SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

インランド・エンパイア6

2009年02月27日 | Weblog
>光がある角度で水面に達し、異なった角度でそのなかを進むという現象を考えてみよう。屈折率の違いが原因となって光は方向を変えるという言い方で説明すれば、それは人類の見方で世界を見ていることになる。光は目的地への旅程に要する時間を最小にするという言い方で説明すれば、それはヘプタポッドの見方で世界を見ていることになる。まったく異なる二通りの解釈だ。(テッド・チャン著『あなたの人生の物語』より抜粋)

>「光は適当な方向へ出発しておいて、事後になって進路を変更したりはできないということになる。というのも、そのようなふるまいから生じる経路は可能な最速のものにはならないからだ。光はそもそもの始まりの時点で、すべてを計算していなくてはならない」
 わたしは胸の内で考えた。光線は動き始める方向を選べるようになる前に、最終的に到達する地点を知っていなくてはならない。これには思い当たるふしがある。わたしは目をあげてゲーリーを見た。
「ここのところよ、わたしが変だと感じていたのは」(同)

『インランド・エンパイア』を観て、同様に、私も変だと感じていたのである。この映画が「海洋」的なのは、たぶん「屈折光学」が関わっているからだ。ちなみに『骰子一擲』とは「サイコロの一振り」のことである。これはもしかしてもしかすると......。

インランド・エンパイア5

2009年02月24日 | Weblog


 まるで水中に揺れる魚がガラスを隔てた人間と話をしているかのようだ。スーザンはこの婆さんに凝視されることで、徐々にバラバラになっていく世界をジグザグに進み始めることになる。おそらく保坂和志も古谷利裕もいまだ気付いてはいないだろうが、この凝視の直進性というか直線性というか直接性こそが重要なのである。理由はのち詳しく説明するとして、とりあえずはあの水槽の前でのジャックの発言を思い出しておこう。

「私が考えるのは魚の我慢強さと我慢の無さだ。捕われ、検査され、ガラスに入れられて私と同じ種に属する。魚になった感じだ。ガラスの前に、後ろに、視線の前に立たされて、必要な時間、私は待たされる。よく考えるのは、魚たちの時間経験だ。時に地獄のようにも思える。動物に見つめられるたびに、最初に浮かぶ問いの一つは、この近さと、我々を隔てる無限の距離における時間のことだ。同じ瞬間に生きながら彼らの時間経験は私の経験に翻訳不能。そのうえ彼らは私同様、我慢し、我慢せず、ご主人たちの熱意に従っている」(DVD『デリダ、異境から』より)

インランド・エンパイア4

2009年02月21日 | Weblog


>私たちが書物と呼んでいるもの、西洋の伝統のもとで書物と呼んでいるものにおいては、行を左右に往復しながら追うまなざしと、理解の運動のまなざしが一致することになっている。しかしこうした伝統的な考え方は、たんに分析的な理解の安易さのもとでしか根拠のないものであることを、『骰子一擲』は予感させるのである。(モーリス・ブランショのマラルメ論より)

 マラルメの『骰子一擲』をジグザグに詠むとき、眼球が揺れる。まるで嵐に見舞われた客船に乗っているかのように眼球が揺れるのである。同様に『インランド・エンパイア』を揺るがしているのは、先ず、あの奇妙に挙動不審なカメラワークである。もし、『インランド・エンパイア』というこの映画のタイトルが架空の豪華客船の船名なのだとしたら、その船は難破しかけている。嵐に見舞われて方向を見失い、ジグザグに航海しているのである(ウサギ人間の部屋から聞こえてくるのは不穏な船の汽笛だ)。そしたら上の「海底」のシーンはいったい何を意味するのだろうか。たんなる印象であるにせよ、この映画にとって「海洋」のイメージは何か重要な意味を持っていると思われる。

インランド・エンパイア3

2009年02月16日 | Weblog
 泣いている女の目の涙が見つめているのは、耳の立ったウサギ人間の部屋なのである。どうしたって「目と耳のあいだの空間」を予見しないわけにはいかないだろう。その点で保坂和志のアイデアは文学的レトリックにすぎないのである。その発声された言葉(文字)の置かれた空間の配置については何も考えていないのだ。というわけでマラルメの『骰子一擲』について、毎度おなじみのジャックはこう語る。

>ここではこの集成(ルキユイユ)という語を強調しておきたいと思います。書物のような書き物(エクリチュール)については、その線形性が語られることが多いものですが、『骰子一擲』は海洋と、深淵と、幻覚と、数字と、番号のあらゆる文彩を駆使して、すでにこうした線形性に打撃を与えているのです(これが初めてのことではありませんが)、私がここで、時間性の線形的な連続の順序に従って、このテクストを声を出して読みあげたならば、文字の違いのある部分と、組み版で単語と単語のあいだに置かれた空間の配置を破壊してしまうことになります。この単語の配置は、ページごとの分割とページ番号のきまった順序というものには従わないものなのです。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻32ページより抜粋)

 海洋、深淵、幻覚、数字、番号......これらの文彩が『インランド・エンパイア』のうちにいかに響いているか、とくに説明する必要もないだろう。

インランド・エンパイア2

2009年02月14日 | Weblog


 斉藤環の『文学の断層』13ページにはデヴィット・リンチについて、「本人自身がまずレピッシュな人物なのだ。インタビューにおけるリンチは、あまり多く語らない。寡黙なのではなくて、本当に言葉が貧しいのだ」と書いているが、この講演映像を見る限り、それって斉藤の願望ではないのかと思う。ついでリンチは「魚キット」を作って喜んでいるとも書いてあるが、斉藤がその話を聞いて喜んでいるだけではないのか。保坂和志や古谷利裕にしてもそうだが、なぜそんなふうにリンチ本人のイメージを、自分たちの都合のいいように作りあげようとするのだろうか。『インランド・エンパイア』を本当に理解したいのならば、リンチに萌えるのを止めて、瞑想することだ。いまのゴルフボールのサイズしかない意識を、完全に目覚めさせて拡大することだ。ここでリンチの言っている「完全に目覚めた純粋意識」とは、もしかしたら「新生児の知覚」のことだろうか。

インランド・エンパイア

2009年02月13日 | Weblog


「僕の映画の作り方は、現在の科学と原理は同じで、まずは発見をし、その存在を証明し、そこで一体化する。そこでみんなの心も結ばれるんだ。オリジナルの脚本というものは、このような方法で生み出されていくのだと思ってる」(デヴィッド・リンチの発言より抜粋)

 つまり保坂和志や古谷利裕がいまだにリンチを理解できないでいるのは、彼らの思考が科学的でないからだろう。あんな文学的なレトリックで『インランド・エンパイア』の何が分かるというのだろうか。今の私はYouTubeの影響から10分以上の動画を観るのが苦痛になってきているが、それでも頑張ってこの3時間の大作をこれから「科学的」に観てみようかと思っている。そして観終ったら、彼らのリンチ論のそのナイーブさを徹底的に批判するつもりだ。

ドタバタを科学する6

2009年02月13日 | Weblog


「とりあえず問題ない。スペアボディならいくらでもある」とはデヴィッド・リチャーズの弁だったが、ここでスバルのメカニックたちは、こんなふうに何気にエンジンを燃やしながら入場してくるのもコリン・マクレーの芸当だと承知しているのか、事態の深刻さとは裏腹に、やけに楽しそうに仕事をしているのだった。

ホロフォニクス

2009年02月10日 | Weblog


 久しぶりにホロフォニクスを聞いてみたのだけれども、これってクオリア脳科学的にはどうなんだ? モギケンが電車の中で聞いた「ガタン、ゴトン」っていうクオリア音も、もしかしたらホロフォニクスだったのではないか。

ドタバタを科学する4

2009年02月10日 | Weblog


 人や社会がドタバタするのは時間がつねに無いからだが、たまには噴水でも眺めて落ち着きを取り戻そうじゃないか。とはいえ眺めたのがジャン・ティンゲリーのこんな噴水では落ち着けるはずもなく、この噴水自体が何かのドタバタだろう。

ドタバタを科学する3

2009年02月09日 | Weblog


 なにしろパイクはエレクトーンをあんなふうに使ってしまう人なのだから、突然こんなふうに頭でピアノを叩き始めたとしても、べつに驚きはしない。ここでパイクはピアノのまったく新しい「使用法」を発見したのである。この少年も、ピート・タウンゼントやジミ・ヘンドリックスが発見したギターの新しい「使用法」を、自分でもいちど試してみたかったというわけだ。ところで荒川修作は藝大モギケン教室で「芸術家になるということは、まず科学者になることだ」と言っていたが、「科学的に考える」ということが既存のモノの新しい「使用法」を発見することであるのならば、「俺は5歳の頃から科学者だった」という荒川は、もしかしたら5歳の頃からすでに「壊し屋」だったのかもしれない。オモチャを与えられてもその使い方が分からずに、すべてぶっ壊していたのではないだろうか。

ドタバタを科学する2

2009年02月08日 | Weblog


 エレクトーンをバタンと倒してドタンと起こす。このナム・ジュン・パイクのパフォーマンスも何かのドタバタであろうか。なぜか車椅子に乗ったパイクは、エレクトーンを倒してすぐに、それを起こすよう指示を出している。一人で倒したエレクトーンをそれと同じ時間で起こすためには5人がかりとなるわけだが、この馬鹿げた繰り返しを見ているうちに、はたして起こすために倒しているのか、それとも倒すために起こしているのか、よく分からなくなってくる。しまいには皆疲れたのか呆れたのか、なんのオチも無しに終了するのだった。パイクにとって革命とは何だったのだろうか。

ドタバタを科学する

2009年02月07日 | Weblog


上が村上三郎の紙破りで、下がキース・ムーンのドラム壊しである。ふたりともドタバタ最後に転んでいるわけだが、この共通点をどうやって科学すべきか、いまの私には皆目見当がつかないのである。


のっぽの偽ボブ

2009年02月07日 | Weblog


 こののっぽな偽ボブ・ロスはどうなんだ。悪いやつには見えないが人を馬鹿にしくさっていて、なんか腹が立ってくる。でも絵の腕前はあのデブ・ロスにくらべてはるかに達者だ。

偽日記ヴァーチャル散歩ツアー

2009年02月05日 | Weblog
 2007年4月7日、古谷画伯は「高尾やすらぎ霊園」の前の道を散歩していたのです。この道はグーグル・カーが通っていたので、私たちは居ながらにして古谷画伯の散歩をヴァーチャルに追体験することができます。しだいに右手に見えてくる墓地を目にして、私は興奮を抑えることができません。確かにこの場所で古谷画伯は一枚の写真を撮ったのです。そして突き当たりの階段、この青い階段を古谷画伯は上って行ったのでした。(ちなみにこの墓地が「高尾やすらぎ霊園」であることを突き止めるのに小一時間ほどかかりました)

 そして古谷画伯が突き当たりの階段の上で見たのは不思議な町の光景でした。確かに画伯が指摘するように人の気配がしません。航空写真で見ても何か異様な感じがします。画伯はこの町を散歩してすぐに雨に降られ、早々に駅の方へと引き返したといいます。狭間町はもしかしたらミステリー・ゾーンなのかもしれません。