SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

インランド・エンパイア22

2009年08月23日 | Weblog
>ニーチェのテクストの全体は、おそらく大部分は「私は自分の雨傘を忘れた」という型のものであろうという仮説は、たとえどれほど遠くまで意識的な解釈を進展させても、けっして中断させられることはないだろう。「ニーチェのテクストの全体」というものは、たとえそれが断片的なアフォリズム的なものであろうと、もはや存在しないであろう、と言ってもいいくらいなのだ。このことは、大いなる哄笑の稲妻あるいは雷鳴をみずから招くに足るものである。避雷針もなく屋根もなしに。(ジャック・デリダ著『尖筆とエクリチュール』209ページ)

 おそらくウサギ人間たちの会話のほとんどは、『尖筆とエクリチュール』の最終章でデリダが問題としている《私は自分の雨傘を忘れた》というニーチェの残した断片的なアフォリズムとして設定されている。注目すべきは、この《私は自分の雨傘を忘れた》という事態が、最近の宮台真司が危惧している「前向性記憶障害」を思わせるところである。ニーチェ同様に、この映画でリンチもまた「自分の雨傘を忘れた」のではないのか。

>全てのログを残すことに意味があるのも、ログに意味がないからです。『メメント』の主人公も「前向性記憶障害」なので全てのログを残します。いたるところにメモを貼り付ける。でもメモを書いた際の文脈を記憶できないので、ログはいっぱい残るんだけど、ログを解読するための解読格子は次々と失われていく。そこには、主体の一貫性を前提にした「ログの蓄積」はないんです。そこで「切断」が意味をもたないのは当然の話です。(『思想地図』3号66ページより宮台真司の発言を抜粋)

ニーチェの萌え

2009年08月08日 | Weblog
>女性というもの、女性自体の真理自体というものは存在しない。そのことはすくなくとも、ニーチェが語ったことである。そして彼の作品にあらわれる母、娘、妹、オールド・ミス、妻、女家庭教師、娼婦、処女、祖母、少女、および成熟した娘たちの群れといった、きわめて色とりどりの類型学がそのことを証明している。まさにこの理由のため、ニーチェの真理もしくはニーチェのテクストの真理といったものは存在しない。(ジャック・デリダ著『尖筆とエクリチュール』146ページより)

 東浩紀の『動物化するポストモダン』第二章4節を参考にすれば、この「色とりどりの類型学」とは、つまりキャラクターをカテゴライズする「萌え要素のデータベース」のことであり、デリダがここでニーチェのテクストの「背後」に見ているのは、大きな物語ではなく、大きな非=物語としてのデータベースである。デリダが『尖筆とエクリチュール』で問題としているのが実は「キャラ萌え」であると気付いたとき、私はその先見の明に驚いた。しかし考えてみればこのテキストが書かれたのは1972年であり、すでに「大きな物語」は、理想(真理)どころか虚構(テクストの真理)としてさえ消え始めていたのである。ところで『尖筆とエクリチュー
ル』には、オタクであれば誰もがよく知るひとつの「萌え要素」が取り上げられている。ニーチェが『悦ばしき智慧』で「小さい女」を罵倒しているというのだ。いまなら「身長が低い」という要素だけに萌えるオタクは普通にいるが、たぶんニーチェは「早すぎた」のだろう。いまだそれが「キャラ萌え」であると知られていない時代の話なのである。

「第三の性。――〈小さい男というものは、一つのパラドクスだが、男であることに変わりない――だがしかし、小さい女というのは、背の高い女にくらべると、いまひとつ別な性に属するもののように、私には思われる〉、と或る年老いた舞踏教師が言った。小さい女なぞというものは何にも美しくない――と老年のアリストテレスは言った。」(『悦ばしき智慧』より『尖筆とエクリチュール』106ページの訳注より)

横尾忠則のエプロン

2009年08月04日 | Weblog
『尖筆とエクリチュール』の原題は「エプロン」だが、それは或る先の尖ったものを意味する。たとえば船首、鳥の嘴、島の突端、弓矢などだが(それはまた痕跡、航跡、徴候、目印をも意味する)、おそらく横尾忠則の描く「Y字路」も何かの「エプロン」であろう。古谷利裕が「Y字路」について「異なる空間の同時共存を感じさせる」と書いたように、誰もがY字に別れた道路のその意味について考えようとする(たとえば「運命の分かれ道」云々)。しかしこのシリーズの本当の主題は、そのY字路の中央からこちらに迫り来る船首のごとき「エプロン」である。私はリンチの映画に「エプロン」を発見し、続いて横尾忠則の絵画にもそれを確認した。先の[
図3―2]から説明すれば(携帯電話から送信したので図が縮小されてしまったが)、つまりエスのポイントから「雨傘(エプロン)」の中心を正面から見据えているというわけである(図式的にY字になっている)。何か理解が雑な気もするが、とりあえず大体分かればいい。詳しい分析はこれからだ。

桜金造の『1ミリの女』

2009年08月03日 | Weblog
>よく見ると、壁とタンスの隙間に幅一ミリの女がいて、その女がゆっくりとこっちを向いた、と。この話の面白いところは、幅が一ミリしかない女が「こちらを向く」という、決して具体的には視覚化できないが、しかし強烈な印象を与える「イメージ」だろう。幅一ミリの女というのが既に視覚化困難なのだが、そのほとんど幅のない女が「向きをかえる」のが、何故か目で見て「分かる」ということ。これは、視覚的にはありえないが......以下略。(古谷利裕の偽日記2008-11-16より)

http://www.youtube.com/watch?v=jZXp3Ik1sOY

 古谷利裕の頭の中が心配だ。この話で桜金造は「最初、ポスターか何か貼ってあるのかと思った」と言っている。ということは「幅が一ミリ」なのではなくて「厚みが一ミリ」ということである(実際に桜金造は「幅が」なんて言っていない)。どうやら古谷は「厚み幅」と「横幅」の区別が付かないようだが、それこそ視覚的にはありえない、というよりも常識的にありえない誤解だと思うのだが......。