SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

インランド・エンパイア21

2009年07月31日 | Weblog
>まずはじめにエスがある。そこでは諸欲動が、快感原則に従い勝手に蠢いている。それゆえここに自我はない(したがって意識もない)。では自我は何故生じるのか。それはエスと外界との〈接触〉により生じる。自我は外界からの情報を外的知覚により捉え、内界=エスからの欲動を内的知覚により捉える[図3―1b]。そして両者を調整する(現実原則と快感原則との葛藤)。ならば何故、エスと外界は接触するのか。『自我とエス』のフロイトはその条件を、世界(外的知覚の圏域)の内部に現れつつ、しかも同時に世界外(内的知覚)に止まる身体の知覚二重性から導き出している。「自分の身体、とりわけその表面は、外的および内的知覚が同時に生じることのできる場所である。それは他の対象と同じように見られるが、しかし触れられるという異なった感覚からも生じる。[......]自我はその表面の投射物である」。つまり自我は世界内と世界外との界面、世界に対する二重襞的存在として生成する。ここで再び、その主張をクラインの壷に引き寄せ図式化してみよう[図3―2]。(東浩紀著『存在論的、郵便的』269ページ)

インランド・エンパイア20

2009年07月28日 | Weblog
>ニーチェは「巨大な耳」に対して侮蔑ないし嫌悪の念を表してた、それは「逆向きの障害」にほかならない、と。「巨大な耳」とは、それのみで人間存在の全体を侵食してしまい、それゆえに、人間を断片化して、生の意味を危うくするものであった。それは専門化して生の全体的バランスを崩した、現代人の姿を彷彿とさせるものであった。その意味で「巨大な耳」とはアンバランスのアレゴリーにほかならない。ところが、バランス感覚をつかさどるのは、内耳、つまりは耳である。バランス感覚の器官であるがゆえに、耳はアンバランスをひき起こす器官でもあるのだ。その意味で、バランス―アンバランスとは、すぐれて耳によって象徴化されるといわなければなるまい。そして、生の平衡が崩れた姿が「巨大な耳」で表されるとしたら、生の平衡は「小さな耳」で具象化されるに如くはないであろう。(須藤訓任著『ニーチェ〈永劫回帰〉という迷宮』125ページより)

 ニーチェの入門書を少し読んだだけで、あのウサギ人間たちが、意味が断片化して物語の全体性を失いつつある現代人たちの寓意である、ということが分かってくる。ニーチェがロバならリンチはウサギというわけだが、ここで「巨大な耳」とは「大文字の他者(=法)」を、そして「小さな耳」とは「小さい大文字の他者(=委員会)」のことを意味している。実際、この映画には「委員会議」らしきシーンがあり、その「委員」らしき人物たちが、あのウサギ人間に変身したりするのだった......。重要なのは、それがマゾヒズム的倒錯と関係があるということだ。

>ピアッシングの一般化などに明らかなように、私たちの(1990年代の先進国の)社会はマゾヒズム的倒錯に対し寛容になってきている。その現象は精神分析的に見ると興味深い。なぜならマゾヒズムとは、ラカンによれば、主体の側があえて自らを律する「法」を、つまり「大文字の他者」を設立する倒錯だったからである。マゾヒストは絶対的自由に耐えられず、それを制限する他者(サディスト)を自ら育てあげる。したがってその倒錯の一般化は、現代社会が全体として「大文字の他者」を失いつつあること、つまり社会全体を律する象徴秩序そのものが弱体化し、各人が勝手に「小さい大文字の他者」を設立する必要に迫られていることの現われだと分析することができる。その「小さい大文字の他者」の例として、ジジェクは乱立する「委員会」などを挙げている。(東浩紀著『情報環境論集』272ページより抜粋)

神は死んだ

2009年07月26日 | Weblog
>神を埋葬する墓堀人夫たちのたてる物音が、まだ聞こえてはこないか。神の腐臭がまだ漂ってはこないか。......神々もまた腐敗するのだ! 神は死んだ! 死んだままだ! そして神を殺したのは我々なのだ! 我々――あらゆる殺害者のなかでも最も兇悪な殺害者たる我々は、どうやって慰めを得ようか。これまで世界が手にした最も神聖で、最も強力なものが、我々の短剣のせいで血を流したのだ......。誰がこの血を我々から拭き取ってくれるだろう。どんな水がそれを洗い流してくれよう。どんな贖罪の儀式を、どんな神聖な祭礼を、我々は発明しなければならぬのか。こうした行為の偉大さは、我々には大き過ぎる......。(ニーチ
ェの『悦ばしき智慧』第三部から)

 愛犬のチャーリー(柴犬オス8歳)が興奮して暴れている。やっぱニーチェはハンパないよなあ。ヘルター・スケルターというか、どれだけデスメタルなんだよwww

インランド・エンパイア19

2009年07月07日 | Weblog


「私は、まだ耳を持っているのか。私は、もはや耳にすぎず、それ以上の何ものでもないのか?」(ニーチェの『悦ばしき智慧』より)

 気合が足りないのだ。もっと瞑想して、集中して、リンチの無意識を底まで深読みせねばならない。そうしないと、この謎のウサギ人間にナメられたままになる。目には目を、そして謎には謎を。この『Rabbits』がいくら謎めいていようとも、ならばさらなる謎をぶつけてそれを粉砕するまでだ。以下の引用文は、クロソウスキーの訳したニーチェの『悦ばしき智慧』の一節にデリダが謎の注釈を加えたものである。このニーチェ―クロソウスキー―デリダという謎めきオールスターズの連係プレイをもって挑めば、絶対このウサギ人間に勝てるはずだ。

「私はただの耳にすぎないもので、それ以上の何ものでもないのか? ここ岩壁にくだける波の烈しいどよめきのただなかで(これは、よく言われるように、翻訳しえない言葉の洒落である。Hier stehe ich inmit-ten des Brandung。灼熱の鉄によってのこされた印のことも意味する。Brandの燃焼と親類関係にあるBrandungという語は、クロソウスキーが正当に翻訳しているとおり、岩壁にくだける波(res-sac)、すなわち、波が巌々の連なりに出会ったり、岩礁や断崖や突堤(eperon)などに当たって砕けるときの波が彼自身の上に立ち返ることであって)、その白い炎の波立つ立ち返りは私の足許にまでほとばしっているのであり(したがって私もまたeperon〔突堤、衝角、水切り〕である)――それは私に襲いかかる咆哮、脅迫、甲高い叫びに他ならなく、一方、最も深い地底では、年老いた大地を揺るがす者が、吼える牡牛さながらにおのれのアリアをうたっている(seine Arie singt、すなわちアリアドネーAriadneも遠くはない)。そうしながら、大地を揺るがすその足で、彼はこれらの風雨に曝された巌々の妖魔(デーモン)どもの心臓が震えるほどに拍子を取っている。そのとき、無から生まれでたもののように、この地獄めいた迷宮の戸口のところ、わずか数尋ばかり隔てたあたりに、幽霊のように音もなくすべりさってゆく一艘の大きな帆船(Segelschift)が姿をあらわす(~以下略)」(ジャック・デリダ著『尖筆とエクリチュール』より)

『ニーチェは、今日?』(ちくま学芸文庫)に収められた『尖筆とエクリチュール』の新訳『尖鋭筆峰の問題』の訳注によれば「アリアドネー」とは、「ギリシア神話に登場するミノスの娘。怪物退治のテセウスに糸を与えて迷宮から脱出する道を教えた。そこから難問を解く方法をアリアドネの糸という表現が生まれた」ということらしい。アリアドネの糸か......これには覚えがある。