SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

疑似ドキュメンタリーについて その2

2010年05月31日 | Weblog


>効率ゲームが「ボタンを押す」という単純極まりない動作に集約されるとすれば、フェティシズムはそれに対するアンチテーゼとして機能する。それは刺激/反応のサイクルのなかで分断された自己を統合するために、ある種の連続性によって「包みこむ」。母親の記憶と結びついている、毛布やぬいぐるみのようなモノだけではない。直接の結びつきを持たない対象であっても、そこに何らかの意味で全体的機能を見出すことができる。(港千尋著『影絵の戦い-9・11以降のイメージ空間』25ページ「断片化と命令」より抜粋)

 ところで映画『クローバーフィールド』の悪夢は、ハンディカムによって録画されたというより、その録画ボタンを押すことによってこそ出現していると考えられないだろうか。何かの間違いによって、コマンドひとつでニューヨークが全滅してしまったかのような印象があるのだ。正体不明の怪物がこの映像の撮影者を追い詰めているように見えるのも(実際、最後に撮影者は怪物にカメラごと食いつかれている)、それが娯楽映画の都合上の理由からだけではなく、撮影者がそれと知らずに下した「命令」への反抗の意図があるのではないか。

>たとえ何百万の人間を殺すことになっても、「命令に従って義務を果たす」ことに忠実な人間は、法廷でもその忠実さを保ち続けているのである。アイヒマンは彼なりの誠実さをもって、法廷に臨んでいるように見える。この映画(アイヒマン裁判のドキュメンタリー『スペシャリスト』)を繰り返し見ながら、最後まで理解することが難しかったのは、この部分だ。彼は本気でそう言っているのか。一度も「命令」に反抗しようとは思わなかったのか。(同上28ページ「コマンドの世界」より抜粋)

(続く)

擬似ドキュメンタリーについて その1

2010年05月30日 | Weblog


>なぜこのことをお話する気になったのかわかりません。この発見そのものが出来事だったから、このように遺物(アーカイブ)が残されたほかの出来事についての出来事だったからかもしれません。一方では脆くはあっても動じない物質、物質的な保管庫、媒体(シュポール)、支持体、文書があり、他方ではこうして記載された出来事の特異性、一回限りの事実、「一回性」「空前絶後性」があり、この二つのあいだの関係を問おうとしていたからかもしれません。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻343~344ページ)

いわゆる「疑似ドキュメンタリーもの」の映画にもしかして見所があるとすれば、それはまず第一に、問題の映像がのちに発見なり発掘されたという、その状況の設定にこそあるのではないか。そうでなくとも、これまで封印されていたとか、関係者が公開を拒んでいたとか、いずれにせよ遺物扱いの映像(アーカイブ)には違いない。問題はおそらく、このアーカイブとシミュレーション、損傷した物質と加工された記憶との関係を問うことなのである。

>ところで主体の同一性の問題は、またテクストの同一性の問題にも変形される。テクストはつねに完結せず、開かれている。これはクリスティヴァやエーコを参照するまでもなくありふれた認識だが、デリダが優れているのは、のち詳しく論じる、彼がそれをネットワークの不完全性の問題から考えた点にある。そこではテクストの「開放性」は間テクスト空間への溶解としてではなく、むしろテクスト=手紙の一部が配達過程で行方不明になったり、あるいは一部損傷したり他の手紙と混同されたりする可能性として捉えられている。実際デリダは70年代後半以降、その種の開放性の実践として、意図的に損傷された擬似書簡という形式のテクストをいくつも発表している。そしてそこで重要な役割を果たすのは、「行方不明の郵便物」の隠喩である。(東浩紀著『存在論的、郵便的』87ページ)

(続く)

美と崇高

2010年05月16日 | Weblog


 もし真理が女だとしたら?とニーチェは問うたが、もしファルス的なものを非ファルス的に読みかえたとき、美と崇高の問題は、血と鬱の関係に置き換えられるだろう。カントによれば、崇高というのは憂鬱質的であるのにたいして、美のほうは多血質的であるという。しかるに、難しいことを抜きにして言えば、この男が見せているのは、男の経血であるw。

どマンの示唆

2010年05月09日 | Weblog
>我々の議論から示唆される最後の点は、美学的なカテゴリーと認識論的なカテゴリーとの区別にもとづいて、文学と哲学を関係づけたり区別したりすることはできない、ということである。いかなる哲学も比喩表現に依存しているかぎりは文学たることを免れないし、また、いかなる文学もまさにこの問題の受託者となる以上ある程度は哲学たらざるをえない。この二つの陳述は対称性をかたちづくっているようにみえるが、しかしそれはそうした見かけほど我々を安心させてくれるものではない。何故なら、このとき文学と哲学が軌を一にしているようにみえたとしても、精神と対象にかんするコンディヤックの議論の場合と同様、それはあくまでも両者には同一性や特殊性が欠如しているがゆえにそうみえるにすぎないからである。(ポール・ド・マン著『美学イデオロギー』93ページ)

 コンディヤックの『人間認識起源論』のうち「身振り言語」について論じた章節において起こっていることは、言語を譬喩として認識するところから出発したら、物語り(ナラティヴ)が連続的に紡ぎ出されてきた、という事態である(同80ページ)。「物語りの指示対象となっているものが、実は当の言説そのものの譬喩論的な構造」なのだとすれば、文学と哲学は、この逆説と類似の関係でガッツリと結ばれている。

>そしてそれは裏返せば、文学的な隠喩の逆説性を限界まで追いつめれば、そこには逆に真性の哲学が現れるということでもある。哲学者があくまでも哲学者として先に進もうとしたとき、《厳密に哲学的であるがゆえに逆に文学に頼らざるをえない》、そういう逆説が、ここにははっきりと現れている。(東浩紀著『文学環境論集(赤本)』196ページ)

オースティンの恐れ

2010年05月05日 | Weblog
>混合様相は言語にもともとそなわっている措定の力によって、どんなに現実離れした架空の存在物でもつくりだすことができる。混合様相というのは、現実という織り物(テクスチャー)をばらばらに寸断し、それをきわめて気まぐれな仕方で組み立てなおし、たとえば男性と女性、人間と野獣といったように、きわめて不自然なかたちの組み合わせを新たにつくりだす、というわけだ。実際、どんなに無邪気な濫喩のなかにも、何かしら怪物めいたものが潜んでいる。たとえば人がテーブルの脚や山の表面(フェイス‐顔)について語るとき、濫喩はすでに活喩〔prosopopeia〕となっており、人は潜在的には幽霊や怪物の世界を知覚しはじめているのである。(ポール・ド・マン著『美学イデオロギー』76ページ)

『美学イデオロギー』の訳者あとがき(386ページ)を読むと、この「措定」という言葉こそが、あの「ポジティングpositing」の訳語であることがわかる。しかるに、「混合様相」というのは「撒種(引用可能性)」のことである。言語行為論のJ・L・オースティンは、コンスタティヴとパフォーマティヴとの峻別を維持するために、この「混合様相」についての思考を避けた。おそらく、言語分析の厳密さのなかに「幽霊や怪物の世界」が出現することを恐れていたのである。

まずはジョン・ロックの問いから

2010年05月05日 | Weblog
「よい姿形をした《取替え子》は人間であり、たとえそう見えないとしても、理知的な魂をもっている。これは疑いをいれない、とあなたは言う。だが、通常よりも耳を少し長くもっと尖らせ、鼻を少し平たくしてみよう。するとあなたはためらいはじめる。顔をもっと狭く平たく長くしてみよう。するとあなたは立ち止まる。さらに獣に似た要素をますます付け加えて、頭を完全に何か他の動物の頭にしてみよう。するとたちまち《怪物》だ。そして、そんな怪物は理知的な魂をもたないから抹殺せねばならない、というのがあなたの議論である。では(私は問うが)、どこに正しい尺度があるのだろうか? 理知的な魂を保持する姿形のぎりぎりの境界はどこなのだろうか? これまで産み落とされた人間の胎児のなかには、半分が獣で半分が人間というのもあれば、その割合が四分の三と四分の一という場合もあった。そうだとすれば、獣の姿形や人間の姿形に近づくありかたもきわめて多様でありうるし、人間に似た要素と獣に似た要素がさまざまな程度で混じり合っていることもありえよう。それゆえ、この(人間は理知的な魂をもつという)仮説に従いながら、理知的な魂を連結できる顔立ち、あるいは連結できない顔立ちとは、正確にはどのようなものか、それを私はぜひ知りたいと思う。内側にそうした(理知的な魂という)住人がいるかいないかを示す確実な記号となるのは、いったいどんな種類の外側なのか?」(ジョン・ロック著『人間知性論』より。ポール・ド・マン著『美学イデオロギー』75ページから孫引き)

人間の意図をこえたもの その2

2010年05月03日 | Weblog


>注目すべきなのは、ヴァールブルグが情念的身体の激しい運動表現を取り上げるとき、それを「定型」と化した、反復される紋切り型の状態でとらえようとしている点である。そもそも「情念定型」という言葉には、形容矛盾の響きがある。「パトス」がアリストテレス以来、精神の持続的な自制を意味する「エートス」と対をなす概念であり、瞬間的に人間の魂をとらえる出来事をさす言葉であったのに対して、「定型」とは一定の形式に凝固することにより、時を隔てて反復されるステレオタイプにほかならない。「情念定型」なる概念は瞬間と持続の矛盾を孕んでいる。ヴァールブルグが着目したのは、定型化した身ぶりに型どられることで初めて、情念(パトス)に囚われた身体は表現されえたのであり、運動の表象はこの定型への凝結によってこそ伝播し継承されたという逆説的な事態であった。(田中純著『アビ・ヴァールブルグ 記憶の迷宮』第8章「イメージの病理学」220ページより抜粋)

 テレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』には、あきらかにこの「情念定型」のリアクションが認められる。丘の斜面で兵士達が、あたかも「戦闘舞踏」を演じるかのようにして倒れていくのである。そして日本軍による玉砕攻撃。この映画を見直したのは藤田嗣治の《アッツ島玉砕》の分析のためだが、いまだ人間が戦争で血を流し続ける理由を、この「情念定型」のステレオタイプに見てみたいのである。これすなわち、「血の郵便制度」の問題である。

>真理は知の郵便制度の、家族は血の郵便制度に守られる。(東浩紀著『存在論的、郵便的』86ページより)

(続く)

未知との遭遇

2010年05月01日 | Weblog
「上に向かってメタに盛り上がっていくのではなく、横に向かってパラに盛りズレていくものとしての、丘のようなもの、塚のようなもの、そして墳墓のようなもの......」(千葉談)

Para-mound theory Live at Roppongi Hills(←通報済み)

 千葉雅也のパラマウンド・セオリー(もっこり理論)のライブ盤シングルカットが出回っている。音の悪い非公式の海賊盤だが、やはりライブだと迫力がある。ところで盛り上がった場所は、UFOが着陸する場所でもある。森村泰昌によれば、《「鼻」の先端部にこそ、宇宙と交信できる場所がある》というのだ。(千葉雅也著「パラマウンド-森村泰昌の鼻」ユリイカ3月号189ページより)



「ラカン派精神分析では人間と動物の区別は絶対なわけじゃない。言語を持っているか持っていないか、ここで精神があるかないかが決まる。しかし、その点で宇宙人はどうだ(笑)。これは動物か、人間か、神か、どれでもないわけでしょう。こういう存在がポピュラーになった時代というのは、やはり人間観もかなり変化しているはずだと思うんだよね。[...]超感覚や超能力の発想も同じように面白いんだ。実は新井素子の小説で昔読んでへえと思ったのがあって、その小説では、まず宇宙人がやって来て、地球人が超能力の概念を持っているそのものに驚くわけ。おまえたちは超能力を持っていないのに、なんで超能力について知っているんだって。ここから実は人類の過去には......云々という話になるんだけど、確かに、超能力の発想は直接に身体の延長線上で出てくるものではないような気がするじゃない」(東浩紀著『不過視なものの世界』257ページより抜粋)