SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

「村上隆問題」について

2006年04月27日 | Weblog
 村上隆問題など存在しない――私たちはこれまでそう主張してきました。しかし今、それが間違いだったと認めねばならなくなりました。ここまではっきりと「問題」の輪郭が現れてしまえば、もはやどんな言い逃れもできません。誤解でもなければ錯覚でもない。確かに「村上隆問題」は存在した。それは「人間だから仕方ない」という許容の範囲を大きく超え、許しがたい問題として盗人猛々しくも存在している。
 私たちは急がねばなりません。今すぐにでも、村上隆という人間から「スーパーフラット」というコンセプトを切り離し、その可能性を救い出さねばならない。彼がその「オリジナリティ」を主張し始める前に、スーパーフラットなオーラが消え去る前にやらねばならない。

世界共和国へ

2006年04月25日 | Weblog
「今どき柄谷行人なんてありがたがっているのは、岩波の編集者ぐらいのものだ」――ワイアードなアニキのひとり池田信夫氏が柄谷行人の新著『世界共和国へ』(岩波新書)を批判している。なにしろあの『国家の品格』にも劣るというのだからこれは手厳しい。だがそんなにムキになって怒ることもあるまい。いまや人文学という領域そのものがもはや漫画としてさえ成立しなくなった時代である。それでも『国家の品格』は「武士道精神の復活」というファンタジーによってギリギリ漫画のレベルを保っていたがゆえ多くの支持を集めたが、柄谷行人の「世界共和国」というストーリーは漫画にするにも寒すぎる。誰も読まないだろうし、また読む必要も無いだろう。

自由に描いてやるさ

2006年04月23日 | Weblog
 アーティストというのは、人に「自由に描け」と言われるまでもなく、自分は「自由に描くことができる」と「本気で信じて」しまえる強者達のことである。もちろんその「正しさ」は「論理的」には間違っているわけだが、しかしその間違った「信」のレベルの働きなくしては、そもそも「論理」も「構造」もありえない。このダブルバインドはつまり、「自由に描く」ことの不可能性を露呈させるだけではなく、同時に「自由に描く」ことの可能性を条件付けるのである。――ところで今どき得意になって「相対主義」を唱えている人間がいるだなんて信じられない。やはり彼は80年代に拉致されたままのニューアカ被害者なのだろうか。

言うまでもない事

2006年04月16日 | Weblog
>むしろ「自分」という凡庸なる存在を常に相対化し「個性」なるものをズタズタに引き裂いていくのが歴史であるはずだ。その圧倒的な情報の厚みの前で「自分」の「個性」なんて消し飛んでしまう、言うまでもない事だ。

 いったい何が「言うまでもない事」なのだろうか。この信じがたい発言は「童話/日記」の池田孔介氏によるものである。ここで彼は「絶対主義」に対する「相対主義」の優位を単純に唱えているだけなのだが、なにしろ問題なのは彼の発言にはアイロニー(逆説)が無いことだ。そもそも絶対的なレベル(交換不可能性)と相対的なレベル(交換可能性)は「逆説」を介して否定的に繋がっているのであり、それらを切り離すことはできない。そこで「自分」や「個性」は相対化の果てに「消し飛んでしまう」のではなく、逆にその条件(単独性)が残余として現れるのである。それこそ言うまでもない事だ。

古谷利裕の幸福な夢

2006年04月16日 | Weblog
 06/04/14(金)の偽日記で古谷利裕は、何故かキャスターのついたドラム缶にへばりつくように抱きついて、ずっと先まで田んぼや畑がひろがる平坦な場所を、何かをやり遂げた後のような安堵感と、これから何かが始まるような予感とが入り交じった、あり得ないほど幸福な感情で満たされながら進んでいる、という夢を見たのだという。いったいどうしたらこんな奇妙な夢を見ることができるのだろうか。彼の説明では、身体の状態やその気分が反映されているというのだが、「キャスターのついたドラム缶にへばりつくように抱きついて進んでいる」というのはどういう状況なのだろうか? なんとも不思議な夢である。