SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

君はもう本上まもるを読んだか?

2007年05月18日 | Weblog
 取るものも取りあえず、本上まもる氏の著『<ポストモダン>とは何だったのか・1983-2007』(PHP新書)を発売日に買って読んだ。というかそれこそネタにマジレryの本上氏に対してはアイロニーなど一切必要ないと考えたのか、斎藤環氏がそれこそマジレryな帯言で腹を割っている。「本書の主張には賛成できない。しかし本書の『魂』には共振してしまった。いまこそ広く読まれるべき本である」......実際、本上氏はこの本のなかで、東浩紀氏の『存在論的、郵便的』に付された浅田彰氏によるあの「その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という何かしらアイロニカルな帯言について、「とまで言わしめるのだ」(P77)および「これは最大限の賛辞といってよいだろう」(P98)と、あろうことかマジレryしている。そんな人に「郵便的を誤解してはいけない」(P179)などと注意されても「それ、あんただろう」と言いたくもなる。(続く)

<ポストモダン>とは何だったのか・1983-2007

2007年05月13日 | Weblog
 死んだと思ってた本上まもる氏だが、なんと本を出すらしい。以下、本上まもるブログより転載する。

「<ポストモダン>とは何だったのか・1983-2007」本上まもる著
PHP新書
5月17日発売
定価:本体720円(税別)

目次
はじめに ログインしますか?
1-1 一九八三年の思想
1-2 終焉をめぐって
2-1 フランス現代史のおさらい
2-2 ファーストインパクトとしての浅田彰
2-3 柄谷行人とシトたち
2-4 セカンドインパクトとしての東浩紀
3-1 社会学と心理学の隆盛
3-2 ラカンはわからん?
3-3 ナショナリスト福田和也
4-1 スキゾ対動物
おわりに 幻滅を超えて


"アカルイ未来"の創造力

2007年05月13日 | Weblog
 終わったと思っていた「HOTWIRED JAPAN」が5月24日より「WIRED VISION」として再開される。シンボルカラーがこれまでの「マトリックスのコマンド」を表す緑色から「"アカルイ未来"の創造力」を表す黄色へと変わっている。しかし黄色という明るすぎる色でしか表象しえない未来とは、いったいどんなミライなのか。ウィキペディアによれば、仏教では黄色は「畜生」の世界の色として考えられているという。そういえば東氏の『ゲーム的リアリズムの誕生』も、何故だか黄色いカバーに巻かれていたのだった......。この黄色という「保護色」と「警戒色」の機能を併せ持った色で包み込まれた"アカルイ未来"とは、はたして人間にとって『すばらしい新世界』となるのだろうか。どうなんだ?

レディ・イン・ザ・ウォーター

2007年05月10日 | Weblog
 M・ナイト・シャマランの『レディ・イン・ザ・ウォーター』をDVDで観る。カメラは、虚構と現実の狭間にある小さな空間へと向けられている。ストーリーという名の水の精は、その空間の中心に据えられたプールから現れる。そしてあの浅黒い顔をしたインド系の青年に重大なメッセージを伝えた後、再び「青の世界」と呼ばれる虚構の世界へと帰ってゆく。その青年はビック・ランという名前だが、顔はシャマラン監督本人である。ビック・ランはこの世界を変える本をこれから書き始めるが、シャマラン監督はこの世界のシナリオをすでに書き終えている。この映画はシャマラン監督が自分の二人の娘を寝かしつけるため聞かせていた御伽噺を映像化したものである。二人の娘はその御伽噺を目を閉じて聞いていただろうが、我々は目を開けて見ている。がゆえに、その青年がシャマラン監督本人だと分かるのであり、あるいは水の精ストーリーが、実際、家出した薬物中毒の少女にしか見えなかったりするのである。この映画はおそらく「本気と冗談の複雑に捩れた形態の浮上」というより、聞くことと見ること、話すことと書くことの捩れた関係こそを主題としたメタ・フィクションであると考えられる。(この映画は面白かったので以下続く)

イリュージョンの楽園

2007年05月06日 | Weblog
 5月11日から6月16日までMA2Galleryにて、あの太郎千恵藏のキュレーションによる『イリュージョンの楽園』展が開催される。これを観ずにして他の何を観ろというのだろうか。レオナルドや若冲が凄いのは分かったが、あんなものは所詮『天才論』の茂木健一郎にでも任せておけばよいのである。私が取りくむべきなのは、この太郎千恵藏の凄さをいかにして古谷画伯のような人に教えるか、というもっともっと難しい問題だ。以下、古谷画伯による太郎千恵藏への誹謗を抜粋する。

>このような幼稚で酷く下手くそな太郎千恵蔵の作品を「絵として説得力がある」などと評価する人が何を考えているのかぼくにはさっぱり理解が出来ない。(お前が分かっていないだけだという人がいたら、是非教えていただきたい。)このような幼稚さをもてあそび、もちあげるものが「アート」なのだとしたら、ぼくはアートなどとは無縁に生きていきたいとさえ思う。「笑える」という意味では楽しい作品ではあるだろうが、しかし「絵」としてあまりに酷いので、目がチカチカしてしまって、この作家の作品を観た後では、すこし時間をかけて目のチューニングを直さないと、他の人の作品が見えてこなくなってしまう。(偽日記02/11/15)

小説を離れてリアルなこと

2007年05月05日 | Weblog
 この写真図版は猫の保坂和志氏の『小説の誕生』の213ページを携帯電話のカメラで複写したものである。見てお分かりのように、文中に何か奇妙な手書きの記号というか絵が挿入されている。これを「ノコギリ」や「ペンチ」や「ポリバケツ」や「シャモジ」などと同じように、普通に「ホイッパー」と言葉で書いてしまえば、それまでである。たまたま猫の保坂氏がその道具の名前を知らなかったか忘れていたために、こんなふうにそのイメージを複写せねばならなくなったのである。もし、猫の保坂氏がさらに呆けて、「ノコギリ」や「ペンチ」や「ポリバケツ」や「シャモジ」の形を文中に描き出すことになったら大変だ。ましてやアルツハイマーでも発症してしまえば、そんな猫の保坂氏の文章はもはや「カメラ無し」で引用することはできなくなるだろう。ところで大竹伸朗「全景」展のカタログ刊行が、ついに6月初旬まで延びたようだ。はたして刊行されてくるのは本当に「カタログ」なんだろうか。期待したい。