SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

等身大の約束

2007年02月26日 | Weblog
>MOTアニュアル「等身大の約束」。あまりに下らないので三秒で通り抜けた(誇張)。最近の「現代美術」って、美術としてあるべき最低限の、形式や、形態や、空間に対する緊張感というのが全くなくて、つまり作品としての「質」をつくり出そうという気持ちがはじめからないとしか思えなくて、ただ、デパートの売り場以下の出来の悪いディスプレイと、観光地のお土産物レベルの工芸品と、お絵描きレベルのペイントと、テレビのニュースショーレベルの社会性と、「詩とメルヘン」レベルの「私語り」があるばかりなのだ。まったくバカバカしい。(加藤泉という作家は、前はもっと面白い作品をつくっていたはずだけど、今の作品は全然ダメだと思う。)(古谷利裕の偽日記07/02/21(水)より抜粋)

 ならば加藤泉はただちに「前」に戻るべきだろうか。あるいはそうすることで加藤の作品は「今」よりも面白くなるのだろうか。しかしそれはできない相談だろう。今の自分に嘘をついてまで作品を作り続ける理由などない。作品の「質」とは、意識的な「気持ち」の作用などによってコントロールできるものではない。いまの作品が「全然ダメだ」と人から言われたとしても、作家にはどうしようもない。この瞬間にも作品を作り続けている作家には、自分の作品の「今」と「昔」を比べている暇などないのだ。どんなジャンルのどんな時代の作家にも、おそらく良い時期と悪い時期がある。しかし当の作家には、そんなこと判らないし、判る必要もない。むしろ判ってしまえば、そのとき芸術は、現在の「絵画のフォーマリズム」のごときの「芸事」に堕すだろう。形式に対する自家撞着、形態に対する自己模倣、そして空間に対する弛緩によって「絵画のフォーマリズム」は、芸術を前例のうちに停滞させた。モダニズムの暇人たちが、あの馬鹿共が、絵画をダメにしたのだ。しかしそんなことは加藤には何の関係もないことだ。加藤の堕胎させた「胎児」はいまやキャラクターにまで成長し、ついに絵画を超えた新しい表現体として一人歩きし始めている。実に素晴らしい。これからの展開に期待したい。

過剰な生

2007年02月18日 | Weblog
 社会学者の大澤真幸は「宇宙船地球号は、1986年のチャレンジャーから切り離された乗車キャビンである」と題されたテキストで、過剰な生(死の確実性を信じて生きる時間)を理解することの恐ろしさについて述べている。あのときチャレンジャーの乗組員達は、「信」を「知」とは逆立した形式で――つまり「にもかかわらず」という形式で――措定することができない時間を過ごした。アメリカ国民が「集団的に否認」したこの過剰な生は、しかしのち幻想の創作としてポピュラー文化の中などに「回帰」しているという。ところでチャレンジャーの乗組員達が体験したとされる過剰な生の時間は、およそ3分から5分くらいである。その時間に「染まって」しまう余裕はなさそうだ。

『不鮮明の歴史』第二章まで読む

2007年02月17日 | Weblog
>写真がもし、森羅万象を愛していたもっと早い世紀に発見されていたら、他のあらゆる画像形式を、特に絵画を、完全に駆逐してさえいたかもしれない。(『不鮮明の歴史』P38)
 
『不鮮明の歴史』に掲載されているゲルハルト・リヒターの作品図版を観ただけで、もうそれだけでこのテキストの論議を警戒していた人もいるだろう。そして第二章最後のこの挑発的な文句を受けてはっきりと何かを確信し、「おれ嫌だよ、そういう話はもうたくさんだよ」と、これ以上の読書を止めようとする人もいるだろう。だがご心配なく。このテキストの論題は「絵画の死」ではない。19世紀ロマン派以降の絵画史と並行していたであろう「不鮮明の歴史」を、すぐのちの「絵画的写真」の展開から読み解くことで、まずは「近代芸術が歩んだ抽象化に対する見方が変更を迫られることになるだろう」(P8)、という問題提起をしてみせているのである。我々が普通に学んだ絵画の歴史とは異なるもうひとつの歴史がある。絵画を生かしたその歴史は、同時に絵画を殺そうともしていた......。この読書会はまだ始まったばかりです。若気の至りのなせる妄想だといわず、どうぞ最後までお付き合いください。

砂漠で哲学する

2007年02月12日 | Weblog
>一方で東氏は、「都心に住むのは、思想的に敗北という感じもしますね。ショッピングセンターとファミレスしかない荒れ果てた郊外で日本社会が崩壊していくさまを肌で感じないと、批評なんて書けない感じがする(笑)」という発言もするのだが、これもちょっと格好付け過ぎみたいに思える。(古谷利裕の偽日記07/02/09(金)より抜粋)

 いや、フランス現代思想の研究者としてはそう言うほかない。そもそもフランス現代思想のほんとうの真価が問われたのはアメリカという思想的郊外においてだった。そしてそのフランス現代思想が日本で大流行した理由も、実はその社会背景にすでに大きな変化(ポストモダン化)が生じていたからだろう。パリの監獄で哲学に目覚めたベルナール・スティグレールと、日本の郊外で哲学に目覚めた東のアニキとでは、同じデリダ派にしても何かが決定的に違う。環境管理の進んだ郊外で何故か哲学に目覚めた東のアニキは、そこでほとんどグレッグ・イーガン的なまでの悪夢をリアルに見ていたはずだ。なにしろ人文学から最も遠い場所で苦悶するのが東のアニキの真骨頂だ。いますぐ砂漠に出るべきだろう。『情報自由論』も西荻窪なんかに居たから失敗したのだ。
 ていうか明日から読書会のほう始めますので夜露死苦。

第一回ネット読書会のお知らせ

2007年02月07日 | Weblog
 第一回インターネット読書会を開催します。期間は来週連休明けの13日から28日まで。場所は当ブログのヴァーチャルスペースにて。テキストはヴォルフガング・ウルリヒの著『不鮮明の歴史』(ブリュッケ)です。図書館で借りるなりネット通販に注文するなりして事前に準備しておいてください。参加資格などは特にありませんが、冷やかしやまやかしの方はご遠慮ください。このウルリヒの著作は、「我々は往々にして、不鮮明な像こそ必要としているのではないか?」という哲学者ヴィトゲンシュタインの疑問に答えようとするものです。我々がかくも「不鮮明」なイメージを求め続ける理由はいったい何なのか?この読書会への参加が義務付けられている坂中亮太氏と共に考えてみようではありませんか。

THE THRILL OF IT ALL

2007年02月06日 | Weblog
 川俣正氏は作家活動を開始する前に、これから発表する自分の作品と同じような作品がこれまでに存在していないか、過去に美術雑誌などに掲載された写真資料を可能な限り数多く閲覧調査したという。幸いにして同じような作品は発見されなかった。だがもし、そこで不幸にして同じような作品が発見されたのであれば、当然、川俣氏は自分の作品の発表を控えただろう。そして異なる別の作品を創るために再度、これまでの美術作品のアーカイヴに登録されていないものを探しただろう。川俣氏の時代には、そのオリジナルへの逆算を可能にするアーカイヴが機能していたのだ。だが僕達の時代にはもう機能していない。アーカイヴは失われ、僕達は過去の不在を忘れてしまった。それと違うものを探すことはもうできない。それだけが世界の全てになってしまったのだ。掲載図版はカリン・ハンセンの「Time of your Life」。連作「THE THRILL OF IT ALL」からの一枚である。

萌えとクオリア

2007年02月05日 | Weblog
>現在、その世界への浸透力が注目されている日本のオタク文化における「萌え」の要素も、クオリアに対する感性の表れである。(茂木健一郎「クオリア立国マニフェスト」より抜粋)

 嘘ばっか言ってんじゃねーよ(爆)。もしそうならクオリアの背後にあるのはデータベースだということになる。しかし東浩紀の説明によればデータベースというのは、すこぶる「乾いて」いる。それに対してクオリアの印象というのは、逆にかなり「湿って」いる。人間的にウェットな感覚としてのクオリアと、機械的にドライな反応としての萌えは、その原理において似て非なるものである。もちろん萌えもクオリアも、人間のいない社会環境において発症するという点ではよく似ているわけだが、どう考えても眼鏡とか猫耳とかフリルはクオリアの対象とはならないだろう。

今度は池田晶子との対決を

2007年02月04日 | Weblog
 もしモギケンが斎藤環との対談を「なんだか薄気味悪くて嫌だ」と拒否するのであれば、かわりに哲学者の池田晶子とならどうだろう。ただし池田による脳ブーム批判は斎藤のそれと比べても容赦ないものである。たとえば池田の著『知ることより考えること』(新潮社)に収められた脳科学ブームを罵る言葉は、ここに引用するのが躊躇われるほど口汚いものだ。すでに高橋悠治との対談で目に涙を浮かべていたモギケンは、今度は池田のキツさに耐え切れずに、わんわんと泣き出してしまうかもしれない。とにかくモギケンが「俺は議論で負けたことなど無い」と豪語するのであれば、ぜひ今度は池田晶子との対談デスマッチに挑んでもらいたい。ひとりで怖ければ、おしら様哲学者の塩谷賢と一緒でも構わない。自分にとって安全な人達と愉しく対談しながら逃げているばかりでは駄目だろう。