SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

twitter資料3

2010年12月17日 | Weblog
RT @noi_sawaragi(堪木野衣):恐れることはない。とにかく「盗め」。世界はそれを手当たり次第にサンプリングし、ずたずたにカットアップし、飽くことなくリミックスするために転がっている素材のようなものだ。シミュラクルの問題を単なるノスタルジーの問題としてではなく、新たな前衛を構成するための武器として変形すること、あるいはシミュラクルのデジャ-ヴュをある種のユートピアへとむけて唯物論的に提示すること―それをここに示してみせよう」(『シミュレーショニズム』(ちくま学芸文庫)116ページ)

twitter資料2

2010年12月17日 | Weblog
RT @joseph_beuys: いわゆる現代の近代以降は、術をもっていた芸術の概念を非常に高踏な精神行為に美化してしまいました。昔は芸術という言葉はもっと技術とかの概念に近いもので、日常的に使えるということを本能的に予感できる言葉でした。その意味で芸術大学とかあるいは画廊とかいうろくでもない、けつの穴みたいな所で営まれているものだけが芸術だと思ってはならないわけです。(ヨーゼフ・ボイス談1984年「月草ホール対話集会」より―参考)

twitter 資料1

2010年12月17日 | Weblog
RT @Paul_de_man(ポール・ド・マン):また、想像力には巨大なものを捉えられないとされる一方、崇高の経験においてはこの同じ想像力が理性の担い手(エージェント)になることができるとされていたわけだが、しかしそこには逆説的というのを通り越して絶対に解消できないような両立不可能性が横たわっているはずだ。ところが我々はこうした両立不可能性のことを、何の疑問も抱かずにそのまま認めてしまっているのではないだろうか?そして我々がこれをそのまま認めてしまっているのは、Angemessen(heit)〔適合(性)〕とUngemessen(heit)〔不適合(性)〕という二つの言葉がめまぐるしく交替するため最後にはわけがわからなくなり、もはやそれらを区別できなくなってしまうからではないだろうか?(ポール・ド・マン著「カントにおける現象性と物質性」より、『美学イデオロギー』(平凡社)163ページ)

現在美術

2010年11月12日 | Weblog
QT @takashipom: 日本の現代美術業界の情報は古い!俺たちの学生の頃のモノがまだ生き残ってる。ダメですよ、そんな古すぎる情報でうろうろしちゃ。

村上先生の学生の頃のモノって、たとえば伊東順二の『現在美術』(パルコ出版1985年)とかでしょうか。確かに今この本に書かれていることをアートの最先端だと思ってはマズいでしょうが、しかし情報的には古くとも、批評的にはそれで「ダメ」ってことはありません。この本で紹介されたシュナーベルなどは再検討が絶対的に必要であり、現代アート絵画の古典として、そろそろセザンヌやマチスと同格の批評的扱いをすべきでしょう。ていうか、それは私がやります。村上先生はアートマーケットの話だけされていればよろしい。どうせ批評なんて解らないでしょうし(爆)

カオス/破滅・ラウンジとは何だったのか

2010年11月11日 | Weblog
RT @hisao_nakai(中井久夫):戦争が大幅にエントロピーの増大を許すのに対して、平和は絶えずエネルギーを費やして負のエントロピー(ネゲントロピー)を注入して秩序を立て直しつづけなければならない。一般にエントロピーの低い状態、たとえば生体はそのようにして維持されるのである。エントロピーの増大は死に到る過程である。秩序を維持するほうが格段に難しいのは、部屋を散らかすのと片付けるのとの違いである。戦争では散らかす「過程」が優勢である。戦争は男性の中の「子ども性」が水を得た魚のようになる。〔...〕負のエントロピーを生み出すためには高いエントロピー(無秩序)をどこかに排出しなければならない。部屋の整理でいえば、片付けられたものの始末であり、現在の問題でいえば整然とした都市とその大量の廃棄物との関係である。(中井久夫著「戦争と平和についての観察」より、『埋葬と亡霊―トラウマ概念の再吟味』112ページ)

 ときに現代アートは「幼稚」で「質が低い」と非難されたりするわけだが、そこにはおそらく何かの倫理がある。という意味で上記の「子ども性」と「廃棄物」という言葉はアート的にも重要である。マキャベリとかいう人は「国家には時々排泄しなければならないものが溜まる」と言ったそうだが、黒瀬陽平(代表)の「カオス/破滅・ラウンジ」とは、そうして都市に溜まったカオス(高いエントロピー)を排泄・廃棄するための場所(スラム)でもあったろう。芸術というネゲントロピーの注入効果が弱くなった社会では、代わりにアートがガラクタとして大量に廃棄され続けることで、最終的に死(システムの決壊点)に到るエントロピーの増大を防ぐのである。(続く)

CRラッセンワールド

2010年10月25日 | Weblog
 村上隆が、ヴェルサイユ宮殿で個展をしようと、その作品が何億円で落札されようと、世界ランキングで上位に入ろうと、べつに凄いとは思わない。けれども昔パチンコ屋で「CRラッセンワールド」を初めて見たときは、心底ブルった。いつもパチスロしかしないが、そのときだけは特別にパチンコを打った。ラッセンワールドを打った。結果負けたが、満足だった。おそらくパチンコ屋でさまになる現役の画家は、唯一ラッセンだけだろう。村上隆がいくら頑張っても、パチンコ台にはなれない。美術手帖で特集は組まれても、パチンコ雑誌で紹介されることはない。村上隆の描くキャラクターは、画廊や美術館で客を呼べるオーラはあっても、パチンコ屋で客を呼べるだけのパワフルな拡張性は無いのだ。だからいくら気張って世界を制覇しても、日本のパチンコメーカーは目もくれない。実際、村上隆は自分のキャラクターのプロモーションに失敗しているが、当然だろう。ラッセンのイルカと比べるべくもない。そもそも格が違うのである。

郊外美術論 1

2010年10月22日 | Weblog
RT @hajime_maruta(丸田一): 全体を覆うこの滑稽な景色は、フーコーの「混在郷(ヘテロトピア)」にたとえられる。ヘテロトピアは、私たちから場所を奪い、不安をかき立てる一方で、それは場所再編の準備でもある。混在郷を肯定する。〔...〕 私たちも、ファスト風土化する郊外を、現代のエピステーメ(仮)として、いったん受け入れてみる必要があるだろう。ファスト風土化する郊外は混在郷としてオクシモロン的な創造の現場になる可能性がある。これが本書を貫く視座である。(丸田一著『「場所」論-ウェブのリアリズム、地域のロマンチシズム』(NTT出版)6、47ページ)

 ラッセンやシメールの作品はいわゆる「ファスト風土」との親和性が高いわけだが、とりわけシメールの作品に見られる景観の不調和は、その滑稽さにおいて特筆すべき混在郷性を有している。「混在郷」についてはミシェル・Fにのちほど問い合わせるとして、ここではまず上記「オクシロモン」という言葉に注目したい。丸田氏によれば、それは矛盾形容語法と訳され、黒い太陽、可愛い悪魔などと相矛盾する言葉を組み合わせた逆説の一種であり、そうした混在作用が、郊外に「不安定な平穏」を作り出しているという。そういえば斉藤環はヤンキー文化の本質を、「ワル」と「ファンシー」の奇妙な同居にあるとしているが、これもまたオクシロモン的な不調和の調和の発見にほかならないだろう(『文学の断層』(朝日新聞社)86ページ)。いかにもヤンキー&ファンシーなシメールの画風をして、「趣味なき悪趣味の系譜」もしくは「北関東ポストモダン」などと揶揄するのは簡単だが、しかしそう言って済まされない「不安定な平穏」さが、ここには確かにある。(続く)

ほしのこえ その10

2010年10月20日 | Weblog
「ねえ、ノボルくん。私たちは遠く遠くすごく離れているけど、-でも思いが時間や距離を越える事だってあるかもしれない-ノボルくんはそういうふうに思ったことはないの-もし、一瞬でもそういうことがあるなら、僕は何を思うだろう、ミカコは何を思うだろう--ね、私たちの思うことはきっとひとつ、ねえ、ノボルくん、わたしは“ここにいるよ”」(『ほしのこえ』のラスト・シーンより)

 上の絵は『地球への思い』と題されたシム・シメールの作品である。何故か宇宙空間で犬が地球を眺めているが、いったい何を思っているのだろう。シム・シメールはクリスチャン・ラッセンの唯一のライバルと目されている。ラッセンが地球でイルカを描けば、シメールは宇宙で犬を描く。そのあいだは遠く遠くすごく離れているが、でも思いが時間や距離を越える事だってあるかもしれない。もし、一瞬でもそういうことがあるなら、地球のイルカは何を思うだろう、宇宙の犬は何を思うだろう。思うことはきっとひとつだ。わたしは“ここにいるよ”。--冗談を吹いてるわけではない。シメールやラッセンの絵と、新海誠のアニメには、何か共通した「惑星規模での解離」が見て取れるのだ。シメールやラッセンの絵のより詳しい分析が必要だろう。

ほしのこえ その9

2010年10月15日 | Weblog
RT @pentaxx_bot(斉藤環):そうです。僕は言語の特権性を言わないためにベイトソンを利用しているんですよ。神経系には言語は関係ないですから、脊髄反射に言語は介在しませんから。だから僕としては、器質的(オルガニック)な主体をもち出してきたことで、実は脊髄反射弓も主体だと言いたいわけですよ。 @hazuma_bot(東浩紀) まさにそう。イルカと人間を区別しないところがベイトソンのいいところですね。(『不過視なものの世界』54ページ)

 あずまんによれば「セカイ系」という言葉は、《主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力」を意味している》(東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』96ページ)。というわけで、この「きみとぼく」の純愛関係を、まずは唐突にもクリスチャン・ラッセン的な「ドルフィン・ラブ」のイマジネーションから捉えてみたい。以前このブログで、「デビッド・ボウイの“ヒーローズ”はセカイ系ではないのか?」と田中純に意見したことがあったが、いかにもこの曲には「イルカたちのように」というフレーズがあるのだ。ボウイは何故この曲に「イルカ」のイメージを入れたのか? そして「イルカ」で有名なラッセンは何故その「ドルフィン・ラブ」を、スピリチュアルな光で包み込もうとするのか? いや、確かにラッセンの絵は酷いと思うが、それは原画やポスターを見たときの印象に限られる。というのもラッセンのマリン・アートは、キャンバスや紙ではなく、モニターの電子光を通して見たとき、その真価を発揮しているからだ。このことはラッセンの絵の本質が「映像」であることを示しているだろう。それもキャメロンの『アバター』的な映像だ。ちなみに最近ケータイを「ラッセン」に着せ替えたが、これは本当に素晴らしい体験だよ。(続く)