SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

疑似ドキュメンタリーについて その6

2010年06月13日 | Weblog


>周知のように、この最晩年の著作『モーセと一神教』でフロイトはユダヤ教の誕生を考察するにあたり、モーセがエジプト人であったという仮説を出発点にした。もとより証明不可能の命題であることは承知のうえであるが、それでもフロイトはモーセという名がエジプト語であった可能性と、モーセが河に遺棄され拾い上げられたという神話の分析に拠りながら、論をすすめる。「......確実なことが言えないとするならば、そもそも私はなぜこのような研究を公表したのだろうか?......なぜかというと、ここで述べられた二つの論拠が注目され、モーセがひとりの高貴なエジプト人であったという想定を真実だと見なす気持ちが生じるならば、その場合、大変に興味深くかつ広大なパースペクティヴが現れるからである。ある程度確かな、それほど的外れでない仮説の助けを借りるならば、モーセを尋常ならざる歩みへと導いた動機が理解されるであろうし、その動機との緊密な関係のなかで、モーセがユダヤの民に授けた掟と宗教に関する数多くの特質および特異性を根拠づけることが可能となろう」(港千尋著『影絵の戦い―9・11以降のイメージ空間』122ページ「アイデンティティの限界」より抜粋) 

さらにアンドレ・ルロワ=グーランの話。

>フランスの先史学者アンドレ・ルロワ=グーランは、旧石器時代の石像や壁画について、それがいつ、どのような材料で、どのようにしてつくられたかを解明することは可能だが、それをつくった人間の手が、いったん洞窟や材料の石を離れた瞬間、それがなぜ、何のためにつくられたのかに対する答えは、闇のなかに取り残されると説いた。ひとかけらの石は、人間の手を離れたときから、それを再発見し観察する人間の想像力(それが文学的なものであれ科学的なものであれ)のなかでしか生き続けることはできないからである。だからといってそれを問うことが無意味であるというわけではない。観察しそれを言語化する人間の想像力が重要となる。(同上127ページ)

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