SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

備忘録―ゲルハルト・リヒター

2006年12月23日 | Weblog
>すべてのイメージ行為は、現実の不可能な描写からもぎ取られるものである。とりわけ芸術家たちは、明白な経験として知っている――人間による人間の破壊に直面したことのある者なら誰でも――表象不可能性に屈服することを拒む。だから彼らは〈連作〉を、〈すべてに抗して〉のモンタージュを制作するのだ。彼らは災厄が無限に増殖しうるものであることも知っている。カロやゴヤ、ピカソ――のみならずミロやフォートリエ、スチシェミンスキやゲルハルト・リヒターも――は、あらゆる方向から表象不可能なものに挑みかかり、純粋な沈黙以上の何ものかを導き出そうとする。彼らの作品において歴史的世界は〈憑きもの〉に、すなわち〈想像するという熱病〉、同じひとつの時代の旋風を取り巻く様々な形象の――類似や相違の――氾濫になるのだ。(ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』(平凡社)P161より抜粋)

神話無き時代の脳科学1

2006年12月18日 | Weblog
 いま、人々が芸術成立の根拠を神話にではなく脳みそに直接尋ねようとしているのは、それだけ象徴や想像の力が衰えているからなのである。あわただしくも要請された脳みそ学者達の言葉は、しかし芸術の状態ついては何も見ようとはせず、その芸術の向こう側にある真実だけをいきなり語ろうとするだけだ。歴史も文脈も理論も一切抜きで、裸一貫の脳みそ反応だけで、生き生きとした生命の躍動を語りきろうとするのである。そんな脳みそ学者達の言葉は、この象徴的貧困の時代にだからこそ求められるべき悲しき必然なのだろう。神話無き時代の脳科学が提唱するクオリア原理主義も、おそらくはマイナスイオン等とおなじく不可解な活性効果でしかない。そんなクオリアが芸術をいくら愛しても、芸術がクオリアを愛することは決してないだろう。(続く)

ドリフのドリフト

2006年12月15日 | Weblog
>クルマというのはハイスピードで走っていてその速度を保ったまま方向転換しようとする場合、当然の事だが依然として前に進もうとする力との干渉が発生する。4つの車輪が設置していて方向転換する時、前進する力に負けて、前方向がより前に進もうとする場合(アンダーステア)と、後ろ方向がより前に進もうとする場合(オーバーステア)があるが、いずれにせよ中に乗ってる人は想定しないクルマの動きを感じ、適切かつ迅速に運転操作を行い、なるべく当初のイメージどおりの方向転換を完遂させる。できなければコースアウトだ。(坂中亮太2006-12-14)

 関係ない。前方向も後方向もない。この映像では車が後ろ向きで前に、というか横に進んでいる。これだけの道幅でこれだけの大ドリフト。ほとんどドリフの大爆笑レベルだ。

暗い部屋6

2006年12月13日 | Weblog
「記憶産業」と「象徴的貧困」の関係について、東京大学の石田英敬教授が作成した高校生向けのテキストがある。高校生向けだからといって馬鹿にしてはならない。ここにはとても重要なことが書かれている。とりわけ「計算可能な量」という言葉は無視できないものがある。たとえば東浩紀氏の『情報自由論』は、最後に「正義とは計算不可能なものである」というジャック・デリダの言葉を引いてその連載を終えている。ここでその「計算不可能なもの」を「アート」と呼んで何が悪い。それはとても「実行が難しいもの」なのだ。

『風の旅人』的なるもの、そのすべてに抗して

2006年12月10日 | Weblog
 佐伯剛氏のブログはいつ読んでも最悪だが、そんな佐伯氏に声をかけられた連中は、にもまして最低である。今日、初めて佐伯氏の雑誌『風の旅人』を手にとってみた。文章を寄せているのは皆「新書文化人」の連中である。それゆえ、どれもこれもネズミのケツほどの価値も無い駄文ばかりである。だが写真家のほうはもっと酷い。たとえば津田明人という写真家による野良猫の作品には森山大道の影響が強く感じられるが、いかんせん「猫」では迫力が無い。表紙に採用された松井良寛の妊婦写真は確かにストレートだが、それだけでは能が無さ過ぎる。パーキンスの写真表現は70年代「ニュー・カラー」の失敗作だ。他の連中の写真は、たんにシャッターを押したらそのように偶然写ったというだけの素人写真にすぎない。ところでこの号に掲載されている古谷画伯(イタリア帰り)の文章によれば、本を買うということは、その本を出した出版社や編集者、そして著者に対する「積極的な評価の表明」になるのだという。ならばもう二度と買わないことにしよう。

暗い部屋5

2006年12月08日 | Weblog
『イメージ、それでもなお』を訳出した橋本一径氏はそのあとがきで、著者のユベルマンが「扉」の思想家であることを強調している。いわく、扉とは閾であり、イメージは閾として構造化されている。我々をこちらとあちらの間に置くもの、それが閾であり、イメージである。扉には閾を踏み越える運動、内と外を行き交う出入りの動きが不可欠である。だから、イメージの場所とは「窓」ではなく、あくまでも「扉」でなければならない――。だがそこで何が行き交うのか。あの「ホワイト・ウォール」に照屋勇賢が設えた半開きの「扉」には、いったい何が出入りしていたというのだろうか。

「声―意識(フォネー)の中心化装置(耳)が起動する以前に、それよりも内部に、つねにすでに郵便空間(内耳)は侵入している。複数のセリーとリズムはそこで衝突する。そしてその結果「内耳性=迷宮的なめまい vertige labyrinthique」が生じる。~とすれば私たちはそこから逆に、エクリチュールの観念を、声―意識から逸脱するものとしてではなく、むしろ、その外に満ちたさまざまなリズムを互いの差異を維持しつつ声―意識の中へと導き入れる、ある種のゲートの隠喩として考えることができるだろう」(東浩紀『存在論的、郵便的』P186より抜粋)

 いよいよ凄い話になってきた。ここからが本番だ。(続く)