SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

ダニエル・リヒター

2007年07月27日 | Weblog


 現代ドイツ絵画のホープ、ダニエル・リヒターの展覧会がハンブルク美術館で開催されている。わずか10年足らずのキャリア(現在44歳)で早くも巨匠の風格すら漂い始めているが、その絵が「落ち着く」のはまだ当分先になりそうだ。太郎千恵藏がここでリヒターの絵についてコメントしている。なお当方ドイツ直行&夏休みのため、このブログしばらく止まります。では愉快な夏休みを。

森万里子の"Oneness"

2007年07月22日 | Weblog


 ロサンゼルス現代美術館での村上隆の回顧展に先立って、現在オランダのグローニンガー美術館では森万里子の回顧展"Oneness"が開催されている。いまや森万里子は日本を代表する、というより世界を代表する、というよりもはや全宇宙を代表するアーティストであると、そう言い切ってしまったほうが気も楽になる。すでに日本では2002年の東京都現代美術館でお披露目されているが、その当時ある美術系ブログで「森万里子は北関東系だ」という指摘がなされたことがある。北関東系ということは、つまりその作品に、ヤンキー的に粗暴でファスト風土的に乾いた郊外の感触があるということだ(森万里子が六本木ヒルズ森ビルオーナーの姪であることを考えても、その指摘は都心内郊外論的に正しかったと言っていい)。実際、オタクの遺伝子の無い村上隆同様、森万里子にもサブカルの遺伝子は無い。しかしだからこそ、この二人のヤンキー系アーティストは、人間カルチャーを超えた次の新たなるステージに上ることが許されるのだ。そして我々もまた、森万里子の招く新たなるステージ"Wave UFO"に乗るのか乗らないのか、はっきりと決めなくてはならないだろう。そのUFOに乗るのを拒否して人間として死ぬか(享楽)、それとも乗って何か別のものに生まれ変わって生きるか(快楽)、今そのどちらかを決めなくてはならない時期にきているのだ。ヤンキー森万里子の謡う「巫女の祈り」が我々をアカルイミライに誘っている。

トレイシー・エミン

2007年07月20日 | Weblog


 大英帝国が第52回ヴェネチア・ビエンナーレに国家の威信をかけて送り込んだアーティストはトレイシー・エミンの姉御だった。おそらくイギリスという国はどこよりもマゾっ気の強い国なのである。国際展という大舞台で、トレイシーの姉御が国家の品格や伝統を滅茶苦茶に破壊する様を見てみんな喜んでいるのだ。97年にトレイシーの姉御があろうことかターナー賞にノミネートされた時だってそうだ。トレイシーの姉御のあの絵がターナー賞受賞だなんて想像しただけでゾクゾクしてくる、というわけだ。この当時のテレビ討論会の映像では一見、集まった美術関係者達が酔っ払ってクダを巻くトレイシーの姉御の悪態に困惑しているように見えるが、内心は「もっと虐めてくれ」と嬉しくて仕方がないのだ。もちろん最後は放置プレイだ。

フェリックス・ゴンザレス=トレス 2007

2007年07月16日 | Weblog


 村上隆はその著『芸術起業論』で「芸術家は死後の世界に挑む」と述べている。芸術家にとって本当の勝負が始まるのは、自分が死んだ後であると。そういう意味でフェリックス・ゴンザレス=トレスは、自分が不在となった後の世界で(だからこそ)ますます旺盛に活動しているアーティストだといえる。むろん、96年にエイズで亡くなったこのアーティストへの現在の世界的な評価は、追悼や哀悼の意とは何の関係もない。そのあまりにも脆く儚いトレスの作品を継続させることで復活されてくるものとは何なのか。夏休みの宿題だ。

ドクメンタからの三つの問い

2007年07月14日 | Weblog
 もうすこし猫の保坂氏の現代論シリーズに付き合う必要がある。というのも猫の保坂氏がそこで感じている疑問は、現在開催中のドクメンタ12のプロジェクトとして提出されている「三つの問い」の内容とほとんど同じだからだ。なるほど、伊達に「猫の保坂」ではない。

■Is modernity our antiquity?(近代は過去のものか?)
■What is bare life?(剥き出しの生とは何か?)
■What is to be done? (何をなすべきか?)

 ドクメンタは現代美術の最も大きな国際展である。そこではまさに「いまや忘れられつつある“現代”」こそが問われているのだ。我々にとってモダニティとはアンティークでしかないのか。もはや現代主義は忘れ去られ、剥き出しの現代が現れつつある。連載「現代アートとポストモダン」の主題として、これから時間をかけて考えてみたい。


ヴェネチア・ビエンナーレの加藤泉

2007年07月09日 | Weblog


 第52回ヴェネツィア・ビエンナーレのイタリア館国際企画展「Think with the Senses - Feel with the Mind . Art in the Present Tense」をディレクションしたロバート・ストーは、招待した加藤泉の作品に何を求め、期待しているのだろうか。ヴェネツィアに飛んで行く前に、まずはこれから国内で観られる加藤泉の展覧会をチェックしてみよう。いま加藤株が急上昇しているのだ。(ちなみにこのロバート・ストーのインタビュー映像には加藤作品は写っていない)

ARATANIURANO 加藤泉「人へ」
2007年7月14日(土) - 8月11日(土)
高橋コレクション 加藤泉「黙」
2007年6月30日 - 8月4日
小島びじゅつ室 「加藤泉という作品」加藤泉初期作品展
2007年7月7日 - 7月22日

ロイ・リキテンシュタインの家

2007年07月08日 | Weblog
>どのようなものでも「床に置く」という操作をすれば彫刻として認知されてしまう。もっと言えば、「地面に置く」という操作をしてしまったものに「住んで」しまえば、それは建築になってしまう。(永瀬恭一氏のpaint/note2007-06-26より抜粋)

 だがこのワシントン国立美術館の彫刻庭園に設置されているロイ・リキテンシュタインの家に住むことが出来るのはコミックのキャラクター達だけである。普通に地面に立っているように見えるが、回り込むと平面の絵だったりする。はたしてこの作品は彫刻なのか建築なのか、それとも絵画なのか。「壁にかける」という操作こそが「絵画」の条件であるとする永瀬理論は、ここでリキテンシュタインの仕掛ける「イリュージョン」を前にして破綻している。