SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

やる奴とやらない奴

2008年12月31日 | Weblog


「いつの時代にも、やる奴はやる。やらない奴はやらない」。言われてみればそうだよな。やるかやらないかは自分で決めることだ。私も来年からは(つまり明日からは)批評家として「やる」つもりだ。なにしろ本を書かねばならない。まずは紙の上に、何かしらのアートの統合理論を自分なりに構築してみるつもりだ。ウェブ日記とか2ちゃんねるといった「掃き溜め」はもうたくさんだ。あんなのは、やらない奴らがやらない為の逃げ口実を都合よく言い合っているだけだ。やらない奴には何を言ってもだめだろう。

三鷹天命反転住宅

2008年12月30日 | Weblog
 これから私が言うことは、もしかしたら古谷利裕の「セザンヌと村上隆を同時に観る」という馬鹿げた妄想以上に狂ったことなのかもしれない。おそらく私はそれで読者の多くを失うことになるだろうし、自らの批評家生命を絶つことにもなりかねないのである。しかしそれでも言っておかねばならないのだ。私には、三鷹天命反転住宅とでじこが同じものに見える、のである。かなり前からうすうす気がついていたわけだが、ついにフラグが立ったのは、以下の斉藤環の一文を読んだときである。

>インタビューにおけるリンチは、あまり多くを語らない。寡黙なのではなくて、本当に言葉が貧しいのだ。一見物静かで常識的な大人にもみえるこの映画監督が、家の中では魚やトリを分解して「魚キット」などを作っては喜んでいる事実は、何を意味するのだろう。(斉藤環著『文学の断層』序文13ページより抜粋)

 この「魚キット」という言葉を目にしたとき、私は自分の頭の中で何かが「解除」されたような感じがしたのである。そして「三鷹天命反転住宅とでじこを同時に観る」ことは十分可能であると、なぜか確信したのである。それまで東浩紀のエッセイ「静かな昆虫的世界」を読んで「チャンス到来」まで上昇していたものが、この斉藤環の序文を読んで、ついに「ボーナス確定」となったのである。私はこれから「養老天命反転地」とともに「三鷹天命反転住宅」の謎の解明にも挑むつもりでいる。もしも、でじこをダミアン・ハーストよろしく真っ二つに割ったとしたら、そこにはどのような断面図が描けるだろうか。私の「三鷹天命反転住宅」の解読は、これまでにない画期的なものとなるだろう。ちなみにこれがディヴィッド・リンチの「魚キット」である

福居伸宏、大いに語る

2008年12月27日 | Weblog
■もともと絵を見るのが好きでした。
■僕は写真の専門教育を受けていません。だから、上達するには、とにかく枚数を撮らないといけない、機材の操作に慣れないといけない、と思って......
■試行錯誤するうちに今のスタイルに到達したという感じです。いずれにしても、金村修ワークショップに行っていなかったら、今の自分はなかったと思います。
■「自分の写真」というものが、あるていど確立すれば(もちろんそれは常に変化していくものだと思いますが)、何を撮っても「自分の写真」になるのかもしれませんね。
■撮れることよりも、撮れないこと、失敗することのほうが、写真を実践していくうえで大切です。
■写真に導かれているうちに、今のようなスタイルになっていったという感じです。
■私は写真を通して「既知の未知」や「既視の未視」といったものにアプローチしていきたいと考えています。
■私の作品をあらかじめ見ていると、たぶん普段の街の見え方もちょっと変わってきますよ。
■ものを見るための方法が、ものを見ないことに奉仕してしまっては意味がありません。
■カメラは考えません。

福居伸宏インタビュー パート1 パート2 おまけ1 おまけ2

「新生児の知覚」についてのメモ2

2008年12月27日 | Weblog
■有機体―人間は、建築的身体への途上の最初の第一歩である。あるいは、設定された建築的身体を装備して生まれた新生児である。建築的身体こそ、新生児の最初の運動を活性化させ、形態化を助けている。そこから伝説のアトラスの肩に乗った世界総体において、有機体―人間―環境があらたに生まれるのである。有機体―人間として最初の第一歩を歩むよちよち歩きの幼児は、その世界全体をおもちゃのように引きずっている。このおもちゃこそ、建築的身体である。(『建築する身体』42ページより抜粋)

■まず、最初に考えられることは、我々の、メモリーのアイディアですね。我々がこの世に生まれてきて一番最初に叫んだ言葉、叫んだ声。あれがなかったら我々はいまここに居ないわけです。あの言葉が発生する条件というか、場というのは、何であるか。あれがおそらく我々の道徳の原点です。僕はあれを何とかして構築しようとしたわけです。あれが構築できれば、我々はいま使っているであろう、この世界の道徳についてどこが悪いか、いいかをはっきりさせられるわけです。それがはっきりしたら、目にはみえないけど我々人間よりももっと素晴らしいものがあることが分かるのではないか。生きるとか、人生とか、そういう言葉はいらないんじゃないか。そういうことをはっきりさせるためには、あの一番最初の言葉が、情動的であれ理論的であれ,何であれ発生するあの場所が構築されない限り、何も解決できないはずだろうと僕は思います」(荒川修作『季刊思潮』1988年一号より抜粋)

■かくして、アラカワの世界において最終的に賭けられた、「ここ」という新生児の知覚=共身体空間は、その世界がもつ記述と遠近法への激しすぎる(分析哲学的)懐疑の結果、作品‐形象そのものの中に、それとして書き込まれることはけっしてない。つまり、表象・形象内部における、遠近法の否定としての症候‐作品(さまざまな線と言葉が奏でる接合と混乱、対立物を並置する奇妙な命題)が、完全な障子仕立ての紙細工として、最後まで分析判断の水準で抽象的に走行するのと並行に、この幼児の身体(=主語ないしコプラ)、つまり一般の作品が幻想的に隠喩する快楽の該当物は、表象自体には明示的には書き込まれず、表象との連関、つまり帰属先の分化‐所有権を拒否された、制作者=鑑賞者の身体支出としてのみ到来する。この身体支出は、表象の水準での分節から切り離された、「ここ」という主語‐意識であり、それは分節されることなく、無際限の差異をはらんだ白色の意識であり、とはいえそれは、新生児のように現実に叫び、世界‐他者へと叫びかける、具体的力動をもった<身体支出>としての原初的意識である。(樫村晴香「アトリエの毛沢東」より抜粋)

福居伸宏のムード写真について

2008年12月26日 | Weblog
 福居伸宏の写真は「一年生」に人気がある。それも大学一年ではなく、中学一年である。ほとんど子供レベルの感受性しかない人々が、福居のあのわかりやすいムード写真を観て喜んでいるのだ。ある程度の批評的判断力を持つ大人の鑑賞者であれば、あんな見え透いた作為に騙されるわけがない。かりに間違って一度は騙されたとしても、二度目はない。福居はあれで何か物事の本質に触れているつもりでいるようだが、今どき「長時間露光」なんて得意げにやっている時点ですでに見込みはなく、早くも今後の身の振り方を考えたほうがいいだろう。もしかしたら福居はカラオケ用のムード映像製作なんかに向いているかもしれない。

「新生児の知覚」についてのメモ

2008年12月25日 | Weblog


「はじめは、時間が逆行しているように思えた。その程度の驚異なら受け入れる心構えはできていたが、やがて彼はその奥に隠されている真相に気づいた。
 記憶の源泉があけはなたれていくのだ。何かの力にコントロールされながら、彼はふたたび過去を生きはじめていた。ホテル・ルーム――スペース・ポッド――赤い太陽の灼熱する表面――そして正常な宇宙に再突入したときに見た黒い出口。視覚ばかりではない。そのときの感覚、感情のすべてが速度を増しながら、つぎつぎと通りすぎていく。いやます速さで逆回転するテープ・レコーダーのように、彼の人生が巻きほぐれていくのだ。(中略)
 彼は時の通路を子供時代へと一路逆行しながら、知識と体験を洗い流している。しかし何も失われはしない。生涯のあらゆる瞬間にあった彼のすべてが、もっと安全な場所に移されているのだ。ここにいるディビッド・ボーマンが存在をやめても、別のディビッド・ボーマンは永遠に存在し続けるのだ。(中略)
 やがて逆行の速度が衰えはじめた。記憶の泉もほとんど涸れかかっていた。時の流れはますますのろくなり、停滞のときが近づいていた――揺れる振り子が、次の位相に移る直前のはかり知れぬ短い瞬間、弧の縁で凍りつくように。
 その超時間的な一瞬が過ぎた。振り子は運動方向を変えた。地球から二万光年隔たった二重星の、その業火のまっただなかに浮かぶ空っぽの部屋で、赤ん坊が眼を開き、うぶ声をあげた」

(アーサー・C・クラーク著『2001年宇宙の旅』より抜粋。巽孝之著「『2001年宇宙の旅』講義」(平凡社新書)61ページより孫引き)

批評の現在

2008年12月24日 | Weblog
「批評は、作品と同様、世界の見え方を変えることができると思う。ぜひご期待ください!」(池田剛介

 東京国立近代美術館で四谷アート・ステュディウム主催のシンポジウム『批評の現在』が行われたようだが、耳を貸してみようとは思わない。なにしろ登壇した11名の「批評家たち」は、そのうち誰一人として「著書」も無く、ということは「著名」が無いに等しいのである。いったいどんな「批評の現在」なのか。下の映像は、自分で自分にインタビューする「NEETの主張」だ。


スバル森社長の涙

2008年12月22日 | Weblog


「…コーナーが(スバルのチームカラーである)青一色に染まっているのを目にすると......」 森社長が声を詰まらせている。もともとスバルは来年いっぱいでWRCへの参戦を終了する予定でいた。ゆえにこの会見での涙は、もちろんWRC撤退の悔しさだけからくるものではない。半月前には800人に及ぶ非正規従業員への契約終了を告げたばかりなのである。大幅な減産による周辺地域産業への影響も大きい。もちろん、だからといってこんなふうに企業のトップが公の場で涙を見せてしまうなんてことは異例の事態であろうが、そこになぜか「スバルらしさ」を感じてしまうのは私が希少の「スバリスト」だからだろうか。スバルは大量解雇を避けようと、ぎりぎりまで生産調整をして粘ったと聞いている(こういうことは報道されない)。すくなくとも、誰かさんが言うように、「冷静さを失って一斉にそのような行動にはしってしまった」わけではないのだ。ましてや今回の金融危機は「ちょっとした何か」で済まされるものではないだろう。

アクション・ペインティングな「偽ボブの絵画教室」

2008年12月19日 | Weblog


【アクション・ペインティングとは】戦後のアメリカにおける抽象表現主義の展開にいち早く着目した批評家H・ローゼンバーグは、1952年にその動向を「アメリカのアクション・ペインター」たちと題する著名な論文で紹介し、彼が初めて用いたこの用語は、以後抽象表現主義に関与した一群の作家たちの制作姿勢を示すものとして受容されるようになった。キャンヴァスを「行為する場」とみなすこの表現は、J・ポロックのドリッピング絵画やM・ロスコの風景画などに窺われる、精神的な自己追究を突き詰めた様式とされ、同時期の社会主義リアリズムとは対立する一方で、J=P・サルトルらの実存主義哲学の影響も指摘される。一部で即席の行為と批判されたこの傾向を、C・グリンバーグらのフォーマリスト批評家は「超=美学的な公準」を見出すことでむしろ積極的に評価し、「カラーフィールド・ペインティング」の契機と位置付けた。(DNP Art Scape 「現代美術用語集」より)

コリン・マクレー

2008年12月18日 | Weblog
 スバルがWRCからの撤退を発表した。自動車競技などやっている場合ではないのだろう。残念だが仕方がない。我々ファンにできるのは、いつか復帰してくるときまで過去の栄光の記憶を忘れないようにすることだけだ。というわけでスバルワークスの人気ドライバーだったコリン・マクレーである。コリン・マクラッシュの異名をとるほどの壊し屋だったが、次のエピソードを読むと、どうやら修理も得意だったらしい。

■頭に血が上ると、とにかく物に当たる。チームオーダーが言い渡されるとタイヤを蹴り飛ばし、車が動かなくなるとボディを蹴る。そのため「コリンは蹴ってマシンを修理しているんだ」というジョークが生まれ、「マクレーキック」なる言葉まで生まれた。( ウィキペディアより

 そして車が廃車寸前にまで壊れると、娘が出てくるらしい。心温まるエピソードだ。

■コリンによって廃車寸前にされたフォーカスに、彼の愛娘ホリ-は絆創膏を貼ったことがある。(同)

 下の映像を見てほしい。 奇妙な姿勢でコーナーに突っ込んだあと、何事もなかったかのように再び走り出すコリンのレガシーだが、しかし後部が大破しており、いきおいタイヤがコロコロと外れてバンパーも飛んでいる。まるでアクション映画のワンシーンみたいだ。こんなことやろうと思ってできることじゃない。恐るべしコリン・マクレー。凄いドライバーだった。

ホールトン・アープ

2008年12月18日 | Weblog
「ART TOUCH美術展評」の安積桂氏によれば、どうやら渦巻き銀河NGC4319とクエーサーMrk205は「繋がっている」らしい。NASAのハッブル宇宙望遠鏡が「繋がっていることをはっきりと捉えた」というのである。私は驚いて日本惑星協会に問い合わせ、天文ニュースの記事をすぐに調べた。もし本当ならビックバン宇宙論は完全崩壊し、ついでアインシュタインのオツムにも疑いが入ることになる。桂氏は「これほど明白な反証があるにもかかわらず」、なぜ物理学者たちはホールトン・アープの話を聞こうとしないのか、「奇妙といわざるを得ない」と言いたいようだ。

......桂さん、子供じゃないんですから、大人なんですから、もうそういうのは止めましょうよ。いままで見て見ぬふりをしてきたけれども、これ以上はもう勘弁してください。そういうのは駄目ですよ。いまならまだ引き返せますから、まだやり直せますから。

メイキング・オブ『シミュレーショニズム2』の公開について

2008年12月17日 | Weblog
 まだ本編が書かれてないのにメイキングはないだろうとは思うが、ボーナス企画として、これから書かれる『シミュレーショニズム2』のメイキング版を、先に読者に公開してしまおうかと考えている。第一に、これまでの人生を振りかえって、「そもそも僕はなぜこの本を書こうと思ったのか」という執筆の動機から語らなねばならない。どこの馬の骨かわからない若造が、まだ書いてもいない著作について滔々と自分語りしてみようというのである。なんとなれば「インタビュー形式」にしてもかまわないが、さすがにゼロアカ道場よろしくの動画まで使うのは気が引ける。せいぜい偽日記よろしくの独白に抑えておきたい。『シミュレーショニズム2』の内容に関心のある人は、ぜひ先に読んでおいておいたほうがいいと思うよ。よりいっそう本編の理解がすすむだろうからね。