SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

けるけないの森へ その5

2010年08月30日 | Weblog


>わたしがパフォーマンスを行うとき、わたしはつねに芸術=人間という結びつきを強調してきた。脂肪とマーガリンを使ったパフォーマンスでも、この考え方を打ち出そうとした。パフォーマンスの初めでは、脂肪は単なる混沌であり、純粋なエネルギーとしてしか現れない。このエネルギーは方向性をもたない。混沌として見えるのはそのためだ。パフォーマンスが進行するにつれ、この塊は動き、幾何学的なかたちをとり、ある構造をもった全体、あるいは空間の一部となり、直角を成す。これがフォルムだ。その中心に、運動を起こすことができる。これらが人間の本性を形づくる要素だ。それを完成させることもできる。それには、意思と感覚、そして思考を加えればよい。これがわたしのすべてのパフォーマンスの底流をなす総譜だ。(ヨーゼフ・ボイス談、『アートワーズ 現代美術の巨匠たち』(スカイドア1992年)100ページ)

 混沌から秩序を取り出すということについて、東浩紀が面白い話をしていた。丸山純子の制作に、意外にも情報理論的な魔術性が発見される瞬間だ。

>『クリプトノミコン』にも、ローレンスが潜水艦に乗っていて、潜水艦の下に流れている波とか渦のなかにも遠くはなれた日本軍の船の存在や移動速度についてのデータが入っているはずで、この波を解読すれば大量の情報が入手できるはずだと述懐する場面がありますね。混沌から秩序を取り出すわけです。こういう点で、かつて近代が切り捨てた可能性が、情報理論という装いでもういちど復活してきたところがある。(東浩紀著『批評の精神分析D』134ページ)

けるけないの森へ その4

2010年08月30日 | Weblog
>ボイスの代表的インスタレーションのひとつ〈作業場の蜂蜜ポンプ〉は、77年のドクメンタ6における自由国際大学の対話(討論)と並行して展示された。一方では溶けた蜂蜜が、会場にめぐらされたホース内をポンプによって循環し、他方でボイスが人々と社会問題について討論するというこの光景に、ハイケ・フールブリュッゲは伝統的な宗教絵画における巣(箱)の意味、文彩を重ね合わせた。つまりここで蜂蜜は、人々の間に交わされる言葉(思想)と意味的に呼応し、それらが巡回することで社会は有機的に構成されていくのである。(『ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』(フィルムアート社)186ページ)

 おそらく同様の理由により、『けるけないの森へ』展には対話(ギャラリートーク)が最初から組み込まれていたのである。革命的な人間、行動する人間への第一歩を踏み出させる「ソクラテス的な空間」について、ボイスは語る。

>それがわたしの仕事のなかでもっとも重要な部分なんだ。それ以外のもの、つまりオブジェだとかドローイング、あるいはパフォーマンスなどはどれも付随的なものにすぎない。ほんとうのところ、わたしは芸術とはあまり関係がないと思っている。芸術は人との対話の可能性を開くという意味でのみ、興味の対象となる。(ヨーゼフ・ボイス談『アートワーズ 現代美術の巨匠たち』(スカイドア1992年)101ページ)

けるけないの森へ その3(タイトル変更)

2010年08月23日 | Weblog
 先のUST録画で丸山純子は、「四角形なら簡単にできるが、六角形はまだ成功していない」と言っている。この何気ない発言から明らかになることは、六角形の「蜜蜂の巣」構造を社会的に形成することの難しさである。古谷利裕(写真)は、その「六角形はまだ成功していない」という丸山の発言を単なる作品制作上の都合と聞き流したようだが、そうではないのだ。もっと大きな社会彫塑的な意味を含む発言なのである。

>『蜜蜂について』(1923)などのルドルフ・シュタイナーの言説から想を得たボイスは、蜜蜂による巣の形成に有機的人間社会の理想像を重ね合わせてた。彼にとって、蜜蝋は社会を形成する一種の「彫塑的」素材であり、個々の蜜蜂によって集められた蜂蜜は一種の社会的「結晶体」ということができる。それらはまた、熱によって溶け、また固化することで「社会」(巣)の形成と維持に寄与するという点でも、ボイス的社会造形思想を体現する素材であった。(『ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』(フィルムアート社)186ページ)

(連載タイトルを「けるけないの森へ」に変更した)

ZZのはじまり その2

2010年08月23日 | Weblog
 ところでヨーゼフ・ボイスという人は顔も厳しく、とくに政治的な言動も目立ったということで、すごく男っぽい芸術家という印象がある。しかし作ったオブジェなんかをよく観ると、どうも女性的で、しかも主婦的な感じがするわけだ。そしてこの21世紀の始まりに、日本に住む主婦的なアーティストが、そのボイスの芸術哲学を身近に引き継ぎ、家のガレージで展開しているというのは面白いのではないか。丸山は「台所でビニールの三角折りをしていたら芸術が出てきた」とか言ってるが、これこそボイスの教えの本懐かもしれない。......と言えば、直ちにオリジナリティのことを口にする人もいるだろう。丸山はボイスのパクリなのかと。しかしボイスの壮大なレディメイドの志向を深くよく考えてみれば、もはやオリジナリティなるものなど男性的な抑圧にすぎず、主婦的な関係の無意識からすれば、そんなものは今さらたいした価値など持ちえないのである(仮にあったとしてもせいぜい「自己啓発」か「ひきこもり」程度のもので、芸術的には何の意味もない)。古谷が丸山の作品や発言をまったく理解できずにいるのも、その無意識の主婦的な展開を捉えられずにいるからだろう。

ZZのはじまり その1

2010年08月22日 | Weblog
 一見して丸山純子のインスタレーション写真から分かることは、まずヨーゼフ・ボイスからの影響である。おそらく丸山はニューヨークの美術大学で、ボイスの芸術についてとくに勉強したのではないだろうか。不勉強な私は未だボイスの芸術について詳しく語る用意は無いが、それでも古谷利裕よりは、ボイスや丸山の芸術について、いま少しでも気の利いたことを言えるかもしれない。ていうか、古谷は「問題のUST」で、そのインスタレーションをまじかに観ているにもかかわらず丸山に「よく分からないというのが印象ですか?」とか言われて焦っているが、私からすれば、正直、作品など実見する必要も無い。私の批評のモットーである「絶対文脈主義」をもってすれば、丸山のインスタレーションの完全解読は、時間の問題である。まずはとにかくボイスに訊くことだ。丸山の用いた石鹸、油、水、プラスティックという素材について。

>ボイスは、単に素材のグロテスクさや醜悪さを狙って脂肪を用いたわけではない。脂肪は、ボイスの彫刻理論を最もよく体現する素材であった。脂肪は、温度によって液体へも固体へも変化する。混沌した不定形の物から冷却によって秩序ある形が生まれ、熱が加わればその形が再び溶解しうるという、脂肪の「途方もない順応性」は、ボイスにとって世界の絶え間ない変容可能性をも意味した。(『ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』(フィルムアート社)181ページ)

ニーチェの赤い傘

2010年08月21日 | Weblog
RT @ShigehikoHasumi 無論、デリダは、書かれた文字の「漂流性」をラディカルに突き詰めた場合に、この「赤い怪物」のような「フィクション」が出現するとは思っていなかったに違いない。(蓮實重彦著『表象の奈落―フィクションと思考の動体視力』(青土社)315ページ)

 いや、ジャックが『尖筆とエクリチュール』の最終章でニーチェの《私は自分の雨傘を忘れた》をRTしているのは、その雨傘にある種の怪物性を見ているからに他ならない。なにしろそれが「赤い傘」で、しかも裏地の色が緑と青だっていうのだから、これはもう確定で......って蓮實重彦に意見しちゃったよw マジかよ。

RT @TheodorAdorno ニーチェは、雨のときも晴天のときも、赤い日傘を携えていた。―― 思うに、ニーチェは、その傘に、自分を頭痛から守ってくれる役割を期待していたのであろう。(テオドール・アドルノ談、清水真木著『ニーチェにおける雨傘の問題』より)

新宿のカリスマ書店員の謎

2010年08月21日 | Weblog
RT @masayukisakane:その際、湊氏が「よく観てるね」と私のことを褒めてくださいました。これほど良質な作品を撮る写真家がそうおっしゃるのだから、そうなのでしょう。私は写真鑑賞の経験はまだ浅いのですが、絵画については岡崎乾二郎氏に手解きを受け~(坂根正行のブログより)。

その二ヶ月前の発言

RT @masayukisakane:上映後、岡崎さんを囲んでご飯を食べたらこんな感じだった。「みんな岡崎乾二郎に頼りすぎ!」(現代美術)みんなのなかには、僕も含まれている。いつまでも頼っていてはダメだとは思う。でも上映会&晩餐会は楽しかったし、楽しんでよかったのだ。芸術は《拝む》のではなく、《参加する》ことに意義がある。(

 私はジュンク堂新宿店の坂根正行という書店員については何も知らないし興味もない。ただし奴が「カリスマ書店員」を自称していることには邪な関心がある。「諸事情」から建築の道を早々に断念せざるをえなかったという坂根は、もしかしたら「建築」と「絵画」の抽象的な意味合いにおける関係から、かつて岡崎乾二郎の指導を実際に受けた「弟子筋」にあたるのかもしれない。あるいは灰塚アースワークのプロジェクトに参加していたか、四谷アート・ステュディウムの生徒であったのかもしれない。それならば問題はないが、しかしもし、たんに一夜限りの晩餐会に参加したという理由だけで、「岡崎乾二郎氏に手解きを受けた」と言っているのだとしたら......。坂根正行の「マジック」には注意が必要だろう。『ユリイカ』の編集部などは「そのこと」に気がついてないようだが......。

秋葉原レッド・ライン7

2010年08月19日 | Weblog
RT @ShigehikoHasumi: ウィルフレッド・セラーズの『科学、知覚、現実』の「経験主義」の章では、「物理的な対象は感覚内容の事実的かつ可能的な原型である」という事実を語る例として何度も「赤」に言及している。「ジョーンズは、一つの赤い三角形の拡がりを感じ取った」、「赤い三角形の拡がりが存在する」、「赤い三角形の感覚内容が存在する」、等々、である。ウィラード・クワインもまた『ことばと対象』の第一章「言語と真理」を「日常的自称」の考察から始め、すぐさま「痛い!」という痛みをあらわす主観的な一語文と同時に「同時に観察している複数の人々がほぼ一様な刺激状況」を持ちうる客観的なケースとして、「赤」の分析を始めている。「赤‐緑」の色盲が「redのうちに人夕日を入れて草は除き、ロブスターはゆでた後だけ入れる」という識別をどのように習得するかという問題からその考察を始めるクワインは、「不明瞭性(vagueness)」は、語の学習の基本的なメカニズムの当然の帰結である」といい、「たとえば“red”(赤い)という言語的反応を引き出す刺激は、境界のはっきりしたクラスを成すのではなく、ある基準形を中心にしてその周囲に分布している」と述べている。(蓮實重彦著『「赤」の誘惑-フィクション論序説』(青土社)307ページ)

「大丈夫だよ!救急車来たよ!」「救急車とおります、どいてください!」 路上で治療を受ける被害者達の痛々しい姿を見て、あらためて加藤に対する怒りを覚え、そして公判における供述に注目した人も多いだろう。だが、もはや加藤の「意図」や、その「解釈」などどうでもいい。分析すべきは、事件をいちど加藤の意図から切り離した上で、事件と環境の相互作用を考慮し、加藤にこの事件をそのように起こさせ、そのように供述させることになった、その無意識の力学である。(参考:東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』215ページ)
 
 先の映像では、何人もの人が治療を受ける被害者の前を心配そうに通り過ぎているが、そこでひとり赤いポロシャツを着た人物が一寸止まり、治療の様子を覗き込んでから通り去っている。あたかも「赤」の怪物が、カメラの前で、その姿を一瞬だけ現したかのようなのである。ほんの一瞬だが、その赤いポロシャツが、まるで枢機卿の法衣のような三角形を形作るのだ。

秋葉原レッド・ライン6

2010年08月17日 | Weblog
RT @masayachiba カントの『判断力批判』における「崇高」とは、表出不可能なものが否定的に表出されるモメントだが、宮崎裕助は、その辛うじての否定的な表出さえもを不可能にする絶対的否定性として「吐き気」を論じ、それを「パラサブライム」と呼ぶ。(千葉雅也著「パラマウンド-森村泰昌の鼻」より、『ユリイカ』3月号195ページ)

 逮捕時の音をよく聞くと、そのとき加藤は、何か呟いているのではなくて、呻き声を上げていることがわかる。「パラサブライム」とは宮崎裕助氏によれば、「それは崇高なもののもとで、まさに崇高の傍らにありながら、当の崇高から逸脱しそれを超え出てゆく、そのような二重の働き(beside and beyond)を言い表す名」のことであるというが、そのときの加藤がバーネット・ニューマンの「英雄的にして崇高な人」の「傍ら」で「吐き気」を覚えていたであろうことは、逮捕時の映像からあきらかである。ところで「ニューマン(思弁)とウォーホル(投機)と加藤(その盲点)の時を越えたコラボレーション」というのも、この「パラサブライム」と何らかの関係がある。もともと「思弁-投機-盲点」のアイデアは、スペキュラ第一回での浅田彰先生の御言葉「スペクルム・シネ・マクラ」の頂戴に基づく何かしら理論的根拠のある言い草だったのであり、それほどデタラメなことを吹いていたわけではなかった(のではないだろうか)。

秋葉原レッド・ライン5

2010年08月17日 | Weblog
RT @ShigehikoHasumi くり返すが、ここで重要なのは、地球儀上の日本列島や七草の竹龍に生けられた「赤蕉」を、子規が「赤い」と認識することそのものではない。総体からすればほんの小さなその「赤さ」が、幼少期より彼が好んでいた色彩だと主張することも重要ではない。そうではなく、それを目にすることで、1901年1月の子規の意識が、いきなり「20世紀末」という彼の想像を超えた未来や、『源氏物語』と『枕草子』の書かれた遠い過去の時代へと誘われているということの推移が読まれねばならない。二つのオブジェに偶然そえられていた「赤さ」は、不意に異なるコンテクストを交錯せしめ、それに好ましい視線を送る主体を、いま、この場所を離れた遥かな時間=空間へと遠ざける機能を演じ始めているのであり、主体はそれに対して責任をとることすらできない。(蓮實重彦著『「赤」の誘惑―フィクション論序説』(青土社)197ページ)

クオリアの「赤」

2010年08月17日 | Weblog
RT @ShigehikoHasumi ことによると『赤頭巾』という物語には、テクストに無感覚な理論家たちばかりを惹きつける邪悪な磁力が装填されているのかもしれない。(蓮實重彦著『「赤」の誘惑-フィクション論序説』(青土社)81ページ)

 たとえば『可能世界・人工知能・物語理論』のマリー=ロール・ライアンは、蓮實重彦の指摘よれば、そのフィクション論でやはり『赤頭巾』について論じておきながら、どうやら『赤頭巾』のテキスト自体はまったく読んでいないらしい。それでいながらコンピューターのプログラマーでもあるライアンは、『赤頭巾』を生成せしめる「架空のプログラム」を提供するつもりでいるというのだ。『「赤」の誘惑』の第三章「可能世界と構造分析」では、このライアンの他に、ウンベルト・エーコやトマス・パヴェルやダン・スペルベルらの文学理論家が『赤頭巾』に触れた際の「ダルさ」が指摘されるが、いずれもジョン・R・サール同様に、そして自分が例題で『赤頭巾』を選択したこと自体は問題にしていない。......ライアンがプログラマーであるということも興味深いが、それ以上に、あの脳科学の茂木健一郎がクオリアの「赤」に惹かれていることには、何かしら「疑似科学w」では済まされない深層がありそうだ。

秋葉原レッド・ライン4

2010年08月16日 | Weblog
RT @JacquesDerrida このことはおそらく(たとえばであって、ここのところは特に慎重に聞いてほしいのですが)、フロイトが、彼もまた、見事なまでの豊かさと連続性をもって、われわれのためにエクリチュールの舞台を整えてきた、その身振りにうかがえることでしょう。ここでは、そうした舞台のことを、個体的集団的な心理学、さらには人類学との関連においてではなく、まったく別個に考えなければなりません。これを世界の舞台の地平内で、そうした舞台の歴史として考えなければならないのです。フロイトの言説はそこに捉えられているのでした。したがって、フロイトはわれわれのためにエクリチュールの舞台を整えているのでした。物を書く者なら誰もがそうするように。そして、書くことを知っているものなら誰もがそうするように。フロイトは、舞台が二重化され、反復され、自らその姿を舞台の中であらわにするにまかせています。したがってわれわれは、フロイトに向かってこそ、彼が整えてくれた舞台を語らせることになるでしょう。われわれのフロイト閲読を沈黙の内に監視してきたひそかな銘句を、まさしくフロイトから借用することになるでしょう。(ジャック・デリダ著「フロイトとエクリチュールの舞台」より、『エクリチュールと差異』114ページ)

 ここのところも特に慎重に聞いてほしいのだが、バーネット・ニューマンもアンディ・ウォーホルもまた、見事なまでの豊かさと連続性をもって、加藤智大のために、そして我々のために、エクリチュールの舞台を整えていたのである。絵を描く者なら誰もがそうするように。この写真には、二重化され、反復された舞台の中であらわにされたバーネット・ニューマンの「ジップ」を、はっきりと確認することができる。

秋葉原レッド・ライン3

2010年08月16日 | Weblog
 もうはっきり言ってしまったほうがいいかもしれない。バーネット・ニューマンの「英雄的にして崇高な人」は、秋葉原事件に「前もって」描かれた絵画である。加藤の後ろに赤い看板と線が映っているのは偶然ではなく、それらはニューマンが、まさにこの事件のために用意した赤いキャンバスでありジップである。最終的に「英雄的にして崇高な人」に到る抽象画の連作をニューマンが描き続けていたのは、そのうちのどれかが、この「絵」に組み込まれるであろうからだった。しかし、ニューマンの抽象画だけでこの「絵」を完成させることはできず、その後のポップ・アートによる反転的な補完が必要となる。「商品大量展示」というポップがニューマンの不足を補い、ついにこの「英雄的にして崇高な人」の「絵」を完成させるのである。つまり秋葉原事件とは、バーネット・ニューマン(思弁)とアンディ・ウォーホル(投機)と加藤智大(その盲点)のコラボレーションにより、時を越えて実現された「作品」だったのである。

ミステリック・サイン2

2010年08月14日 | Weblog
RT @kenjirookazaki(岡崎乾二郎) 夜、口笛をふくと蛇に襲われるという言い伝えがあった。/// けれど蛇に耳はない(正確には耳にあたる器官は皮膚内部に埋もれ、鼓膜も鼓空もない)。つまり蛇に空気中の振動は聞こえず地面を通して伝わる振動しか捉えることができない。蛇の聴覚はむしろ触覚的な感覚。

 そwれwだwww。このエイリアンも耳が埋もれてる。妻の「前もって」知っていたかのような最後の言葉も、次のように考えると腑に落ちる。さすが最終解脱者だ。

RT @kenjirookazaki(岡崎乾二郎) ところで絵画において観客はいつもヘビの立場にいる(場面の中に生じているだろう音を聴く事も、起こっているすべてを見通すこともできず、にもかかわらず、すべてを前もって与えられてしまっている)。直接、事件を起こしたヘビ同様に、その事件の生起(それを認めること)も隠蔽も観客に委ねられる。

秋葉原レッド・ライン2

2010年08月14日 | Weblog
>目にするもののことごとくが赤色を帯び、ものとものとの識別さえままならぬ真っ赤な色彩だけが視界に拡がりだしていたとしたら、フィクションを論じる者は、そうした事態にどう対処すればよいのか。「赤」さが視界をおおいつくすといった作品は、これから見てみるように、まぎれもなく存在している。日常的な感性からすればいささか異常とも映るそんな事態は、はたしてフィクションとして生起しうるのか、生起しえないのか。かりにフィクションとして生起しうるとするなら、その場合のフィクションとはいかなる概念をいうのであるか。そうした問題を探求するのにふさわしい例として、『フィクションの美学』の西村清和がその最終章「崇高の美学」で言及しているバーネット・ニューマンの絵画《Vir Heroicus Sublimus》をとってみるとどうなるか。文字通り「赤」さに支配されたこの抽象絵画における「赤」さの氾濫は、フィクションをめぐる理論家達が話題とした「赤」い頭巾、「赤」い靴、「赤」いメガネ、等々、にもまして徹底したものであり、キャンバス一面を「赤」の絵の具がむらなくおおっている。(蓮實重彦著『「赤」の誘惑-フィクション論序説』(青土社)135ページ)