為(浮気)」について、「はっきりした根拠がないので結局は深読みの域を出ない」としながらも、たいへん興味深い推測をおこなっている。大事な話だ。

>意図しない妊娠、およびその結果生まれた子は、正確に、誤配された。つまり誤って「発送=射精」された手紙とその再来のアレゴリーになっている。父にとって子(幽霊)の起源はもはや定かではないが、それは容赦なく「責任」を要求する。そもそも70年代のデリダの理論的中心をなす「散種」自体が、彼自身述べるようにきわめて生殖的含意の強い隠喩だった。したがって彼の考える「性」は一貫して、フーコー的な性的欲望(セクシユアリテ・主体の構成)の問題系よりも、むしろ生殖や妊娠(コミュニケーション)の問題系へと連なっているように思われる。(『存在論的、郵便的』167ページ)