SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

インランド・エンパイア24

2009年12月31日 | Weblog
 さて、前回凄いものを発見してしまったので、さらに詳しくエンディングのシーンを分析して検討した結果、あるひとりの風変わりな男の存在が浮かび上がり、その男をここに連れ出してくることになった。象徴界を破壊しようとした男、アントナン・アルトーだ。ぶっちゃけ、この女たちの踊りの「ぎこちなさ」は、アルトーが「神の性的不器用」と呼んだものに由来している、と考えられないだろうか。これからアルトーを尋問するが、何か判明したらまた報告したい。ていうか、いつまで続くんだこの連載は。

>彼はぎこちなくなりたかった――何というか――「不器用(maladroit)」になりたかったのです。なぜなら彼は当時、デッサン技法の教え方、すなわちその訓練法は、彼が拒絶していた文化によって浸透されていると考えていたからです。だから、彼は上手なデッサンの規範を侵犯したかったのです。彼が何度も繰り返し「不器用(maladresse)」という語を用いるとき、そこにはもちろん誤った宛先という意味での「宛先違い(mal-address)」や、ぎこちなさという意味での不器用(maladroitness)や、また彼自身のデッサンの見かけ上の見当違い(misdirection)が含意されていますが、しかしまた、神の性的不器用と彼が呼んだものに対する反撃としての投射も含意されているのです......彼自身の、神話としての歴史のなかでは、すべてが〔神が性を自然に受け入れられないという意味での〕神の性的ぎこちなさの結果なのです。(『デリダ、脱構築を語る―シドニーセミナーの記録』44ページより抜粋)

インランド・エンパイア23

2009年12月28日 | Weblog

>僕が言いたいのはそこなんです。象徴界が部分的に成立して、なんとなくガタピシしながら動くなんてことは、ラカンは想定していないでしょう。(『不過視なものの世界』34ページより東浩紀の発言を抜粋)

『不過視なものの世界』の東浩紀と斉藤環の対談でリンチの話はごく僅かだが、しかしこの対談の全体にリンチが響いている、というか、逆にこの対談の内容が後のリンチの映画に全面化しているというか、とにかくリンチを理解するうえではすこぶる参考になるのだった。私は数ヶ月間シド・バレット状態で何もしなかったのだが(爆)、YouTubeで再び『インランド・エンパイア』のエンディングを何気に眺めていて、そこで驚くべきものを発見したのだった。時間にして僅か数秒だが、このことは決定的である。リンチはこのエンディングで件の「雨傘」を実際に我々に見せているのである。ニッキーが安心しきった表情で見上げているのは、金色に輝くモスクの雨傘状の天井なのだが、注目すべきは、その見せ方なのだ。リンチはこの雨傘の全体を見せずに、部分的に、しかもカメラを揺らしながら見せている。上の東浩紀の発言とおり、雨傘(象徴界)が部分的に成立して、なんとなくガタピシしながら動いている、ということが実際に示されているのだ。そしてさらに驚くべきことに、この部分的な雨傘に反応するかのように、木こりの男のかぶっているニットの帽子の先がピンと立っているのである。つまり触覚(もうひとつのエプロン)が、大きな非=物語(萌え要素のデータベース)にガチに反応しているのだ......。ちなみに女たちのデタラメな踊り方や、木こりの男が示す「切断」の意味は以下のとおりである。70年代のデリダのテクストのある特徴について東浩紀が語っている。

>人間の責任の範囲は、基本的に物理的な条件で制限されている。デリダふうにいえば「エクリチュール」の問題です。エクリチュールには限界がある。なぜなら物質だから。これは口頭の会話でも同じです。しゃべり続けると疲れる。しゃべれなくなるから話題を変える。あるいは解散する。そうやってコミュニケーションは続いていく。限界があるからこそ無限に続く。これは矛盾でもなんでもなくて、具体的にそうなんですよ。僕はデリダの哲学をそういうふうに受け取っている。(『波状言論S改』237ページより抜粋)

 そしてこのエンディングの最初には妙にケバい女が登場するが、どう見ても女装した男であり、しかも片足が義足である。萌え要素が「着脱可能」であるということを東浩紀が強調していた事を思い出すのだった。(続く)

プンクトゥムの真実

2009年12月22日 | Weblog
>第二の要素は、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。こんどは、わたしのほうからそれを求めて行くわけではない(私の至高の意識をストゥディウムの場に充当するわけではない)。写真の場面から矢のように発し、私を突き貫きにやって来るのは、向こうのほうである。ラテン語には、そうした傷、刺し傷、鋭く尖った道具によってつけられた標識(しるし)を表す語がある。しかもその語は、点を打つという観念にも関係があるだけに、私にとってはなおさら好都合である。実際、ここで問題となっている写真には、あたかもそうした感じやすい痛点のようなものがあり、ときにはそれが斑点状になってさえいるのだ。問題の標識(しるし)や傷は、まさしく点の形をしているのである。それゆえ、ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はプンクトゥムと呼ぶことにしたい。というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり--しかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、わたしの胸をしめつける)偶然なのである。(ロラン・バルト著『明るい部屋』38~39ページより抜粋)

 なんのことはない。「萌え要素」について、デリダはそれを「エプロンズ」と呼び、そしてバルトは「プンクトゥム」と呼んでいた。ただそれだけの話である。デリダとバルトは共通の趣味を持つ萌え兄弟だったというわけだが、おそらく彼らだけでなく、こうした萌え要素にもうひとりの神を見た先達は他にもいるはずである。

>また「触覚のように刎ねた髪」は、筆者の観察では、90年代の半ば、ノベルゲームの『痕(きずあと)』で現れたことから一般化し、現在では多くのアニメやゲームで見られるデフォルトの要素に成長している。消費者の萌えを効率よく刺激するために発達したこれらの記号を、本書では、以下「萌え要素」と呼ぶことにしよう。萌え要素のほとんどはグラフィカルなものだが、ほかにも、特定の口癖、設定、物語の類型的な展開、あるいはフィギュアの特定の曲線など、ジャンルに応じてさまざまなものが萌え要素になっている。(東浩紀著『動物化するポストモダン』66~67ページより抜粋)