SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

国家の品格

2006年02月25日 | Weblog
 藤原正彦氏の著した『国家の品格』(新潮新書)の問題点は、その陳腐な内容や著者の下品な髪型以前に、それが税込714円の「教養新書」として刊行されているという事態にこそある。本来、「国家の品格」という壮大な教義を説く権利を持つのは、「大著」として記された書物だけであり、「新書」にその資格はない。ここで「国家の品格」とは、まずもって「書物の品格」のことであり、歴史の重みは、それが記された書物の物理的な重さとして量られる。そのずっしりとした「物理的な重さ」への実感(謙虚さ)が無いからこそ、いきなり「武士道精神の復活」という陳腐なシミュラークルを物語ることになるのだ。「国家の品格」を税込714円の「新書」で説こうとするのは根本的に間違っている。またそれをキオスクなどで買ってコンビニエンスに読もうとするのも同じように間違っているのだ。「国家の品格」がそんなに安くて手軽なはずはないからだ。

理想の時代の亡霊

2006年02月25日 | Weblog
 愛犬のチャーリィ(柴犬オス6才)が部屋に転がり込んでくる。あの丸亀の松田氏が相変わらず「70年代に拉致されたまま」の発言を繰り返しているという。

>アートとはだ!社会のグランドデザイン!新しい価値観を作って、未来をデザインする、、これって素晴らしい仕事だよね?? 未来社会をデザインするような仕事をしたい。。(2006年02月22日

 チャーリィが鼻で笑っているが無理も無い。このような「理想」への夢語りは、「モーレツからビューティフルへ」の変革が唱えられた古き良き時代(1970年代)のユートピア願望でしかない。社会のあらゆるグランドデザイン(全体構想)が原理的に不可能となった今日の時代(1990年代以降)においては、「未来社会をデザインする新しい価値観」という素朴な観念は、もはや無効である。というか「未来社会」という発想自体がヤバい。70年代に潰えた「未来社会」の亡霊にすぎないセグウェイに、もし松田氏が本当に(アイロニー無しで)「未来社会」を期待しているのだとしたら、やはり時代感覚が30年以上遅れているという他ない。そんな「ミスター・オクレ」な人が「現代アートは死んでいる」と言っても説得力は無いだろう。たんに「現代」に応答できない松田氏の感性がすでに死んでいるだけだからだ。

GG・アリン

2006年02月22日 | Weblog
 GG・アリンは史上最悪のアメリカン・ハードロッカーだった。むろん、それだけガッツのある奴だったという賞賛の意味においてである。なにより50回を越える猥褻物陳列罪での逮捕回数が、その事実を証拠立てている。ついに果たされなかったが、毎回「公開自殺」を予告してからステージに上がっていたGGにしてみれば、猥褻物陳列罪など問題外であったのだ。
 ステージに登場した時、GGはすでに全裸だった。そしてマイクは歌うためではなく、観客を殴りつけるために持っていた。当然、演奏が始まったとたん大乱闘である。ふと、それまでGGを取り囲んで殴りつけていた恰幅のいいデスメタルの男達が、とつぜん顔色を変えて逃げ出す。GGがついに脱糞したのだ。こうなると後はGGの独擅場であり、もう誰も手出しはできない。ウンコを全身に塗りこんだGGが、誰彼かまわず観客を追い回し始める。抱きつかれた観客が悲鳴を上げるたびにGGは興奮して自分の頭をマイクで叩きつけ、そのたびに糞と小便と血液があたりに飛散る。トビー・フーパーの『テキサス・チェインソー・マサカー』以来の恐怖であった。
 GG・アリンは結局、念願だった「公開自殺」を果たせずに、1993年にオーバードーズで逝っている。この公式サイトではGGの描いた絵も紹介されている。どうせGGのことだからウンコで描いたんだろうと思って見てみたら、本当にそうだった。なんともGGらしいと言うほかない。なおこちらのサイトでは、GGのラストライブの模様がレポートされている。偶然そこに居合わせたとはいえ、日本人もまだまだ捨てたものではない。

浅田彰の抵抗

2006年02月18日 | Weblog
 うっかり見逃していたのだが、昨年12月半ば頃、『風の旅人』誌編集長の佐伯剛氏と『逃げろや逃げろ、どこまでも』の浅田彰氏との間で、杉本博司の評価をめぐるちょっとした論争があったようである。かつて金井美恵子に「浅田彰は映画的センスが悪い」と言われたことのある浅田氏にしてみれば、ここで今度は「写真的センスも悪い」と判断されるのは、もはや耐え難いことである。なんとか佐伯氏に対して説得を試みようとするが、ほとんど効果は無いようだ。このままだと金井美恵子のときのような失笑を招くことになりかねない。幸い、岡崎乾二郎から「助け舟」が出されたことで何とか「批評家」としての面目を保つことができたが、これからもそう「うまくいく」とは限らないだろう。「批評」の時代はもう終わったのだ。

眠る男、古谷利裕

2006年02月16日 | Weblog
 古谷利裕の06/02/14の偽日記を読んでいて、かつて翻訳家の柳瀬尚紀が、ジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』の第12章「キュクロープス挿話」に登場する「俺」が、実は「犬」なのではないかという説を立てたことを思い出した。昼間から「一日中眠い」とぼやく古谷利裕は、しかし眠っても「めんどくさくて、かったるくて、眠たくて仕方が無い」という夢を見る。体育の授業で走っていて、とにかくもう「眠りたくて仕方がなくなり、その土手をゴロゴロ転げ落ちて下まで行き、転げ落ちたそのままの姿勢で眠ろうとする」のだという。そんな古谷利裕の話からは、なんだか「犬」が匂う。というか、「犬」が似合う。それも、ひらいて、ぬけちゃって、横倒しになったままの姿勢で眠ろうとするタイの野良犬達にそっくりである。その野良犬達は、「糸の切れた操り人形みたいな、くにゃっと潰れたような、あるいは崩れたような、凄く変な姿勢で眠っている」のだ。おそらく古谷利裕はここで、ジェイムズ・ジョイスが小説『ユリシーズ』で「世界の何かを開示した」ように、自分もまた「人間の意図をこえたもの(保坂和志)」を「ひらく」つもりなのだろう。

ガイアナ人民寺院の悲劇

2006年02月12日 | Weblog
「さあ、一緒に救済計画を行なおう。そして、悔いのない死を迎えようではないか」――麻原彰晃のこの布告を聞いたとき、誰もが危惧(というか本当は期待)していたのは、ガイアナ人民寺院の悲劇を前例とするオウム真理教信者の集団自殺である。1978年11月、南米ガイアナのジャングルに移転してもなお続く教団への社会的な圧力や偏見に絶望した人民寺院の教祖ジム・ジョーンズは、ここで1000人以上に及ぶ信者と共に「別世界」へ旅立つことを決意する。この録音は、最後の説法をおこなっているジム・ジョーンズの椅子の下に置かれたテープレコーダーが記録した、人民寺院集団自殺時の実況録音である。最後、およそ900人の信者が倒れているその現場から聞こえてくるのは、不気味なゴスペル音楽だけだ。

The Jonestown Death Tape

チューチュー、ピーピー

2006年02月08日 | Weblog
 1999年11月14日早朝、なのだったマン(古谷利裕)は、ネズミのチューチュー鳴く声で目が覚めた。仕掛けておいた吸着シートに張り付いたネズミが泣いているのだ。やはり殺そ剤スーパーラットポンのほうは食べていないようだ。こうなると自分でこのネズミの息の根を止めねばならなくなる。なのだったマンがここで採ったネズミ殺害の方法とは? 気の弱い人は1999-11-14の偽日記を読まないほうがいい。あまり愉快な話じゃない。ちなみにその4日後には、この吸着シートに小さな子ネズミが7匹も張り付いていたが、幸いにしてみな既に死んでいたらしい。しかしいくら殺し続けても撃退効果は無く、なのだったマンは後にネズミとの全面戦争を覚悟せねばならなくなるのだった。偽日記を記し始めてまだ間もない頃の話である。

世界初シリーズ1

2006年02月07日 | Weblog
【世界初のカラー写真】このセザンヌの絵のような写真は着色写真ではない。1868年に物理学者ジェームス・マックスウェルにより撮影された世界初のカラー写真である。なんだが当時の苦労がしのばれるような色合いの写真ですが、フィルムがかなり色素劣化しているだけで、実際にはもっと綺麗にカラー再現されていたと思われます。ちなみにカラーフィルムの歴史については石川英輔著『総天然色への一世紀』に詳しい。

【世界初の写真】1826年にジョセフ=ニセフォール・ニエプスが、およそ8時間かけてアスファルト感光板に定着させた《窓からの眺め》の写像が、現存する最古の写真であるとされる。見てみますか

【世界初の映画】1895年12月28日、パリのグラン・カフェにてリュミエール兄弟によるシネマトグラフの上映会が催され、「工場の出口」及び「列車の到着」を含む12本の短編映画が世界初の映画として上映された。今更ご案内するまでもありませんね。

【世界初の録音】1877年にエジソンが自分の発明した蓄音機に吹き込んだ「メリーさんの羊」が世界最初の録音とされるが、経年劣化により再生不可能となっている(1927年に再録音)。このため現存する世界最古の録音は、1878年にフランク・ランバートの造った「Talking Clock」に内蔵された、その時報を告げる声の再生音である。ちょっと聴いてみますか

半刈りと丸刈りの約束

2006年02月04日 | Weblog
 椹木野衣をして「<その男>のあとでは、もうやることなんか残ってないんじゃないか?」とさえ言わしめたあの伝説の前衛美術家、榎忠(えのきちゅう/エノチュウ)がついに還ってくる。榎忠のパフォーマンス『ハンガリー国へ半刈(ハンガリ)で行く』(1977年)へのオマージュ『マルガリータ』(1997年)を実行した村上隆先生も、さすがに黙ってはいられない様子だ。要請された榎忠との対談トークイベント(3月18日)を断る理由など無い。ここで「マルガリータ(丸刈り)」のケジメをつけるためにも、「ハンガリー(半刈り)」の榎忠とキッチリ話を付けておく必要があるのだろう。そこには世代を超えた「男と男の約束」があったのだ。>>榎忠展の詳細はこちら

デ・クーニング

2006年02月04日 | Weblog
 なのだったマン(古谷利裕)がデ・クーニングを批判している(06/02/02)。しかしデ・クーニングがアルツハイマー病を長らく患っていたという事実を鑑みれば、むしろ彼が、フレーム内に「穴」をつくらない「普通の絵」を最後まで描こうとしていたことこそが驚異なのではないか。その絵が「単純な構成的抽象絵画のような配置からあまり外れてはいない」ように見えることこそが重要なのではないか。というのも彼は、アルツハイマー病と診断を受ける1970年頃(当時70歳)よりずっと以前から、アルコール依存が原因の記憶障害に苦しんでいたからだ。すでに彼の記憶は穴だらけであり、そのフレームの意識(メタレベル)は壊れかけていたのである。だがアルツハイマー病で亡くなる直前まで、いかにしてか「絵画」というフレームの完全崩壊には至っていないのだ。これは実際、精神医学的にも驚くべきことだろう。ここでデ・クーニングにとっての挑戦とは、フレーム意識という前提の「内から外に出る」ことではなく、逆に「外から内に留まる」ことにあったように思われる。それは画家本人にとって切実な問題だっただろう。そう考えると、比べてリキテンシュタインの絵など、所詮はお気楽なメタゲーム絵画にすぎない。そもそもデ・クーニングとリキテンシュタインを比べることなど、「村上隆とセザンヌを同時に観ること」同様まったく馬鹿げたことだ。もちろん、なのだったマン(古谷利裕)の記憶喪失が今よりもっと進めば、あるいはデ・クーニングの本当の凄さを身をもって理解できるだろう。だがそのときは「形式主義万歳!」などという寝言はもはや通用しない。なにしろあらゆるメタレベルの認知は無くなるのだから。

古谷利裕の悪夢

2006年02月01日 | Weblog
「昼間眠っていて夢をみた。着ている服の袖口のあたりから、粉をふいたような小さな白い虫がぞろぞろと這い出てきたので驚いて服を脱ぐと、身体じゅうからシメジのようなものが生えていた。うわあ、と思って手で払ってみると、それは(買ってきたシメジの塊をほぐすように)簡単にボロリ、ボロリ、と身体から剥がれるのだが、そのボロッと剥がれる感触がすごく嫌な感じで、目が覚めてからもずっと、今もその気持ちの悪い余韻が皮膚の表面に残っている」(古谷利裕の偽日記06/01/25より)

 どうして古谷利裕は昼間から寝ているのかね。だからそんな薄気味の悪い夢を見るのだ。なにが「うわあ」だ。人間は朝起きて、昼間に仕事をして、夜は寝るのだ。そんな当たり前のこともできないのか。とりあえず昼間の寝酒は止めて、マラソンでも水泳でもいいから、何かスポーツをしたほうがいい。思いっきり爽やかな汗をかいてみろ。そうすれば悪夢は止まる。