>われわれが得た成果をごく手短に公式的にまとめておく。ユダヤの歴史を貫く周知の二重性――二つの民族集団、これらは国家の形成のために合体した。二つの王国、この状況の中でこの国家は崩壊した。聖書原典に見られる二つの神の名前。――以上のような二重性にわれわれは新たに二つの二重性を加えておく。二つの宗教創設、最初の宗教は別の宗教によって抑圧されながらも、のちになって別の宗教の背後に立ち現れ勝利をおさめるに至った。ふたりの宗教創始者、両者ともにモーセという同じ名前で呼ばれているが、われわれは二人の人物を互いに区別すべきである。そしてこれらの二重性のすべては、第一に挙げた二つの民族集団という二重性に淵源するのであり、民族内の一群の人びとが心的外傷と言ってもよい体験を得てしまい、残りの人びとはこれと縁がなかったという事実からの必然的な帰結なのである。以上の事柄に加えて、詳論すべきこと、主張すべきことはなお無数に存在しているであろう。(ジークムント・フロイト著『モーセと一神教』93ページ)
なんだって? 二つの神の名前だって? これってもしかして......。
>それゆえディックがこの小説で、不気味なものの両義性を利用し、キリストをもうひとり用意していたこと、つまりソフィアにファットを対置していたことの意味は、ディックの小説分析を超えた射程を備えている。(東浩紀著『情報環境論集S』264ページ「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」より)
>そして筆者には、晩年のディックが、視覚化された不気味なもの=ソフィアに対して、語りの攪乱という別の不気味なもの=ファットをあえて対置させていた背景には、同じような視覚的隠喩への不満が(無意識に)あったように思われてならない。(同376ページ)
なるほど四時じゃねーのとか自動投稿している場合じゃねえぞ。
なんだって? 二つの神の名前だって? これってもしかして......。
>それゆえディックがこの小説で、不気味なものの両義性を利用し、キリストをもうひとり用意していたこと、つまりソフィアにファットを対置していたことの意味は、ディックの小説分析を超えた射程を備えている。(東浩紀著『情報環境論集S』264ページ「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」より)
>そして筆者には、晩年のディックが、視覚化された不気味なもの=ソフィアに対して、語りの攪乱という別の不気味なもの=ファットをあえて対置させていた背景には、同じような視覚的隠喩への不満が(無意識に)あったように思われてならない。(同376ページ)
なるほど四時じゃねーのとか自動投稿している場合じゃねえぞ。