SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

ゼロアカする

2008年08月27日 | Weblog
 少なくともそれが日本語のカタカナで「ゼロ」と同じく表記される以上、ゼロアカ(ゼロ年代のアカデミズム)はZero AcademismであるとともにXero Academismでもあるだろう。70年代のゼロックス社パロアルト研究所(Xerox PARC)でアラン・ケイ達が夢見た世界、そのゼロ・グラフィ(Xero Graphie)な夢が、このゼロ年代の「乾いた」想像力を準備した。殉教者デリダは「ゼロックスXEROX」についてこう語る。

>同じことが言える。Xはほとんどフランス的な文字ではない。しかし、ここで『複製技術時代の芸術作品』に言及するため、私はXEROXを想起する。Rank Zeroxランク・ゼロックス、この複製機生産に特化した企業の固有名は、合衆国で、代替不可能な普通名詞、むしろ動詞を、このうえなく普通の動詞to xeroxゼロックスする[コピーを取る]を与えたばかりではないということを記しておく。私にとってこの固有名詞は、乾燥に向けて、合図を送り続けているのである。xerosはsec乾燥しているという意味である(アルジェリア、スペイン南部、南カリフォルニア、砂漠、遊牧と歓待等々。secは私が『著名・出来事・コンテクスト』でおおいに用いた語、頭字語である)。映画はXero Graphieゼロ・グラフィ(接触せずに資料を複製する技術)である。〈作者〉はそもそも〔d′ailleurs〕このことをI′ailleurs異境、xenophilie異境愛好、異境への愛、歓待の掟についての一篇の詩にしたのである。(ジャック・デリダ+サファー・ファティ著『言葉を撮る』184ページから抜粋)

静かな世界観のうちに

2008年08月17日 | Weblog



 公開中のナイト・シャマランの新作『ハプニング』を観て思うのは、相反してコンピューターと植物はどこか似ているのかもしれない、ということだ。コンピューター環境の人工的な「速さ」と、植物環境の自然的な「遅さ」は、ここで人間的なリズムを超えた次元で同期しているのではないだろうか。
 この映画には、我々がふだん「携帯電話」と呼ぶ超小型のネットワーク・コンピューターを使うシーンが多く見られる。そしてテロ説などが否定され、はじめて植物圏の異変が説かれるシーンでは、その背後で二基の原発が不穏げに映っている。誰もがただちに「原発事故か?」と考えてしまうのは、そこに見えているのが原発であるとすでに知っているからだ。しかしシャマランがこの映画で描いたのは「見えない脅威」である。いわば原発の発明なしで原発事故だけが起こっているような事態だが、なにしろこの未知の脅威による人類の滅亡は、原因解明とその対策を待つ間もなく、あっという間に進行するのである。それは植物史はむろんのこと、人類史からみても、ほんの一瞬の出来事である。
『自殺へ向かう社会』という著作もあるフランスの思想家ポール・ヴィリリオをフィーチャーした番組『事故の博物館』で浅田彰は、原発事故についてこんなことを言っている。「テクノロジーの進歩は事故を時間的にも増幅しました。たとえば原子力の問題。原子力エネルギーで石油の代わりになるならないというのは数十年単位の問題なのに、いったん大規模な原発事故が起こった場合、その放射能汚染の影響は、百年、場合によっては千年単位の問題とさえ言われている。しかもそれが、ほんの一瞬のシステムの暴走によって生ずるというわけです」
 一瞬にして壊れる。これがテクノロジーの持つ本当の「速さ」というわけだが、この「速さ」は、遥かに長い植物的な時間の持つ「遅さ」のうちに「静か」に引き伸ばされるのである。
 
>〈他なる無意識〉が私たちにごく近いところに位置を占めた瞬間から、私たちの言葉を自由勝手に扱うことができるかのようです。そして同時に私たちの言葉を中断させ、破壊することもできるかのようです。私たちはこれを、沈黙した意識として保持します。そしてなにか事故が起きる危険性がつねに私たちを脅かしています。タイプライターや羽ペンと比べると、コンピューターでは事故の危険性がはるかに高いのです。ちょっとした停電、うっかりした操作、ぎこちなさ、それだけで数時間の仕事の成果が一瞬のうちに消え去るかもしれないのです。......いわば自発性、自由、流動性が過剰なのです。そのために危うさ、脅威にさらされているという感覚、あるいは静かな苦悩にひたされているという感覚が高まります。......(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻300ページ「他なる無意識」より抜粋)

 ナイト・シャマランは日本のファンに向けて「90分間の上映時間を通して、パラノイア(妄想的)な体験をしてほしかった。静かな世界観は、日本人の美意識に合うと思っています」と語っている。植物とテクノロジーの国、日本では10年来3万人を超える自殺者を出しているのである。

30歳までなんか生きるなと思っていた

2008年08月14日 | Weblog
>この並びの中に……私の名前をいれてしまう、それは枡野浩一の本(特に「小説」)を一冊でもちゃんと読んだことのある人のすることではないと本人は思いました。交流があるということと、お互いの作品や考えを全面的に支持しているということは、必ずしもイコールでないと普通に感じている私の実感の中からは、「つるむ」という言葉はちょっと出てこないですね……。(枡野浩一)

 枡野氏、私はあなたが、文学を現代芸術と考えどこまでも「人間と世界の関係についての思弁」を諦めない保坂和志という小説家と、はたして「交流」を超えた「男同士のつき合い」ができているのか、と尋ねているのだ。枡野氏、あなたはこれまで年長者に殴られたという経験をしたことがあるか? 私はない。だからいっぺんおもいっきり殴られてみたい。そうしないと既に虚構と現実の区別がつかなくなり始めている私は、いずれ何をしでかすか分からない。そこでどうせ殴られるのなら、保坂和志のような「30歳までなんか生きるな」と思っていた小説家にこそ殴られたいと願っているのだ。そこらの目の死んだおっさんじゃ駄目だ。

 枡野氏、これは男同士の話だ。私の目を見ろ。これが冗談を言っている人間の目か? これがふざけている人間の目か? このマジな目を見ろ。「なにしろ交流が大事だよね」とか「私はあなたの作品や考えを支持しますぞ」とか「誤解だらけだ、もっと僕を正しく理解してください」とか、くだらねえ。芸術は女子供の慰みじゃねえんだ。もっとキチガイになってみろ。キチガイになって藝大に車で突っ込んで校舎を全部爆破してみせろ。一回性がそんなに大事ならそこで死んで本望だろう。これ以上言うと「自然言語処理技術を利用した検索システム」が作動するので止めておくが、いずれにせよ「ドラえもん短歌」じゃ話にならないということだ。

現代芸術の原則の彼方へ

2008年08月12日 | Weblog
 かつて私は「加藤泉という作家は、前はもっと面白い作品をつくっていたはずだけど、今の作品は全然ダメだと思う」という古谷利裕の意見に反対したことがあるが、その理由については説明していない。古谷の批判は要するに加藤作品の「絵画からイラストへの堕落」を告発するものであり、人気作家として今風の「アートっぽいイラスト」を描き始めた加藤のその軽薄こそを非難しようとするものだろう。しかし加藤のように真面目で真剣な現代の画家であれば、誰もが「〈支持体〉の後退」という事態に直面するのではないだろうか。現在の芸術からアートへの移動を、この「〈支持体〉の後退とその超越」という視点から考えることが重要だが、古谷も、そして彼とつるむ保坂和志も、そんなこと関心ないようだ。

「もっとも、私が否定しようがどうしようが時代の趨勢は芸術でなくアートの方にあるわけで、芸術でなくアートと呼ばれる小説が今後生まれるかどうかは私にはわからないし、あんまり関心もない。小説が生き延びる道が芸術でなくアートになることなのかどうかも私にはわからないが、私個人はそういう小説をきっと面白いとは思わないだろう」(保坂和志「小説をめぐって」14回から抜粋)

 ならば保坂氏は古谷利裕や枡野浩一や磯崎憲一郎らと共に「紙という支持体の限界」のうちで燃え尽きればいいだろうし、また実際そうしようとしているかのようだ。小説を現代芸術として考えている保坂氏の思考は、いわば「紙でできている」のであり、その原則と限界のうちで書かれるのが文学である。もしライトノベルなどの最近の創作物を「芸術でなくアートと呼ばれる小説」とするならば、その作者たちの思考は、もはや「紙でできてはいない」のかもしれず、ゆえに保坂氏はそのいわば「プラスティック・モデル」を面白いと思わないのではないか。実際、保坂氏は同テキストで「小説とか思考することとかはこちらの側にある。工業製品の世界で使われている<新しい-古い>という尺度を小説や思考することに使うのは軽率すぎる」と書いている。ここで「こちらの側」というのが、紙に代表される骨董的メディアの側であることは言うまでもない。つまり保坂氏はここで、小説や思考することの尺度において、プラスティックは紙の支持体の前に出てくるな、と言っているのも同然なのである。「わしはそういうことを言ってるんじゃないぞ」とか「お前のような若造にわしの気持ちなんかわかるか」とか言われそうだが、そんなこと分からないし分かりたくもないのでかまわず続ければ、フロイトは1925年に、人間の心のメカニズムが「マジック・メモ」というプラスティック製の子供のおもちゃで部分的に説明できると、うっかり書いてしまったのである。この「うっかり」に注目した脱構築の殉教者デリダは、それが「紙の傍ら」にあること、そして「グラフィック」なモデルであること、そしてなにより「紙はここではすでに「縮減」され、「後退」し、〈退隠して〉います」ということを強調しているのである。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻341ページ以降)

(a suivre)

おやじ達の熱い夏

2008年08月06日 | Weblog

 今年もまたおやじ達の熱い夏がやってきた。私は高校のときに「寺内タケシとブルージーンズ」のハイスクールコンサートを椅子に縛り付けられたまま強制的に聴かされ、心に深いダメージを負ったのだった。ジミー・ペイジやエリック・クラプトンに比べて寺内タケシの演奏はなんて格好悪いんだろうと思った。そもそもエレキで津軽じょんがら節やベートーベンを演奏する意味がわからず、引率した音楽教師にその理由を尋ねても、「うるせえ、黙って拍手しろ」と乱暴なことを言われるだけだった。そんなのは教育ではないし、こんなのは絶対に音楽ではない。私は「もう嫌だ」と思いながらもアンコールまで強制されたのだ。ひどい話である。......だが、たぶん私がナイーブにすぎたのだ。このおやじ達の破壊力、その無意識のアナーキズムに圧倒されてしまっていただけなのだ。私はこの映像に映る寺内タケシ以下、デイブ平尾とか佐川満男とか尾藤イサオとか小坂一也といったおやじ達が何者なのか知らないが、ちょっと聴いてみようかなと思う今日この頃なのである。ちなみに寺内タケシの今年のスケジュールは公式サイトで知ることができる。今年の夏は暑いが、さらなる熱さで乗り切ろうじゃないか。

紙の原則の彼方へ

2008年08月03日 | Weblog
 ニール・ヤング命の池田のアニキが東氏の『動物化するポストモダン』を「読んではいけない」とゴミ箱に投げ捨てている。しかし東氏からすれば、それはある意味で「本望」ではないだろうか。池田のアニキは『存在論的・郵便的』を「名著」と評価しているが、「名著」とは必ず紙とペンで書かねばならないというその条件からして、いまだ「紙の原則」のうちに留まっているものである。しかし『動物化するポストモダン』は、その「紙の原則」の彼方へと赴くための準備として書かれたように思える。『存在論的・郵便的』の最終章でも扱われたフロイトの「マジック・メモ」について、殉教者デリダはこんなことも言っている。

「フロイトは紙を媒体として、書き込みの表面として、刻印を保存する場所として使いましたが、同時にフロイトは紙を超えることも試みています。紙の限界を乗り越えたかったのです。フロイトは紙を使いましたが、あたかも〈紙の原則の彼方〉へ赴きたかったかのようです。媒体としての表面そのものを考えるとき、とくに紙という媒体の表面について考えるときには、フロイトを導いていた経済学的な図式がわたしたちに多くの着想を与えてくれるでしょう」(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻342ページより抜粋)