SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

セカイはこんなふうにも眺められる

2008年01月12日 | Weblog

 あらためて保坂和志氏のような文藝人に、スーパーフラット(村上隆)の素晴らしさや、イリュージョンの楽園(太郎千恵藏)の楽しさや、ピュアランド(森万里子)の美しさを伝えるためには、どうしたらよいのだろうかと思う。余計なお世話ではあるが、20世紀の現代芸術と心中しようとしている保坂氏を、21世紀のアートのセカイへと救出しなければならないのである。この異例の措置は、世界のセカイ化に気が付かずに、ひたすら「人間と世界の関係についての思弁」を続けようとしている保坂氏を見かねてのものである。むろん坂本龍一の音楽でさえ認めようとしない今の保坂氏に、村上隆のアートを認めさせることはとても難しいだろう。だが、もともと保坂氏は筋がいいのだ。時間をかけて説得すれば必ずや開眼してくれるはずだ、と私は信じている。

オラは天才画家だゾ

2008年01月11日 | Weblog

 放送権完全無視の芸術漫画シリーズの第二弾はクレヨンしんちゃんである。ポルシェ、ベレー帽、ヒゲ、スモック、そして女言葉(爆)。パイプこそ燻らせてはいないものの、今どきこんなキチガイはいない。だがもし日展の会場などで見かけたとしてもご愛嬌だ。あの連中は昔から狂ってる。


みたままベレーで天才画家

2008年01月10日 | Weblog

 ドラえもんと違ってのび太はぜんぜん絵のことを解っていないようですな。憎めない奴ではあるが、いくらなんでも横着が過ぎる。最後にジャイアンから拳骨を食らっているが当然だ。絵を馬鹿にするのもいい加減にしろと言いたい。犬の絵描きは笑える。

“現代”以後に現れた難解さとは

2008年01月08日 | Weblog
>もうひとつは、“現代”の持つ難解さだ。“現代”がいきいきとしていた時代でさえも、現代音楽とか現代美術なんて言葉は、「難解」の代名詞のようだった。今では難解であったということさえも忘れられつつあるのだが、現代音楽や現代美術が好きな私から見ても、「行くところまで行ってしまった」感じが強く、「その先に何があるんだろう」と思わないではいられない。(保坂和志「いまや忘れられつつある“現代”」より抜粋)

 現代美術や現代音楽そして現代文学などの作品がいかに難解に見えたとしても、それらは人に「頑張ればもしかしたら理解できるかもしれない」と思わせるものがある。これまでの人文諸学の知見を総動員すれば、その難解な作品の背後にある意味を解読できるかもしれないと。しかし行くところまで行ってしまった“現代”のその先に現れた新たな難解さは、人間(人文学)を寄せ付けない。たとえば、その背後には何の意味も無い「暗号」を解読するのは人文学部ではなく工学部の仕事だ。アカデミズムからすれば観るに堪えないアートや、聞くに堪えないテクノ・ミュージックや、読むに堪えないライト・ノベルが、そして吐き気をもよおすようなアニメの絵柄が、もし「現代」の「理解できるかもしれない難解さ」とは異なる質の「絶対に理解できない難解さ」によってこそ「堪えない」のだとしたらどうなのか。おそらく“現代”以後に現れた新たな難解さを解読するのは、人文諸学とはまったく異なる場所にいるであろうニュータイプの集団である。そして彼らは神を知らない。