SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

養老天命反転地10

2008年04月29日 | Weblog
 ICC HIVEのインタビューによれば、荒川修作にとってコンピューターとは、「自由」や「真理」や「希望」のディメンションとは最も遠いところにある、およそ夢のもてないものである。しかし荒川は、だからこそコンピューターを使うのである。というのも、荒川にとってコンピューターとは、まさに「ガラクタ」だからだ。荒川&ギンズのプロジェクトとは、「ガラクタの断片から多層的迷宮を構成する」(『建築する身体』167ページ)というものである。荒川の頭の中には、言葉のガラクタとしての文字を始めとして、記憶のガラクタとしての擬似記憶、人間のガラクタとしての動物、意味のガラクタとしての無意味、理解のガラクタとしての誤解、色のガラクタとしての原色など、あらゆる様々な「ガラクタ」がぎっしりと詰まっており、それらがぐるぐると渦を巻いた多層的迷宮をなしている。そして私はいま、その多層的迷宮への扉を開けようとしているわけだが、もしよければ君達も一緒に来ないか? 保坂和志は手を挙げているようだが、他にはいないのか? 意気地が無いんだな(笑)

養老天命反転地9

2008年04月19日 | Weblog
>たとえどれだけ性質が変わっても「私は私である」ということ、それは確定記述の変化に依存しない単独性があることを意味する。しかしデリダが「割礼告白」を始めるのは、その単独性を攪乱する「渦巻き」、いわゆる幽霊の声があるがゆえにである。そしてさらにここでは、割礼告白を可能にする装置としてのマッキントッシュ、つまりコンピューター=情報機械への言及が行われている。引用部分のみでは見にくいが、実はこの「割礼告白」全体を通して、ペンとマッキントッシュの対置は告白=割礼と割礼告白との対置に並行している。コンピューターで書かない人々は、割礼告白を始めることはできない。そこではいわば、記憶(想起、アルシーヴ)のペン的形態とマッキントッシュ的形態とが対置されることになる。(東浩紀『存在論的、郵便的』82ページより抜粋)

 荒川修作がコンピューター・グラフィックを使い続ける本当の理由もまた、そこに「死」の単独性を攪乱する「渦巻き」があるがゆえにである。荒川にとって最初の「割礼告白」の機会となったのは、青年期に受診したレントゲン検査のときだ。そこで衝撃的に告げられた残り六ヶ月の余命宣告が、あとで調べたら誤診だったというのである。荒川の「死なない」という確信を理解するためには、この「誤配」について考えることこそが重要である。NHKの職員を震撼させた事件もよく知られている。笑い話じゃ済まされないだろう。

Francois Delecour

2008年04月15日 | Weblog

 歴代のWRCのドライバーで唯一「アニキ」と呼べたのはフランソワ・デルクールだけだと思う。理由はこのコルシカでの熱い走りを見ただけで分かるはずだ。まったく「アニキ」としか言いようのない走りっぷりだ。