SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

死んだウサギに絵を説明する方法

2008年07月29日 | Weblog

 2005年にグッゲンハイム美術館で行なわれたマリーナ・アブラモビッチのパフォーマンス「Seven Easy Pieces」については、キュレーターのスパイキー真也が詳しい実況見分を行なっている。そのうち第5夜の「死んだウサギに絵を説明する方法」については、池田のあんちゃんがさらに詳しい見分を行なっている。この見分から分かることは、このパフォーマンスの舞台設定がどうやら「逆パノプティコン」であるらしきことだが、スパイキーもあんちゃんも、そこでアブラモビッチの顔に張られた「金箔」や靴底の「鉄のかかと」については、その「象徴的意味の失調」を批判的に指摘するだけである。あんちゃんいわく「そこでは、強い記号性を持つはずの物体や行為からことごとく神秘的象徴性がはぎとられ、浮薄かつ滑稽な(スーパーフラットな?)『もの』が立ち現れてしまう」。しかし、このパフォーマンスでその「もの」性(顔に張られた金箔や床に響く硬い金属音)は、たとえば「与えられたもの一切を否定(荒川&ギンズ)」する「抵抗する物質(デリダ)」として示されているのではないだろうか。ヨゼフ・ボイスの象徴論は、この逆パノプティコンの舞台の上でその意味を失うと同時に、「喪の象徴論」として復活しかけているのかもしれない。よく解らんがね(爆)。

養老天命反転地19

2008年07月29日 | Weblog
 ところで切断・分離・分割を意味するのは「昆虫」という語だけではない。殉教者によれば「秘密」という語もまた同様だという。注目すべきは、それが「家の内部」や「洞窟」をも意味しているということである。私はすでに「極限で似るものの家」の内部に入っている。

>「秘密」という語は、もともとはラテン語からきた語で、分離、分裂などを意味し、かなり別の意味論的な枠組みでフランス語に翻訳されて秘密という意味をもつようになりました。これは家の内部(ゲハイムニス)を意味したり、ギリシア語では、洞窟(クリプティック)のあるいは閉ざされた(エルメティック)隠匿という意味で使われたりしています。これらについてはどれも長く、慎重な分析が必要とされます。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』下巻387ページより抜粋)

 そして東浩紀氏の『存在論的、郵便的』(275ページ)によれば、「クリプト」という語には次の三つの意味があるという。第一に「教会の地下聖堂」、第二に「納骨堂」、そして第三に「暗号化」である。長く慎重に分析したい。

魚たちの時間

2008年07月22日 | Weblog
「私が考えるのは魚の我慢強さと我慢の無さだ。捕われ、検査され、ガラスに入れられて私と同じ種に属する。魚になった感じだ。ガラスの前に、後ろに、視線の前に立たされて、必要な時間、私は待たされる。よく考えるのは、魚たちの時間経験だ。時に地獄のようにも思える。動物に見つめられるたびに、最初に浮かぶ問いの一つは、この近さと、我々を隔てる無限の距離における時間のことだ。同じ瞬間に生きながら彼らの時間経験は私の経験に翻訳不能。そのうえ彼らは私同様、我慢し、我慢せず、ご主人たちの熱意に従っている」(ジャック・デリダ)

 ジャック・デリダとサファー・ファティの共著『言葉を撮る』(青土社)に添付されたDVD『デリダ、異境から』(1999年)には水族館のシーンがある。上の殉教者の言葉は、カメラと水槽のあいだで発言されたものである。池田のあんちゃんはこのシーンをどう見るだろうか?  

「時間の前での、時間に対する辛抱のなさは、このことに由来する。魚の水槽のガラスの前で、それは透けて見える。囚われの魚たちは、水族館で、どんな時間経験を持っているのか? この問いを、ハイデガーもまた、宙づりのまま残した。この問いは〈滞留する[demeure]〉と彼は言う。動物たちは時間経験を持っているのか? どのような?」(ジャック・デリダ+サファー・ファティ著『言葉を撮る』(青土社)181ページより抜粋)

琥珀の棺の身体

2008年07月13日 | Weblog
 もしWiredVisionの最新の記事「写真改変の歴史」を読んで、私に「ほら見ろ、やっぱり映像は事実を写さないじゃないか」と言おうとする人は、「琥珀の棺」という言葉が何を意味しているのか、まるで解っていない。WiredVisionの別の関連記事「デジタル写真のねつ造防止技術を求めて」を読むと、写真を容易に改変可能にしたアドビ社が、今度は写真を絶対に改変不可能なものにしようとしていることがわかる。アドビ社の副社長は「基本的には、われわれの企業価値を保つためには、写真の変造が可能なツールを作るだけでなく、変造を検知するツールも作成する必要があるということだ」と語っている。映像の写す真実の価値はデジタル技術によって一度は死んだが、同じデジタル技術によってこうして「復活」するのである。もはや映像が変造されることが問題なのではなく、これからは絶対に変造ができなくなる、というこの事態にこそ本当の問題があるのではないだろうか。殉教者の「この出来事はわたしたちにもまた起こることですし、まだわたしたちにこれから起こることでもあります」という言葉が重く響いてきている。

「空飛ぶ円盤」の事実

2008年07月12日 | Weblog
 1947年6月24日、実業家のケネス・アーノルドは軽飛行機を操縦中に、ある奇妙な飛行物体を目撃する。ただちに地元の新聞社に「それは受け皿(ソーサー)を水面すれすれに投げたときに弾む、いわゆる水切りとそっくりの飛び方(フライング)をしていた」と報告するが、しかし翌日の新聞の見出しには「空飛ぶ円盤(フライング・ソーサー)を目撃」と書かれていた。実際にケネスが見たのは、ブーメランのような形をしていた物体(風に流されて変形した軍事用のセンサー気球)なのであり、円盤(ソーサー)とは飛び方のことで物体の形状のことではなかったのである。もし、このときケネスがカメラを持っていたならば、以後の世界中の人々は未確認飛行物体(UFO)を「空飛ぶ円盤」のことだと誤解することもなかっただろう......。それでも写真家の福居伸宏は「映像は事実を写さない」と言い張るつもりなのだろうか。UFO写真(あるいは心霊写真)がいまでも人々の関心をひくのは、その真偽に関わらず「映像は事実を写す」という前提があるからだ。たとえ「映像は事実を写さない」のだとしても、そのようなリテラシーもまた、この前提なくしては有り得ないのである。

仏壇の中に住む

2008年07月10日 | Weblog


 ところで荒川修作は茂木健一郎との対談『芸術の神様が降りてくる瞬間』のなかで「仏壇の中に入って住む」なんて奇妙なことを言っているのだが、そんなこと言われるまでもなく仏壇の中にずっと住んでいるのが横尾忠則である。その有様は見てのとおりだが、ここで横尾氏は寝転がるたくさんの人形について「疲れている僕の代わりに寝てくれている」とか言っている。どうやら何でも「代わりに」ということらしく、お辞儀をする福助人形などは「傲慢なアーティストの僕の代わりに頭を下げてくれている」ということらしいのである。とすれば、あるいはここで「僕の代わりに死んでくれている」ということを言えないだろうか。荒川は「仏壇の中に住み始めたらね、必ず出て行くときに、何か忘れたって言うの」なんてことを言っているのだが......。

養老天命反転地18

2008年07月06日 | Weblog
 脱構築の殉教者によれば「昆虫(insectum)」という語には「切断」や「分離」の意味があるというが、「不死門」と「昆虫山脈」とのあいだにあるのが、この「切断」や「分離」を伴なう乖離的接合の関係なのである。「アラカワの世界は、物質との連携をあらゆる面で永久に断たれている」ということを指摘する樫村晴香のそのガチな荒川修作論「アトリエの毛沢東」では、また「アラカワの世界に無意識はないので、(アメリカで理解されている限りの)フロイトの理論は、彼の世界に関わりをもたない」とも説いている。ということは逆に「アメリカで理解されなかったフロイトの理論を使え」ということなのである。殉教者は「マジック・メモ」の理論モデルについてこう語っている。

>タブレットの上の表面には、微細で透明な一葉のフィルムがとりつけられていますが、下にあるタブレットの面からは離れていて、浮き上がっているのです。そしてこの一葉のフィルムも二重になっています。何かを反射したり、みずからが畳まれたりしているのではなく、二重になり、二つの「層」に分割されているのです。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻343~344ページより抜粋)

涙の理由

2008年07月01日 | Weblog
>このようにスケール・エラーという現象が月齢20から24ヶ月ぐらいで観察され、また消えてしまう。ある意味ではこの子たちは『不思議の国のアリス』の世界に住んでいる。こういう現象がどうして起こるのか、まだ定説はないけれども、ひとつの有力な説として、後で議論する身体との関係を無視して、シンボルの世界が暴走する、結果として物のスケールを無視しておもちゃの車と実物の車を混同してしまう。これは、人間だけが持っている能力で、動物は間違えない。人間は、それを同じ車だと思うことができる。(「キャラクター創造力研究会第5回」より茂木健一郎の報告から抜粋)

 3年前のまだ科学者だった頃の茂木健一郎から応答が来た。しかしスケールを間違える能力が人間だけのものであるのならば、泣くことを知っているのも人間だけの能力だ。動物はスケールを間違えず、そして泣くことを知らない。『盲者の記憶』で脱構築の殉教者はこう言っている。

>あらゆる動物の目が視覚へと用途づけられており、そしておそらくはそのことによって、「理性的動物」の観察的知へと用途づけられているとしても、人間だけが、見ることと知ることの彼方へ行くことを知っている、というのも、ただ人間だけが泣くことを知っているのだから。「だが、ただ人間の目だけが泣くという潜在力を持っている。」(《But only human eyes can weep》アンドルー・マーヴェル) 彼だけがそれを見ることを知っている、彼、すなわち人間だけが、それ、すなわち、涙こそが目の本質であり、視覚ではないということを。(ジャック・デリダ著『盲者の記憶』(みすず書房)154~155ページより抜粋)