SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

養老天命反転地24

2009年01月29日 | Weblog
「もしもある日、単一の同じ概念で、これらの和解しがたい二つの概念、出来事とマシンを一緒に考えることができるとすれば、新しい論理を作り出せるだけでなく(あえて<だけでなく>と強調しておきます)、これまでに未聞の概念的な形式を作りだすことになるのは、絶対に確実なことです。実際には現在の可能性の地平と背景においては、この新しい形式は、怪物にも似た姿をとることになるでしょう。しかし怪物に<似る>ことなど、そもそもできるものなのでしょうか。いえ、できません。類似性と怪物性はたがいに排除しあう概念だからです。ですからこの表現を修正すべきでしょう。出来事―マシンの新しい姿は、もはや<姿>とは言えないものになるでしょう」(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻60ページより抜粋)

 極限で似るものの家......どう見たって「棲むことのできない怪物の棲み家」だろ。誰だってこんな家に住みたくないが、しかしジャックによれば「わたしたち」とは、この棲むことのできない怪物の棲み家のうちにすでに気遣いとともに存在している人々のことらしいのである。いよいよ謎の迷宮入りだ。

英雄夢語り

2009年01月21日 | Weblog


 70年代後半にベルリンに引き篭ったデビッド・ボウイは、ブライアン・イーノらと共にすこぶるアーティスティックな二枚のアルバム『ロウ』と『ヒーローズ』を製作している。デビッド・ボウイ試論にて田中純氏はそのうち『ロウ』だけを高く評価しているようだが、しかし少なくともシングル・カットされた表題曲“ヒーローズ”においてボウイは、ついに「セカイ系」の境地に達したのではないだろうか。スタンレイ・ドルフマンによる逆光を効果的に使った演出が素晴らしい。

事故の科学

2009年01月18日 | Weblog
>自動車の害は言うまでもない。轢かれたら即死だ。公共交通はともかく、遊びに自動車を使う必然性なんかどこにもない。飲酒運転禁止でなく、「運転禁止」にすればいい。非正規雇用労働者を切りまくっている今こそ、「運転禁止」「生産中止」の絶好の機会だ。(保坂和志のエッセイより抜粋)

 人間にとってテクノロジーとは、毒にも薬にもなるパルマコンである。文字を発明したころから人間は、その毒と薬の両義性を飲んできたのである。確かに自動車の害は言うまでもないが、だからと言って今から社会全体を「自動車乗り入れ禁止のテーマパーク」にしてしまっていいのだろうか。テーマパークという「消毒空間」では、そこでは「遊びに自動車を使う必然性なんかどこにもない」がゆえに自動車事故など起こりようがないのである。しかし事故が起きないということは、それによる科学(セレンディピティ)も起きないということである。必要なのは事故を科学することであり、安全なテーマパークに避難することではない。

孤独な散歩者の夢想

2009年01月16日 | Weblog


>「幽霊に憑かれた哲学」を読んでから十四年、はじめて、東浩紀が喋っているところをナマで見た。凄かった。今、テレビに出ているどんなお笑い芸人よりも鋭く流暢な喋りをする東さんのパフォーマンスを見て、そこで語られている内容とは全く別のことを強く印象づけられた。(東さんは、危ないネタをすごいテンションで連発するのだが、しかし、そこで語られている内容は、きわめて普通のことであるように思われた。ここで普通とは、ありふれているとかつまらないとかではなく、ごく普通に納得出来る、ということだ。)東さんの、観客への(捨て身の?)過剰なサービスへの情熱というのは、一体どこからくるのだろうか、この強迫症的なテンションの高さは、一体何に向けて捧げられているものなのだろうか、と。(偽日記12月31日より抜粋)

 この「偽日記」の散歩者とは違って、私は、作者や著者の肉声を聞いてみたいとは思わない。だから『ゲーム的リアリズムの誕生』は読んでも、それを書いた東浩紀という批評家、とくに「わたしは人間だ」と語るその「わたし」たる東浩紀などは、ガン無視である。というか、いったんはガン無視しなければ、その考えをほんとうに理解することはできないのではないか。環境分析的読解について東氏は下のように書いているが、なるほど、ここで東氏に「お笑い芸人」を強いることになった、その無意識の力学こそを「分析」する必要がありそうだ。

>環境分析とは、いわば、作家が言いたかったこと、作家が語ったことそのものを「解釈」するのではなく、<作品をいちど作家の意図から切り離したうえで>、作品と環境の相互作用を考慮し、作家にその作品を<そのように>作らせ、<そのように>語らせることになった、その無意識の力学を「分析」する読解方法である。(『ゲーム的リアリズムの誕生』215ページ)

古谷利裕にシャマランの何が分かるというのか

2009年01月10日 | Weblog


 古谷利裕がシャマランの映画を理解できないでいるのは、メディオロジー的な視点を欠いているからだろう。たとえば古谷のシックスセンス論を読むと、この有名なラストシーンでシャマランが何を仕掛けたのか、まったく分かっていないようだ。ここでは、主人公(幽霊)、妻(生)、ビデオ(死)と、それまで物語の背後でバラバラ(leave)だった三つの時間が、妻の無意識を介して一致してしまい、それによって主人公のうちに同一性のループが回り始めてしまうのである(床に落ちた指輪の回転が強調されるのはそのためだ)。しかし主人公は幽霊であったため、消えねばならなくなったというわけだ。途中で、ビデオに写る本当の自分が、幽霊の自分に「来いよ」と呼びかけているのが分かる。

派遣村

2009年01月09日 | Weblog


 ところで派遣村で「命をしのいだ」という連中を救えるのは派遣会社だけである。派遣会社だけが唯一、彼ら全員に住居と仕事をいっぺんに与えることができるのだ。派遣会社の営業は仕事探しのプロであり、派遣村の連中のような「属性」の人間にも「適切」な仕事を与え、実際これまで食わせてきたのである(ハローワークの職員とは違って、そうしないと自分たちも食えなくなる)。だがもし、派遣会社の営業が派遣村に行っていれば、袋叩きにされただろう。いきおい、恩を仇で返されていただろう。なにしろ派遣会社に世話にならなければ、とっくに死んでいたような連中である。結果として派遣法が改正されたとき、いったい誰が彼らの面倒を見るというのだろうか。

ケンブリッジのクレイジー・ダイアモンド

2009年01月08日 | Weblog


「長い間、誰だか分からなかった。きっと他の人もね」(ロジャー・ウォーターズ)。「まったく分からなかった。ひげも頭も剃って丸々太っていた」(デヴィッド・ギルモア )。「目は、まだ彼の目だった。でもそれ以外は、何もかも変わっていた」(ニック・メイスン)。「涙が出て信じられなかった」(リチャード・ライト)。

 茂木健一郎はケンブリッジで、この人物を見かけたことはなかったろうか。この普通に山下清状態で歩いている人物と、街路ですれ違ったりしなかったろうか。ケンブリッジの並み居る変人のなかでも、とびっきりの変人で知られたアーティスト。その昔、いまの茂木健一郎そっくりの「鳥の巣」頭で鳴らしたロック・スター。その後のシド・バレットの姿だ。パパラッチのカメラを見るその変わらない目には、何かの静かな苦悩が浮かんでいるようにも見える。

リップ・ヴァン・ウィンクルとは誰のことか

2009年01月05日 | Weblog
 いまの日本で「リップ・ヴァン・ウィンクルの話」はおとぎ話ではない。リップ・ヴァンは20年間という実にリアルな人生の時間を失ったのであり、700年をもタイムワープした浦島太郎のファンタジーとは違うのである。正規の20年間と非正規の20年間との間に生じる格差は、いずれリップ・ヴァン・ウィンクル的な喪失感をもたらすだろう。どんな狩でも許されるという夢を見ているうちに、すなわち自由に仕事を選べる非正規雇用で働いているうちに、少しずつ自分の人生を失っていくのである。そしてそれを20年も続け、ふと気がついた時には、もう取り返しがつかないのだ。

 ところでリップ・ヴァン・ウィンクルは「時代遅れの人」の代名詞でもある。余計なことだとは思うが(ならば言わなければよいのだが)、そんな古谷利行が、31日の日記で「それが二十年も前のことだとはどうしても思えず、つい二、三年前のこととしか思えない。どう考えても、二十年も経っているはずかない」とか何とか書いている。「だろうね」と思うと同時に、最近すっかりネットカフェ癖がついてきていることから、下の番組のカズオさん的にも「あと一歩」という感じの古谷利行なのだった。



リップ・ヴァン・ウィンクルの話

2009年01月04日 | Weblog


 茂木健一郎の語る「トゥープゥートゥーのすむエリー星」の話と、この松田優作の語る「リップ・ヴァン・ウィンクル」の話と、どっちが面白いファンタジーかな......。ていうか、これからノンワーキング・リッチのオヤジ達は気をつけたほうがいいだろう。そのうち日払い派遣のフリーターたちが、あんたらに「リップ・ヴァン・ウィンクルの話」をするようになる。それもリアルで。

昭和の前衛と平成のアート

2009年01月03日 | Weblog


 いま中高年のノンワーキング・リッチが問題視されているようだが、なかにはこの若林健治のようなオヤジもいるのである。現代美術界のオヤジ達も、すこしは見習ったらどうか。昭和の前衛ならではの情熱を、いまの平成のアーティスト達にもっと見せてやってほしいのだ。なにもせず、ただ既得権にしがみついているだけのオヤジなど、もういらない。