SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

ほんとうの批評の話をしよう

2010年06月20日 | Weblog
>針生先生は、戦後の出発において、抵抗の拠点として、主体性などはまったく意味がないと自覚した、と言われました。むしろ抵抗とは物質、つまり主体によってはコントロールできない身体と、そこに付随する感性によってこそ可能なのだと。だから文学よりも美術批評に力を入れるようになったと。抵抗は主体でも意識でもなく、主体すらも逆らえない物質、身体こそが行う。すなわち物質に準ずる。それが針生先生の思想であり、日常の実践そのものだった。(岡崎乾二郎の弔辞より)

  美術批評の殿堂入りたる岡崎乾二郎をしてもなお「申し訳ありません」と言わしめるもの、それこそが「批評」の真実である。真の批評的感性は、物質に準ずる身体の次元から発揮される。それゆえ針生一郎は、文学よりも美術批評を重視したという。私たちは、6月26日から藝大で始まる連続公開ディスカッションに向けて、もっと気合を入れるべきだろう。ほんとうの批評の話をするために。

>とくに外国語に関心をもたなくなったのは大問題です。外国語だと、なかなか物語を読み取れない、かわりにディティールにこだわらざるをえず、そこに露呈した無意識の構造を読み解くことになったりもする。真の批評というのは物語ではなく、そういうところへの着目から発生するんだと思うんだけれど。(浅田彰談『朝日ジャーナル』09年4・30緊急増刊号25ページより)

もうひとりのモーセ

2010年06月20日 | Weblog


>モーセの特徴に関して書き添えられている別の事柄もわれわれの関心を特別に惹く力を持っている。モーセは「口下手」だったとの一件である。つまりモーセは上手に話すことができず言い間違いをしやすかったわけで、それだからこそ、いわゆるファラオとの談判に際して彼の兄弟とされるアロンの助けを必要とした。これもまた真実であったかもしれないし、この偉大なる男の相貌に生気を与えるためには好都合な話かもしれない。しかし、これはまた、別のもっと重要な意味を持っている。この記録は、モーセがユダヤ人とは言語を異にする人物であって、彼に従ったセム計の新エジプト人とは、少なくともはじめのころは、通訳なしでは交流しえなかった事実を軽く歪曲して物語っているのかもしれない。それゆえこれはわれわれの主張する命題の正しさを裏づける。モーセはひとりのエジプト人であった、ということを。(ジークムント・フロイト著『モーセと一神教』59ページ)

 何が言いたいのかって? そのうち分かるさ。このテキストは読み易いものだけれども、しかしあのフロイトが書いているからね。普通に読んでいてもダメだろうね。おそらくフロイトは「もうひとりのモーセ」について、何かトンデモないものを予感していたと思うよ。それが何であるのか特定することはなかったのだけれども。