SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

CRラッセンワールド

2010年10月25日 | Weblog
 村上隆が、ヴェルサイユ宮殿で個展をしようと、その作品が何億円で落札されようと、世界ランキングで上位に入ろうと、べつに凄いとは思わない。けれども昔パチンコ屋で「CRラッセンワールド」を初めて見たときは、心底ブルった。いつもパチスロしかしないが、そのときだけは特別にパチンコを打った。ラッセンワールドを打った。結果負けたが、満足だった。おそらくパチンコ屋でさまになる現役の画家は、唯一ラッセンだけだろう。村上隆がいくら頑張っても、パチンコ台にはなれない。美術手帖で特集は組まれても、パチンコ雑誌で紹介されることはない。村上隆の描くキャラクターは、画廊や美術館で客を呼べるオーラはあっても、パチンコ屋で客を呼べるだけのパワフルな拡張性は無いのだ。だからいくら気張って世界を制覇しても、日本のパチンコメーカーは目もくれない。実際、村上隆は自分のキャラクターのプロモーションに失敗しているが、当然だろう。ラッセンのイルカと比べるべくもない。そもそも格が違うのである。

郊外美術論 1

2010年10月22日 | Weblog
RT @hajime_maruta(丸田一): 全体を覆うこの滑稽な景色は、フーコーの「混在郷(ヘテロトピア)」にたとえられる。ヘテロトピアは、私たちから場所を奪い、不安をかき立てる一方で、それは場所再編の準備でもある。混在郷を肯定する。〔...〕 私たちも、ファスト風土化する郊外を、現代のエピステーメ(仮)として、いったん受け入れてみる必要があるだろう。ファスト風土化する郊外は混在郷としてオクシモロン的な創造の現場になる可能性がある。これが本書を貫く視座である。(丸田一著『「場所」論-ウェブのリアリズム、地域のロマンチシズム』(NTT出版)6、47ページ)

 ラッセンやシメールの作品はいわゆる「ファスト風土」との親和性が高いわけだが、とりわけシメールの作品に見られる景観の不調和は、その滑稽さにおいて特筆すべき混在郷性を有している。「混在郷」についてはミシェル・Fにのちほど問い合わせるとして、ここではまず上記「オクシロモン」という言葉に注目したい。丸田氏によれば、それは矛盾形容語法と訳され、黒い太陽、可愛い悪魔などと相矛盾する言葉を組み合わせた逆説の一種であり、そうした混在作用が、郊外に「不安定な平穏」を作り出しているという。そういえば斉藤環はヤンキー文化の本質を、「ワル」と「ファンシー」の奇妙な同居にあるとしているが、これもまたオクシロモン的な不調和の調和の発見にほかならないだろう(『文学の断層』(朝日新聞社)86ページ)。いかにもヤンキー&ファンシーなシメールの画風をして、「趣味なき悪趣味の系譜」もしくは「北関東ポストモダン」などと揶揄するのは簡単だが、しかしそう言って済まされない「不安定な平穏」さが、ここには確かにある。(続く)

ほしのこえ その10

2010年10月20日 | Weblog
「ねえ、ノボルくん。私たちは遠く遠くすごく離れているけど、-でも思いが時間や距離を越える事だってあるかもしれない-ノボルくんはそういうふうに思ったことはないの-もし、一瞬でもそういうことがあるなら、僕は何を思うだろう、ミカコは何を思うだろう--ね、私たちの思うことはきっとひとつ、ねえ、ノボルくん、わたしは“ここにいるよ”」(『ほしのこえ』のラスト・シーンより)

 上の絵は『地球への思い』と題されたシム・シメールの作品である。何故か宇宙空間で犬が地球を眺めているが、いったい何を思っているのだろう。シム・シメールはクリスチャン・ラッセンの唯一のライバルと目されている。ラッセンが地球でイルカを描けば、シメールは宇宙で犬を描く。そのあいだは遠く遠くすごく離れているが、でも思いが時間や距離を越える事だってあるかもしれない。もし、一瞬でもそういうことがあるなら、地球のイルカは何を思うだろう、宇宙の犬は何を思うだろう。思うことはきっとひとつだ。わたしは“ここにいるよ”。--冗談を吹いてるわけではない。シメールやラッセンの絵と、新海誠のアニメには、何か共通した「惑星規模での解離」が見て取れるのだ。シメールやラッセンの絵のより詳しい分析が必要だろう。

ほしのこえ その9

2010年10月15日 | Weblog
RT @pentaxx_bot(斉藤環):そうです。僕は言語の特権性を言わないためにベイトソンを利用しているんですよ。神経系には言語は関係ないですから、脊髄反射に言語は介在しませんから。だから僕としては、器質的(オルガニック)な主体をもち出してきたことで、実は脊髄反射弓も主体だと言いたいわけですよ。 @hazuma_bot(東浩紀) まさにそう。イルカと人間を区別しないところがベイトソンのいいところですね。(『不過視なものの世界』54ページ)

 あずまんによれば「セカイ系」という言葉は、《主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力」を意味している》(東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』96ページ)。というわけで、この「きみとぼく」の純愛関係を、まずは唐突にもクリスチャン・ラッセン的な「ドルフィン・ラブ」のイマジネーションから捉えてみたい。以前このブログで、「デビッド・ボウイの“ヒーローズ”はセカイ系ではないのか?」と田中純に意見したことがあったが、いかにもこの曲には「イルカたちのように」というフレーズがあるのだ。ボウイは何故この曲に「イルカ」のイメージを入れたのか? そして「イルカ」で有名なラッセンは何故その「ドルフィン・ラブ」を、スピリチュアルな光で包み込もうとするのか? いや、確かにラッセンの絵は酷いと思うが、それは原画やポスターを見たときの印象に限られる。というのもラッセンのマリン・アートは、キャンバスや紙ではなく、モニターの電子光を通して見たとき、その真価を発揮しているからだ。このことはラッセンの絵の本質が「映像」であることを示しているだろう。それもキャメロンの『アバター』的な映像だ。ちなみに最近ケータイを「ラッセン」に着せ替えたが、これは本当に素晴らしい体験だよ。(続く)

百円本の批評

2010年10月13日 | Weblog
RT @hazuma_bot: しかし晩年になるとリキテンスタインは、デフォルメされた筆致をあえて本物の筆致と隣接させたり、デフォルメされた筆致をそのままオブジェ化し記号としての意味を失わせることで、記号化された筆致(シンボル)と現実の筆致(イメージ)の境界を撹乱する試みを幾度も行っている。(東浩紀著『郵便的不安たち』(朝日文庫)294ページ)

 ダイソーなどで売っている「100円本」に感じる不思議な「モノ感」について、それが雑貨店で扱われているからという理由だけでは済まされない気がする。たとえばi-mode公式のケータイ本屋なんか覗いてみると、コミックなどに混ざって「100円本」と似たような表紙の実用本も多いが、購入するまでもなく、どうせ中身も同じようなものだろう。これらの電子本は、基本、リアル本をケータイ向けにヴァーチャル化したものである。しかし「100円本」の場合は、これとは逆に、一度電子化されたヴァーチャル本が、そのままでリアル本へと戻されたケースではないのか。つまりケータイ向けに整形されていた2次元の電子本が、そのままで3次元のオブジェと化したようなものであり、その2・5次元性が、あの不思議な「モノ感」として醸し出されているのではないだろうか。むろん、これは「100円本」に限らず、コンビニ本やキオスク本にも何気に現れている傾向かもしれず、オタク本に到っては、なにをいまさらと言われかねない次第であろう。

批評の百円本

2010年10月13日 | Weblog
 そろそろ批評も「100円」を視野に入れるべきだろう。グローバル経済のダイナミズムのなかで批評がそれでも生き延びようとするのなら、自らすすんで「100円」にまで身を落とすべきである。やろうと思えば、純文学に続いて批評も「100円」になれるはずであり、おそらくそこにしかチャンスはない。というのも「100円」の批評は、言論ではなく雑貨として扱われるからだ。それこそプラスティック製の様々な小物と同じようにして、そこでは批評がモノとして現実を生きるのである。これは考えてみれば素晴らしいことだが、実際そのためにはプライドを捨てなければならない。「100円」の売り場では、もはや「批評」などという格好つけた「シリーズ名」は使えず、おそらく「頭のパズル」とか「賢者のドリル」といったシリーズの新種としてしか扱われないだろうからだ。もしかしたら「知恵袋」とか「豆知識」といった高学歴シリーズとして認められる可能性もあるが、どのみちそれで待遇が良くなるわけではない。ここではもはや「文芸」とか「思想」といった「お守り」は通用せず、それが嫌なら批評なんてもう止めるべきだろう。(参考「ダイソー出版」)

ほしのこえ その8

2010年10月11日 | Weblog
RT @hamano_satoshi(濱野智史): インターネットをはじめとするヴァーチャルなアーキテクチャは、人工的な設計物という点において、一般的な意味での「建築」と共通しています。しかし、もともとリアルの「建築」が、人間を自然環境の猛威から守ろうとするために設計された人工的空間であるのに対し、いまウェブのアーキテクチャは、人間たちが自分で作ったにもかかわらず、いつのまにか全体的な目的はもたずに、私たちにあるときは恩恵をもたらし、あるときは脅威をもたらすような「自然」として現れつつある。(『思想地図』3号27ページ)

 右が『ほしのこえ』、左がピーター・ドイグの絵画だが、ともに同じ「徴」が描き込まれている。淡く発光する電線と、一部が白く塗られた木々の描写である。境界神テルミヌスの光臨が、『ほしのこえ』では「恩恵」として、ドイグの絵画ではおそらく「脅威」としてポイントされている。『ほしのこえ』で少年に「恩恵」がもたらされたのは、このバス停の小屋が、心の「隠れ家」(セキュリティ)として機能していたからだ。「避難場所」について川俣正は語る。

RT @tadashi_kawamata(川俣正): 日常生活の中にあった、いわゆるちょっとした隠れ家的なスペースがどんどん消されていく。そこで生活している人たちの生活習慣の中にも、もはや、そのようなスペースを持ち、そこで無為の時間を使うという意識自体がすでに欠如し始めているのかもしれない。自分の隠れ家となるスペースを都会の中に持つということは、昔あった優雅な時間に対するノスタルジー以上に、ここで生活している人たちの精神的な避難場所として、あるいは緊急避難所としての意味があるのではないかと思う。(『アートレス―マイノリティとしての現代美術』(フィルムアート社)153ページ)

ほしのこえ その7

2010年10月09日 | Weblog
RT @kasai_genkai(笠井潔/限界小説研): 私と世界の直結という点で、最も純粋化されたセカイ系作品は「ほしのこえ」だろう。この自主制作アニメには主人公の二人、ノボルとミカコ以外の人物は基本的に登場しない。作中では家庭や学校さえほとんど描かれることがなく、小状況は恋人同士の親密空間として閉じられている。この小状況と、ノボルと引き裂かれたミカコが戦闘ロボットの搭乗員として戦う宇宙空間(大状況)のあいだには、いかなる媒介的領域も存在しない。(限界小説研究会編『社会は存在しない-セカイ系文化論』22ページ)

 たしかに 『ほしのこえ』には社会領域が排除されているが、だからといって「いかなる媒介的領域も存在しない」という断定には首肯できない。笠井潔はガチガチの物書きなので、基本『ほしのこえ』を「言論」として読んでしまっている。しかし、この作品の映像は、絵画や映画の本質がそうであるように、感覚を通してしか触れることできない、ある根源的な媒介領域の存在を示唆している。クラーゲスとかいう人は、その謎の媒介領域を「遠の観得」と呼んでいたという。そしてこの植物的な「遠」の知覚は、対して圧倒的な「近」との結合を生きる動物にも、もともとそなわっている性能だというのである。社会環境の「アーキテクチャーの生態系」的な進化により、必然的に、この「遠の観得」が人間のうちにも再び発揮され始めてきているのではないだろうか。

RT @三木成夫著『生命形態学序説』より: クラーゲスは、このような植物の生を眺めて、そのからだには「遠」が“居合わせている”と表現した。それは、かれらの単細胞が、地球からいわば一個の衛星として分れた遠い過去の物語を、そのDNAのラセン形象がひとつの「生命記憶」としてこれを受け継いでいることを意味するものであろう。感覚的に完全に盲目の植物たちが、地球の中心に向かって正確に根をおろし、さらに秋の到来とともに、にわかに葉を落としてゆくのは、自分と宇宙を結ぶ太い絆のはたらきによる、というよりも、そうした「遠」の記憶の声に促されての結果と見るよりない。これを植物の「遠の観得」と呼ぶ。(村瀬学著『カップリングの思想』(平凡社)45ページ)

ほしのこえ その6

2010年10月07日 | Weblog
RT @ChihiroMinato(港千尋): その道が尽きるところ、それがテルミヌスの場所だった。今日、わたしたちはテルミヌスという言葉を「道」の尽きるところとして使っている。たとえば電車やバスのターミナルである。ひとつのラインの終わる点、つまり「終点」としてのターミナルに、もはや今日の旅人は、神を見ることはないかもしれない。(『書物の変』(せりか書房)176ページ)

 境界神テルミヌス......もしこのローマ帝国時代の神の名が、電話の「テル」と語源的に繋がっているのだとしたら、文脈的に旨すぎる。たとえば、目が見えず耳も聞こえないヘレン・ケラーに「境界」を教えたサリバン先生をケラー一家に紹介したのは、電話の発明者として知られるグラハム・ベルだった。テルミヌスの神が、ヘレンを「終点(去勢)」へと導いたのである。写真図版のバス停のシーンで発光する電線は、そんな境界神テルミヌスの存在を示唆している。このターミナルの神が、失意の少年を上から優しく見守っているのだ。そして少年は、一人で大人になることを決意する。ちなみに、こちらのゼロアカ動画では、筑井真奈が「神は死んでないよ」と、無神論者の藤田直哉に噛み付いている。

ほしのこえ その5

2010年10月06日 | Weblog
RT @RosalindKrauss(ロザリンド・クラウス): しかしリオタールは、反復法則(すなわち、オンの後に必ずオフがくるのを、いわば保証する循環原則)にしたがうようなパルスとは異なり、このパルスには、循環が断ち切られる脅威がつねにつきまとっていると注意をうながしている。〔...〕この断絶は、次の接触に向けての出発ではなく、絶対的な断絶、終わりなき非連続性、つまり死。したがって、快楽と消滅とが交互にビートを刻むこのリズムを、反復強迫へと変換するのは、快感原則のもとで稼動している死の欲動にほかならない。(「見る衝動(インパルス)/見させるパルス」より、『視覚論』(平凡社)100ページ)

「ひとりの死は悲劇だが、集団での死は統計上の数字にすぎない」という言葉を残したアドルフ・アイヒマンは、そのための鉄道移送システムの責任者でもあった。ホロコーストの記憶は、列車の終着点、その「ガタンゴトン」という音の停止した場所に向けて黙される。茂木健一郎を「クオリア」へと目覚めさせたのは、この「ガタンゴトン」が予感させる「統計上の数字」への否認である。

RT @MogiKen(茂木健一郎): ガタンゴトン、ガタンゴトンという列車の走行音を、私はいつもと同じように意識の縁で聞き流していた。私の立っていた場所は、車両と車両の間の、連結器がある場所の上だったから、走行音は普通より大きく聞こえていたかもしれない。何がきっかけだったのか、よくわからない。突然、私の心の中で、「ガタンゴトン」という音の質感が、とても生々しく感じ取られた。そして、その質感が、音の周波数を分析したりといったアプローチでは全く扱えない「何か」であることを一瞬にして悟ったのである。(「クオリアへの目覚め」より)

ほしのこえ その4

2010年10月04日 | Weblog
RT @RosalindKrauss(ロザリンド・クラウス): ここで私が提起したいのは、リズム、ビート、パルス(オン/オフ オン/オフ オン/オフという一種の律動)の問題である。それらは視覚的空間の安定性を破壊し、その特権を奪うことを本性としている。なぜなら、これから述べるように、視覚性を支えていると思われる形態(=形式)の統一性をそのものを破壊し、溶解させてしまう力が、ビートにはそなわっているからである。(「見る衝動(インパルス)/見させるパルス」より、『視覚論』(平凡社)81ページ)

 電車の「ガタン、ゴトン」という音のリズム、携帯電話の「パ、ピ、プ」という入力のビート、そして光と影の「チカチカ」したパルス......。『ほしのこえ』の冒頭シーンではこれらの要素に加えて、窓の外に数羽の鳥が飛んでいるのが見える。これが「ズートローブの円筒」であることは、私にも一目瞭然である。いよいよ面白くなってきた。

RT @RosalindKrauss(ロザリンド・クラウス): マックス・エルンストはコラージュ小説『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(1930年)の核となるイメージにおいて、ある囲いの中心にヒロインを置いている。ヒロインはこの囲いのことを鳩小屋と呼ぶのだが、それがズートローブの円筒であることは、われわれには一目瞭然である。ここでエルンストは、モダニズムの視覚性とは別のモデルを提示しているばかりか、そのモデルを、大衆文化的な経験から生まれ、その経験に訴えてきた光学装置に、あからさまに結び付けている。(同85ページ)

ほしのこえ その3

2010年10月03日 | Weblog
RT @ChihiroMinato(港千尋): 人間には無意識のレベルで「見える」パターンがあり、それらのパターンは視覚野の神経細胞の構造に依存しているとするものである。この考え方の基礎をなすのは、脳の機能と世界とがある関係のもとに繋がっているとする仮定である。心理学者のウィリアム・ジェームズは、人間の脳の機能は、私たちが住んでいる世界の性格にあらかじめフィットするようにつくられていると考えたが、神経幾何学においても、脳の特に視覚野の構造は、知覚可能な世界の表象をつくるようにできていると考える。(港千尋著『書物の変』136ページ)

 写真図版の1はテレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』、2は新海誠の『ほしのこえ』、3は丸山純子の『けるけないの森』からのキャプチャーである。たまたま、このブログではお馴染みの作家達の仕事に限って見ても、すでに同じ放射状のパターンが出現している。おそらくこの放射パターンを通して示唆されているのは、どういうわけだか脳の機能と世界とがマテリアルな「可塑性」のもとに繋がっているということであり、それによる心的な「治癒(resiliency)」もしくは「造形(plasticite)」がありうるということである。図版4は2から続く『ほしのこえ』の「入道雲」のシーンだが、この雲の形が何を意味するかは、5のデヴィッド・リンチにでも訊いてみればよい。差し込む光に触発され、何か歌い始めている(「Weird Daily Weather Report」)。カトリーヌ・マラブーは語る。「もし脳損傷を経ての自己同一性の創造があるとすれば、それはすなわち形態の破壊による創造である。そこで働く可塑性とは、ゆえにまさしく破壊的可塑性なのである」(千葉雅也著「トランスアディクション」より、『現代思想』2009年7月号207ページ)

ほしのこえ その2 

2010年10月02日 | Weblog
RT @PaulVirilio(ポール・ヴィリリオ): 事故、それは謎めいた兆としての彗星です。〔...〕そう、私はいわば凶星=惨事(デザストル)の天文学の可能性を信じます。それをあえて直視しないかぎり、私たちは一歩も進めないのです。かつて死という限界(リミット)を直視したように、事故という限界(リミット)を直視すること。それは哲学の根源的な課題でもある。(浅田彰著『「歴史の終わり」を越えて)』199ページ)

 disaster(惨事)=dis(凶)+astro(星)というわけで、distant star(遠い星)をdisaster(惨事)と綴り変えれば、タイトル『ほしのこえ(The voices of a distant star)』は、「凶星=惨事(デザストル)の天文学」のことでもあるだろう。この作品は、鉄橋を渡る電車内のシーンから始まり、階段を下りるシーンに続いている。

RT @Pentax(斉藤環):同じ事故でも階段から落ちるよりは鉄橋から落ちたほうがトラウマになりやすいと言いますね。これを延長すると、同程度の被害なら、天災よりも人災のほうがトラウマを生じやすいと言えるかもしれない。つまりトラウマの成立には、何らかの人為が介在することが要件となる。(『解離のポップ・スキル』172ページ)

 階段から落ちるのは偶然のアクシデントだが、列車が鉄橋から落ちた場合、その偶然の必然を疑うことになる。では女子中学生が太陽系最果てのシリウス星で戦死した場合、そこにどんな人為(フィクション)を超えた必然性があるというのだろうか?

ほしのこえ

2010年10月01日 | Weblog
RT @Akirax(浅田彰):歴史的な文脈に話を戻せば、古来、ある限度を超える苦痛はそういう心的機制(解離)でやりすごすとったことがなされてきたかもしれないけれど、19世紀になると、良かれ悪しかれ人格というものは統一性をもったものだということになり、麻酔も発達してくると逆に苦痛というのは絶えがたいものだということになり、そこへまた鉄道事故や近代戦などでかつてない巨大な力が身体にとどまらず心身ともに大きなトラウマを被るのだというので、トラウマが前景化するということなんでしょうね。(斉藤環著『解離のポップ・スキル』173ページ)

 深海誠のデビュー作『ほしのこえ』は、電車の中で携帯電話を操作する少女のシーンから始まるが、おそらくこのオープニングで暗示されているのは、鉄道事故による少女の死である。実際、直後に「ねえ、私はどこにいるの。あ、そうか、私はもうあの世界にはいないんだ」という少女のセリフがあり、続く線路や踏切のシーンが、その絶えがたい経験の外傷化を示している。踏切を通過する列車をよく見ると国連宇宙軍の軍用貨物車であり、そこで何が運ばれているかはすぐに察しが付くだろう(たとえばスピルバーグの『未知との遭遇』や、オウム真理教事件の場合は、有毒の神経ガスだった)。鉄道の発明は脱線事故の発明であり、その事故の人為性が、外傷(トラウマ)をより強化するという。だが、この作品世界の全体を覆う「逆光」は、外界からの光ではなく、脳の神経レベルから発光している「内在光」と思われ、それは人が臨死体験時にも見るといわれている光である。この内なる光の麻酔・幻覚的な効果が、あたかも自然が本来的に持っている治癒力を発揮するかのようにして、心的外傷の経験をやさしく包み込んでいる。

RT @ChihiroMinato(港千尋):サックスはこれを視覚野の神経細胞による「自己組織化」として理解できるかもしれないと考えており、たとえば雪の結晶や流体の渦巻きのように、自然界のなかで起きることが人間の脳においても起きる可能性を排除していない。つまり自然がそのうちにもっている自己組織化という、普遍的な現象が、第二の自然である人間の脳においても起きることを、自分自身のこととして経験するのが、編頭痛などに際して見える幻覚ではないかと言うのである。(港千尋著『書物の変』135ページ)