SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

擬似ドキュメンタリーについて その9

2010年06月23日 | Weblog
>「アーカイブ酔い」はデリダのフロイト論『Mal d'Archive』のタイトルの仮の訳である。もちろん「アーカイブの悪」という訳もありうるが、内容から判断して、船酔い(Mal de mer)、高山病(Mal des hauteurs)の連想からアーカイブ「酔い」と訳している。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻15ページ)

 おぼつかない手つきで、そして何か決定的に理解を間違っているのではないかという不安をよそに、最近ジークムントの著作をかじっている理由はここにある。このことはすでにリンチの『インランド・エンパイア』分析の最初期に気付いていたことだったが、いまひとつ確信が持てず、公表を控えていたのである。だがいまや確信どころか確定している。『インランド・エンパイア』のあの揺れるカメラワークが示しているものこそがアーカイブ酔い(Mal d'Archive)なのであり、その船酔い(Mal de mer)なのである。そしてその酔いは、疑似ドキュメンタリー映画の本質でもあるだろう。

>一般的には、エイブラムズのギーク的な感性は、もっぱらグロテスクなクリーチャー(怪物)を創出することにあると思われている。しかし、『クローバーフィールド』の演出は、どれだけ真に迫った映像でも、それはつねに別の何気ない映像と隣り合わせていることを示している。もし録画スイッチを押さなければ、その「貴重」な映像は何一つ残らなかったのだから。ある映像の周りには他にも無数の映像が大量にひしめいていて、そのあいだに本質的な優劣をつけることはできない。彼のギーク的な感性は、たんに奇抜なイメージを表出するだけでなく、映像の堆積が生み出すリズムをキャッチするのに向いていた。そこまで含めて『クローバーフィールド』は、ギークによる、動画文化を背景にした擬似ドキュメンタリーとして捉えられるだろう。〔...〕オタクないしギークらの台頭は、心的な体験処理以上に、機械的な情報処理の地位が上昇していることをよく示している。〔...〕心的なものよりも機械的なものが優越する理由ははっきりしている。なぜなら、心的な差異(内観)を観察することは難しいが、環境の差異は観察と共有が可能だからである。そして、その機械的環境において「リズム」は看過できない重要性を帯びている。(福島亮大著『神話が考える』110ページ)

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