SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

THE WHO Live at Leeds

2006年06月29日 | Weblog
 フライング・ヒューマノイド? いや違うよ、ピート・タウンゼントのハイジャンプだ。この写真は1970年2月に英国リーズ大学の食堂で撮られた。そう、あの有名な「Live at Leeds」が録音されたステージの貴重なショットである。しかしこのジャンプの高さはヤバくないか? どう見てもこれは「跳ねた」というより「飛んで」いる。おそらくは右下に見えるモニターアンプを踏み台にして思い切りジャンプしたのだろうが、それにしたって高すぎる。オリンピック陸上競技の選手だって真っ青だ。しかもただ飛んでいるのではない。ギターを弾きながら飛んでいるのである。ノックダウン。何も説明する必要などないだろう。このジャンプの瞬間にこそ「ロック」と呼ばれる音楽の核心があるのだ。それが解らない人は今すぐにでもTHE WHO の「Live at Leeds」を聴いてみるべきだろう。もちろんロック・ファンでこのアルバムを知らない人なんているわけないが。

THE WHO

2006年06月28日 | Weblog
ヘイヘイ、マイマイ♪ 王は死んだが忘れられない。これはジョニー・ロットンの物語。錆びる前に燃え尽きてしまいたい。ロックンロールは死にはしない♪ (ニール・ヤング「ヘイヘイ、マイマイ」)

「まったく吐き気がするぜ」――ニール・ヤングのアルバム『ラスト・ネヴァー・スリープス』(1979年)を聴いたジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)本人の感想である。セックス・ピストルズを脱退した後のライドンはすぐに新しいバンド「パブリック・イメージ・リミテッド」を結成し、以後、できるだけニール・ヤングのような「お坊ちゃま」の歓心を買わないような音楽を創りはじめる。確かに『メタル・ボックス』のようなアバンギャルドを聴いていると、ニール・ヤングの曲など恥ずかしくて聴いていられなくなる。ニール・ヤングの「錆びる前に燃え尽きてしまいたい」というフレーズも、この「アメリカン・ロックの青春時代」を代表するフォーク・シンガーが謡うとものすごくナイーブに響く。だが同じようなフレーズをたとえば「さらば青春の光」を代表するロックバンドTHE WHOが「老いぼれる前に死んでしまいたい」(My generation)と歌えば、後のロックの歴史が変わったりするのだ。どんなにガラの悪いパンクスやモッズであろうと、THE WHOのメンバー前では借りてきた猫のようにおとなしくなる。それはセックス・ピストルズの連中だって同じだった。誰だってキース・ムーンのあのドタバタしたドラミングには恐縮するほかないし、誰だってピート・タウンゼントのこのジャンプを見れば思わず襟を正したくなるというものだ。(続く)

ニール・ヤング

2006年06月26日 | Weblog
 池田のアニキのブログだからといって、いつも安心して全てを任せてしまえるわけではない。専門となるITや経済の話はさすがに精度が高いが、芸術文化、とりわけ音楽については何も解ってないらしい。なにしろあのニール・ヤングを絶賛しているのだから。たとえそれが個人の趣味の問題であるにせよ、私にはニール・ヤングの何がそんなに素晴らしいのか、よくわかりません。いったいどういう音楽経験を積めば、ヤングの『After the Gold Rush』が「これまで聞いたすべてのレコードのなかで、私のベスト・ワン」となるのか。私にとってニール・ヤングの音楽とは、ほとんど「演歌」というか「歌謡曲」である。プログレッシブな意味においてはまさに「ヤング」としか言いようがなく、その音楽的な情動は61歳になっても「幼稚」なままである。年老いてなお気持ちが若いのは結構だが、あまりに「若すぎる」のもマズイだろう。そんな「若さ」であのブッシュ・ジュニア政権の政策に反発しても、もはや仕方あるまい。

今さらテンションをあげろと言われても

2006年06月21日 | Weblog
 ブログ検索のテクノラティで今、もっとも検索されているキーワードは「柳沢」である。そこであの「キーパーの股を抜いてゴールをハズした」ときのキャプチャー写真を手に入れたので、まずはこの「スーパークリア」の瞬間をよく見てほしい。まさしく「?」である。この柳沢の「?」について永瀬恭一氏は「paint/note」(2006-06-20)のエントリにおいて、「ある程度批判されてもしかたがない」としている。だがしかし「ある程度」で済む問題だろうか? はたしてここで柳沢を批判しても「意味が薄い」のだろうか? ロナウドやロビーニョやキューエルやスルナが、こんなふうに「キーパーの股を抜いてゴールをハズす」だろうか? 永瀬氏は「ボルテージをあげるな、テンションをあげろ」と指示するが、これだけハズしてしまえば、もう何をあげても無意味ではないのか。「日本のフォワードが弱いのは織り込み済みだった筈」と言われても、この柳沢の「?」もすでに「織り込み済み」だったとでも言うのだろうか。

やっぱ武士道精神は駄目だな

2006年06月20日 | Weblog
 誰か日本がブラジルに勝つ方法を具体的に教えてくれませんか。みんな「あとはもうブラジルに勝つしかない」とか「こうなったらやるしかない」とか「奇跡を信じるだけだ」とか言ってますが、オーストラリアやクロアチアにさえ勝てないチームがどうやって世界最強のブラジルに「勝つ」んでしょうか、しかも「大差」で。もうそろそろ「逃げる」のは止めて、真正面から「リアル」に向き合いませんか。「ぼくのシュートチャンスはあの一本だけだった。急にボールが来たので。足の内側でければよかったが、外側でけってしまった」(柳沢敦) 8年前のフランス大会のときの「城彰二」を髣髴とさせる柳沢敦のあの「シュート」を見たとき、ほんとうに「サムライブルー」な気分になりました。やはり今さら「武士道精神」だけでは世界に勝てないんだな、と強く思ったわけです。

備忘録5

2006年06月18日 | Weblog
「ハープシコードでは、乾いた感じ(セッコ)で、点描的(ポインティリスティック)で、一音一音を切り離した(デタシェ)のメロディ・ラインがいともたやすく達成できます。これは、成果のほどはどうあれ、私がいつもピアノで作ろうとしているものです。ところが、これを達成しても、メロディに強弱はつけられない。それゆえ、寛容なる耳にお願いして、聞こえてくるリズムから強弱を推しはかってもらうしかないのです。しかし、これは別の問題にもなります。ハープシコードでは、リズムを完全に固定した状態と、その正反対の状態(=ルバート)との間のどこかを選ばなければならないからです。私はこの問題を解決する方法を見つけようと堅く決意しました。そこでこう考えたのです。そうだ、最高の解決策は、ハープシコードを弾いていないつもりでハープシコードを弾くことだ、と」(グレン・グールド『ヘンデル/ハープシコード組曲』ソニーミュージックエンタテインメント)

木刀を振って心眼を開く

2006年06月17日 | Weblog
 1年365日、1日24時間、佐伯剛氏のダイアリーはノンストップ・フルタイムで最悪だが、新たにエントリーされた「現代人の生理を司るもの?(2006-06-12)」においては、その最悪さが、ついに何かの「境地」に達したような感がある。そこで佐伯氏は、ひたすら木刀を振り続けている。二日間、コンピューターも文章も見ず、無心になって木刀を振り続けている。そうすることで「意識の曇りに邪魔されない澄んだ境地にトリップできる」のだという。なるほど、やはりそういう趣味があったのだ。佐伯氏にはもとから「武士道精神」という生理的な趣味があったのである。こうなるともう取り返しが付かないほど最悪である。もちろん剣術の合宿稽古それ自体が悪いというのではない。木刀を振るというたった一つのことだけを続けていきおい心眼が開かれたとしても、そんなナイーブな心象ではこれからの情報化社会の見通しをつけることなどできないのだ。

備忘録4

2006年06月13日 | Weblog
「私の考えでは―前もってこんなことを言うのをお許しいただきたいんだけれども、レコーディングされた音楽には、実は、鎮静剤の効果に似た効果を及ぼすべきものなのですね。聴き手は、十中八九、コンサート・ホールに、内的な昂奮とでも言うべきものを求めに行くんだけれども、レコーディングされた音楽は、そういう昂奮など作り出すべきじゃない。演奏家と聴き手とのあいだに、一対一の関係を創り出すように努力すべきなんですね。そして、レコーディングに際して我々が辿り着こうと試みる音のタイプに関しては、方向とか直接性とかいう言葉で考えるべきでしょうね。ピアノの音はバルコニー席のいちばんうしろの席まで投じられる必要はないんですね。二メートル前に置かれたマイクに向かって弾くときはね。要するに映画の場合とまったく同じことが起きるんですね」(『グレン・グールド対話集』(音楽之友社)より)

ATARIMAEの継承・・・REMIX!

2006年06月11日 | Weblog
 愛犬のチャーリィ(柴犬オス6才)が爆笑しながら部屋に転がり込んでくる。あの丸亀の松田氏が、まるっきり訳の解らないパブリックコンセプトを発表しているという。さっそく丸亀グループのウェブサイトに発表された松田氏の新しい「ミッション」を読んでみる。なんとそこには松田氏による「世界創造法」の宣言がいきなり掲げられていた。......3分間ほどチャーリィと一緒に笑い転げる。どうして松田氏はもっとATARIMAE(あたりまえ)に普通に物事を考えることができないのだろうか? アートを通じて世界の未来を変えようとする前に、まず自分のアートを変えようとは思わないのだろうか? このページに掲載されている「心霊写真」が松田氏のアート作品である。まさしくATARIMAEという原点に返るべきだろう。

モダニスト上田高弘スペシャル

2006年06月09日 | Weblog
セザンヌの手紙を/から読み直す―特別研究「モダニズム美術とその公衆」の小さき果実
モダニズムの条件―フリードからグリーンバーグへ
作品(オペラ)のかたち―坂本龍一『LIFE』考
モダニスト掲示板―モダニストの仲間達
■モダニスト日記―モダニストの日常
http://cgi.www5a.biglobe.ne.jp/~tut07770/cgi-bin/raib.cgi

放浪のすすめ

2006年06月07日 | Weblog
 結局、佐伯剛氏の説く「放浪のすすめ」とは、オートキャンプ場に併設された専用オフロードコースで、ラグジュアリーなアーバン4WD車を安全で快適に(そして土禁で)走らせているようなものにすぎない。つまり「クロカン4WD(三菱パジェロ等のクロスカントリー型四輪駆動車)を買ったからオフロードを走りにいく」という、本来の使用目的からすれば本末転倒の事態が、佐伯氏の教義にも同じように見られるのだ。これは佐伯氏の教義が徹底して「広告代理店の論理」に基づいていることを意味する。それは自らの「放浪のすすめ」に従って人々を「放浪」させようとする、馬鹿馬鹿しくも転倒した戦略である。そもそも「放浪」とは誰の「すすめ」にも従わないからこそ、そう呼ばれるのではなかったのだろうか。

カタログ化する社会

2006年06月01日 | Weblog
 まったく佐伯剛氏のブログはいつ読んでも最悪だが、しかしそう言って済ますことのできない場合もある。発表された佐伯氏の現代文明批判「カタログ化する社会(2006-05-29)」はしかし、それこそ「カタログ的」な発想による批判のタイトルとなっている。すべての社会問題を「人間万歳主義」の観点からのみ断罪するという、その極めて画一的なモノの見方はいったい何なのだろうか。まさしく安易な発想で、「人間」か「自然」という一つか二つのもので全体を代表させ、全体について説明するという、極めて単細胞的なモノの見方を「編集」の現場で行っているということについて、やるせない思いになった。佐伯氏の教義にはあの「武士道精神の復活」を唱えた藤原正彦氏のような愛嬌もなく、ただひたすら「一つのことだけ」を(ほかの方法も思いつかないがゆえ)、人を「途中で後悔させる」まで疲弊させ続ける意固地な根性があるだけだ。もちろん「一つのことをじっくりと掘り下げる」ことは大事である。しかし、それだけでは何ら問題の提起にはならないだろう。(続く)