>MOTアニュアル「等身大の約束」。あまりに下らないので三秒で通り抜けた(誇張)。最近の「現代美術」って、美術としてあるべき最低限の、形式や、形態や、空間に対する緊張感というのが全くなくて、つまり作品としての「質」をつくり出そうという気持ちがはじめからないとしか思えなくて、ただ、デパートの売り場以下の出来の悪いディスプレイと、観光地のお土産物レベルの工芸品と、お絵描きレベルのペイントと、テレビのニュースショーレベルの社会性と、「詩とメルヘン」レベルの「私語り」があるばかりなのだ。まったくバカバカしい。(加藤泉という作家は、前はもっと面白い作品をつくっていたはずだけど、今の作品は全然ダメだと思う。)(古谷利裕の偽日記07/02/21(水)より抜粋)
ならば加藤泉はただちに「前」に戻るべきだろうか。あるいはそうすることで加藤の作品は「今」よりも面白くなるのだろうか。しかしそれはできない相談だろう。今の自分に嘘をついてまで作品を作り続ける理由などない。作品の「質」とは、意識的な「気持ち」の作用などによってコントロールできるものではない。いまの作品が「全然ダメだ」と人から言われたとしても、作家にはどうしようもない。この瞬間にも作品を作り続けている作家には、自分の作品の「今」と「昔」を比べている暇などないのだ。どんなジャンルのどんな時代の作家にも、おそらく良い時期と悪い時期がある。しかし当の作家には、そんなこと判らないし、判る必要もない。むしろ判ってしまえば、そのとき芸術は、現在の「絵画のフォーマリズム」のごときの「芸事」に堕すだろう。形式に対する自家撞着、形態に対する自己模倣、そして空間に対する弛緩によって「絵画のフォーマリズム」は、芸術を前例のうちに停滞させた。モダニズムの暇人たちが、あの馬鹿共が、絵画をダメにしたのだ。しかしそんなことは加藤には何の関係もないことだ。加藤の堕胎させた「胎児」はいまやキャラクターにまで成長し、ついに絵画を超えた新しい表現体として一人歩きし始めている。実に素晴らしい。これからの展開に期待したい。
ならば加藤泉はただちに「前」に戻るべきだろうか。あるいはそうすることで加藤の作品は「今」よりも面白くなるのだろうか。しかしそれはできない相談だろう。今の自分に嘘をついてまで作品を作り続ける理由などない。作品の「質」とは、意識的な「気持ち」の作用などによってコントロールできるものではない。いまの作品が「全然ダメだ」と人から言われたとしても、作家にはどうしようもない。この瞬間にも作品を作り続けている作家には、自分の作品の「今」と「昔」を比べている暇などないのだ。どんなジャンルのどんな時代の作家にも、おそらく良い時期と悪い時期がある。しかし当の作家には、そんなこと判らないし、判る必要もない。むしろ判ってしまえば、そのとき芸術は、現在の「絵画のフォーマリズム」のごときの「芸事」に堕すだろう。形式に対する自家撞着、形態に対する自己模倣、そして空間に対する弛緩によって「絵画のフォーマリズム」は、芸術を前例のうちに停滞させた。モダニズムの暇人たちが、あの馬鹿共が、絵画をダメにしたのだ。しかしそんなことは加藤には何の関係もないことだ。加藤の堕胎させた「胎児」はいまやキャラクターにまで成長し、ついに絵画を超えた新しい表現体として一人歩きし始めている。実に素晴らしい。これからの展開に期待したい。