SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

イストワールの現在 その3

2010年02月28日 | Weblog
大澤真幸:つまり比喩的な言い方をすると、自己反省しているのはおそらく作者じゃなくて、「環境」なんですね。環境自体が自己反省をしいるというか、自然と自己反省的な環境になっているということなんでしょうね。

東浩紀:そうです。だから、作者はなにも考えなくとも、いつのまにか自己反省的なものを書いてしまう。それがこの本(『ゲーム的リアリズムの誕生』)で言いたかったことです。(『批評の精神分析D』414ページより抜粋)

「批評それ自体の気候変動」もしくは「環境のしいる自己言及性」について深く考えなければならない。高度情報化社会のなかでは、自己言及しているのは、人間ではなく環境の方である。言い換えれば、そこでは環境が人間を批評しているのであり、人間はなにも考えていない。あるいは「環境」が堪木野衣に『日本・現代・美術』という再帰的な物語を書かせたのであり、堪木自身は腹話術の口パク人形にすぎない。分析すべきは、その堪木に批評の口マネをしいている環境の特殊性こそである。だが残念ながら黒瀬陽平は、コンテンツ志向系の美術評論家ゆえにか、そこまで踏み込めてはいなかったようである。この連載は、もしかしたら黒瀬の提灯批評(思想地図4号)への非難に終始するかもしれない。シンポジウムでの黒瀬の弁解も、その場限りではなく、ガッツリと録音されているのである。(続く)

Ex-Scriptionのエージェント その3

2010年02月25日 | Weblog
>かつて文学の魅力は、かけがえのない人生のアウラを、いかに言葉を通して伝えるかにかかっていた。言葉は原理的に交換可能なものですから、ここでも同じ問題(交換可能なものを通して交換不可能なものを伝える)が扱われていたとも言えるのですが、最近のシミュラークル技術の発達は、そこで新たな局面を開きつつあるように思えます。そしてその状態が全面化すると、例えば、まずコンピューター上にトロがいるとして、コソヴォやチェチェンのニュース映像があり、最後には身近で触れる家族や恋人がいる。この三つの存在がすべてシミュラークルになってしまって、感情移入の大きさだけでグラデーションのように捉えられる世界観になるような気がするのです。例えばですね、ある人がチェチェンのニュースで死者の姿を見ても、それよりはトロとの別れのほうがはるかにつらい。しかしここで、不遜な話ですが、グッとくるロシア人夫婦かなんかいたとしてですね、そこに視聴者が「萌え」た場合、彼にとってチェチェンは突然身近な問題として浮上するわけです。つまり、そこでの問題はキャラ萌えのグラデーションだけなのであり、現実か虚構かの問題ではない。(東浩紀著『不過視なものの世界』137ページより抜粋)

(続く)

Ex-Scriptionのエージェント その2

2010年02月16日 | Weblog
 いきなり動画が非公開になっていて失礼したが、とにかくそのシーンで注目すべきは、腹にドライバーを刺した女が、刑事の非ファルス的にもっこりした鼻におののいているということなのである。フランス大使館で「超セカイ系の徹底」を説いた千葉雅也が、今度は「非ファルス的にもっこりしたものを肯定せよ」と啓蒙しているわけだが、この女はそれを肯定できないでいるのだ。同じことは秋葉原事件の加藤にもいえる。加藤は、秋葉原という街そのものが非ファルス的にもっこりした場所を、非オタクであるがゆえ肯定できなかったのではないか。そういえば何故だかクラナッハの「ルクレチア」にも、その画中画に「もっこりした場所」が描き込まれているのだった。(続く)

Ex-Scriptionのエージェント その1

2010年02月15日 | Weblog


>特定のキャラクターに「萌える」という消費行動には、盲目的な没入とともに、その対象を萌え要素に分解し、データベースのなかで相対化してしまうような奇妙に冷静な側面が隠されている。(東浩紀著『動物化するポストモダン』76ページより抜粋)

 秋葉原無差別殺傷事件では、加藤の「誰でもよかった」という匿名的な殺意が、しかし自分自身にも向けられていたという。斉藤環いわく、そこでは他殺と自殺は限りなく等しい。この意見に同意する東浩紀の「ついに起きたか」という第一印象も、後出しでも何でもなく、理論的な根拠があってのことである。2005年にはミヒャエル・ハネケが、そして2006年にはディヴィッド・リンチが、秋葉原事件とほぼ同様の事態を、それぞれの作品のなかに描き出しているのだ。ハネケの『隠された記憶』では、大きな鼻をもつ主人公の前で、犯人と目される男が突然に自殺する(このシーンはYouTubeでも見られるがリンクはしない)。そしてリンチの『インランド・エンパイア』では、この女が怯えた表情で見ているのが、刑事の眼ではなく鼻なのである。そう、千葉雅也のツイットいわくの「非ファルス的にもっこりするもの」としての「鼻」なのである。このとき刑事は何かに「萌えて」いるのだ。(続く)

Industrial Soundscape

2010年02月08日 | Weblog


>機械はひとりでに動くものではありません。それはつまり、機械には固有のエネルギーがないということです。機械は死んでいる。機械とは死なのです。機械を弄べば死を招く危険があるというのではなく、機械の起源が死とのかかわりにあるということです。ここで思い出すのは、フロイトが、フリースに宛てた書簡の中で、心的装置に関する表象のことに触れて、やがて間もなくひとりでに動き出す機械を前にしたかの印象があると述べていたことです。しかしながら、ひとりでに動き出すのは心的事象の方であって、それの模造品でも、それについての機械的表象でもなかったのです。〔...〕さらにまたフロイトは、現実の世界にあって、少なくとも記憶に似はじめてきた機械、たえずより近く、よりよく似つつある機械の可能性についても、これを問うことはしていないのでした。(ジャック・デリダ著「フロイトとエクリチュールの舞台」より、『エクリチュールと差異』111~112ページより抜粋)

 フランス現代思想の殉教者達がやろうとしていたこととは、もしかして、精神分析の言葉(ラカンの理論)を受け付けなくなった現実のなかで、人間がいなくとも自動的に作動し始める人文機械のプログラムを書くことだったのではないか? デビット・リンチの「Industrial Soundscape」(2002)を観ながら、ひとりそんなことを考えていたのである。いよいよ私も批評的達観の域に入りつつあるようだ。