SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

イストワールの現在 その2

2010年01月05日 | Weblog
「マテリアルな破壊と変形において認知症的に呆然とするとき、そこではどのように叙情文学が可能なのか? どのような感受性が可能なのか? そこにはエロティシズムとも言えないような、ある種の官能性というかセンシュアリティというか、そうしたみもふたもなく呆然とさせるような自然史的スケールでの変化に応じて、何らかの触発というものがあり、アーティストというのは何かそこに応えるものがあるのではないか?」(千葉談)

 この「情けなき気候変動的時間との関係におけるある種の感受性」について考え始まるためには、おそらくオースティンのスピーチ・アクト・セオリー(言語行為論)からガチに勉強しなければならないはずだが、そんな暇もやる気も頭もないので(爆)、ここではいつものようにカンタン・ラクチンの「東浩紀もの」で済ましておきたい。『批評の精神分析D』の第4章では対談相手の巽孝之氏が、スピーチ・アクト理論について、ポール・ド・マンの「ポジティング」(Positing)という概念がいちばんわかりやすいと言っている。「簡単に言えば、それまで存在していなかったモノやコトを、言葉の力で一気に存在させてしまう力なんだと」(133ページ)。現代の錬金術としてのプログラム言語は、人文系の人間の親しむ「意味」や「伝達機能」からはかけ離れた魔術的な感覚を持っている。そしてその感覚は、前近代的なものである。現在の絵画の醸すある種の「叙情」は、ここで語られる「魔術」や「錬金術」を通じて表れてきているとは考えられないだろうか。東浩紀は、「暗号化された通信を解読して目的のデータを探すとか、消去されたハードディスクからデータを救い出すとかいった作業は、実は魔術的行為に近い」と言っている。(続く)

大きな非物語の崩壊

2010年01月03日 | Weblog
 新年早々から「神の性的不器用」だの「マテリアル・カタストロフィ」だの何かえらくハードなものを背負い込んでしまっている当方なわけだが(爆)、日本アート界のこれ以上の「ヌルさの累乗化」(@池田剛介)を止めるためにも、このままハードに突っ走っていきたい。昔から批評の世界は人数が少ないのだ。ひとりひとりが特攻隊になるしかない。
 ところで「マテリアル・カタストロフィ」というのは「大きな非物語の崩壊」のことである。東浩紀は『動物化するポストモダン』で「大きな物語の崩壊」については書いたが、その後の「大きな非物語の崩壊」については書くことをためらった。さすがの東も、大きな非物語(データベース)の崩壊による動物化した世界の滅亡というシナリオまでは、怖くて書くことができなかったのである。しかしニーチェは、すでに「動物化の限界」について書いていた。はっきりと「最終的には滅亡する」と予言しているのだ。

>すべての行動には忘却が属している。それは、すべての有機体の生命に、光ばかりではなく闇も属しているのと同じである。1 人の人間が徹頭徹尾歴史的にのみ感覚しようとするなら、それは、眠らないでいることを強いられた人間、または、ただ反芻するだけで、しかもたえず反芻を繰り返すことだけで生きるように強いられた動物に似てるであろう。それゆえ、―― 動物が示しているように、ほとんど思い出を持たずに生きることは可能であり、それどころか幸福に生きることすら可能である。しかし、忘れることなく生きるということは、まったく不可能である。あるいは、私のテーマについてさらに簡単に説明すれば、―― 不眠や反芻や歴史的感覚には、ある一定の限度があって、この限度に達すると、人間であれ民族であれあるいは文化であれ、生命あるものは、傷つけられ、最終的には滅亡する、ということになる。(清水真木著『ニーチェにおける雨傘の問題』より引用)


イストワールの現在 その1

2010年01月01日 | Weblog
 去る12月12日の広尾なう、旧フランス大使館庁舎別館で藝大主催のシンポジウム『歴史=物語(イストワール)の現在』が開催された。これは取り壊し前の旧フランス大使館庁舎内で現在開催中の『No Man’s Land』展(1月31日まで)に付属された関連プログラムのひとつであり、もっとも批評的ミライ志向の高いイベントとして、そのネット筋に注目されていたものである。千葉雅也、池田剛介、黒瀬陽平、濱野智史という四人の現役ツイッターが、「歴史=物語(イストワール)の現在」というかくも大きなタイトルに挑んだのである。席に着いた四人の顔には、なにか「未来は僕たちが創る」といった決意のようなものが感じられた。

 シンポジウムの内容を超乱暴にまとめれば、いきなり「歴史イラネ」の濱野、「物語イラネ」の黒瀬、「記憶イラネ」の池田に対して、そうしたセカイ系のさらなる徹底を説く「精神分析イラネ」の千葉の大将が、いきおい「超セカイ系」の叙情を詠いあげて終わるという壮絶なものであった(**)。「ちょwww、超セカイ系ってwww」という黒瀬の困惑した表情が印象的だったが、千葉の大将がトム・コーエンの「気象変動の哲学」を引いてアツく語る「マテリアル・カタストロフィ」の話は、「芸術が終わった後のアート」の想像力について「精神分析イラネ」の超理論で正しく環境分析するためにも重要である。



 思い出すのは、ずっと前にハンブルグで観たダニエル・リヒターの絵画である。ダニエルの絵画(に限らずピーター・ドイグ等に代表される現在の絵画)を観たときに覚える、ある不思議な感覚はいったい何なのか。あるいはそれが千葉の大将の語る「叙情」だとして、それはいったいどこからやってきているのだろうか。

>このとき、コーエン氏がとりわけベンヤミン的な伝統を背景にして強調するのは、今日にあっては、メディア・テクノロジーを通じて増幅されたイメージの効果が、私達の世界の現実を映し出すとともに当の現実そのものを構成しているという根源的な亡霊化の経験である。イメージそのものによる内面化しえない出来事の唐突な侵入を、氏は、2005年のハリケーン・カトリーナが襲ったニューオリンズの水没した家屋のイメージを用いて説明していた。しかしながら、これは、たんに現実に生じた出来事だから重要というわけではなく、まさに「気候変動」による物質的な出来事が、人間の意味理解の外へ超え出る仮借なきイメージの経験--氏はこのイメージの外在化の作用を ex-scription(「外記」や「書き出し」とでも訳せるだろうか)と呼ぶ--として受けとめられるかぎりで、これは、私たちの記憶の下部構造を編成しているアーカイヴへの参照を必須にする、という意味で重要になるのである。(宮崎祐助氏による報告より抜粋)

(続く)