SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

ジミ・ヘンドリックスの巻き

2008年05月27日 | Weblog


「巻いた人達」シリーズの第1回はジミ・ヘンドリックスである。ジミはエレクトリック・ギターをシルコンフエシオン(割礼告白)の装置として使用できた唯一のギタリストである。左利き(だったとされる)ジミが右利き用のギターを逆さまにして使っていたのも、ときには歯で弾いたり火をつけて壊してしまったのもおよそギミックではなく、すべてはサイケデリックな渦巻き(幽霊の声)に導かれてのことであった。フェンダーのストラトキャスターやマーシャルのアンプ、そして様々なサウンド・エフェクトのペダルを使わないナイーヴな演奏家は、シルコンフエシオン(割礼告白)を始めることはできない。「機械ばかり使っていると言われるが、ステージ上で起きていることは機械がやったのではない。僕がやっているんだ」と言っていたジミには、しかし渦巻きから響く幽霊の声が聞こえていたのだ。と、言われてみればそんなふうに思えてこないか?

養老天命反転地15

2008年05月18日 | Weblog


>世界的にみて、アートにおける最大重要テーマというのは「死」なんです。「アートは死に対して哲学的な答えを出さなければいけない」という考えがあって、ゆえに宗教を引用したり政治的なものを使ったりしてるという具合で。で、日本は世界で唯一原爆を体験した被爆国ですよね。しかし『タイム・ボカン』というアニメでは毎週毎週原爆のキノコ雲のイメージが出るにもかかわらず誰も死なないという(笑)。 (「現代アートの超理論」より村上隆の発言を抜粋)

 この特別連載で私は最初に養老天命反転地は涙腺のついた眼の底であるというダイナミックな見解を示したが、さらに唐突なことを言えば、そこはすべてがリセットされる場所としての「爆心地」でもあるだろう。村上隆が「リトルボーイ展」でアメリカに紹介した日本のアニメ作品では、原爆投下によって日本人が何より「眼を失った」ことが示されている。なにもここで村上隆と荒川修作を同時に観ろと言いたいわけではないが、荒川の「はたして日本人に体系のようなものを立てることなどできるのか」という問いかけは、まんがアニメの世代である村上にとっても<日本人として>なおさら重いものであろう。ちなみに村上が荒川の「天命反転」の思想にいかに強い影響を受けているかは、すでに大作「二重螺旋逆転」等ではっきりしている。

養老天命反転地14

2008年05月07日 | Weblog
>世界は、古代から現代までのさまざまな詩が示しているように、押し寄せる偶然のなかで、私達を溺死させてきたのです。しかし偶然については想像を超えた素晴らしい面もあるのです。それは偶然を統御でき、再考でき、再作業できるということです。
>価値を割り当てるものに、その価値が自分の上にまるで雨のように落ちてくるまで、偶然性を追求させてみてはいかがですか。選択肢をもたず、なお偶然である以外にはないものにとって、偶然性の工学はおよそ以下のようなものになります。「世界の価値(ないし最終局面)は、偶然性(の複雑な制御)のなかにある」。(『建築する身体』27ページより抜粋)

養老天命反転地13

2008年05月04日 | Weblog
 いくらなんでも「記憶が無い」というのは言い過ぎだろう。ましてや「テッド・チャン」というのはやり過ぎだろう。だがしかし、この事件についてさらに調査してみたところ、ある興味深い事実が出てきたのである。荒川修作の年譜を作成した詩人の岡田隆彦氏は、その後すぐ、例の間違いに気付かぬまま1997年に他界しているのである。ゆえに、すでに故人となった岡田氏に対して、誤記の訂正を求めることは出来ない。年譜は訂正されても、岡田氏本人にそれを伝えることは絶対に出来ないのである。「死」とは何より、この訂正不可能性のことだろう。だが「死」に抗する荒川は、もしかして岡田氏が間違えたとおりに生き直そうとすることで、その訂正不可能性の反覆を目論んだのではないか? (a suivre)

養老天命反転地12

2008年05月03日 | Weblog
>自由意志の存在は、我々には未来は知りえないことを意味する。そして、我々はその直接的経験があるからということで、自由意志は存在するだろうと確信している。意思作用は意識の本質的要素なのだと。 いや、そうなのだろうか? もし、未来を知るという経験がひとを変えるのだとしたら? それは切迫感を、自分はこうなると知ったとおりの行動をすべきだという義務感を呼び覚ますのだとしたら?(テッド・チャン『あなたの人生の物語』より抜粋)

 いまさらだが、荒川修作が自分の母校を間違えていた本当の理由が判明した。『現代思想』誌の荒川特集号(1996年)に掲載された岡田隆彦氏作成の年譜に、そのような誤記があったのである。なんのことはない、荒川は記憶違いをしたわけではなかった。そこに自分の母校が名古屋市立瑞穂小学校であると記されていたので、そうしただけだ。そもそも記憶が無いのである。過去の記憶が未来を知るという経験として与えられ、自分はこうなると知ったとおりの行動をしただけだ。荒川修作はいつだって、そういう意味で「本気」なのだ。

養老天命反転地11

2008年05月02日 | Weblog
 さて、我々はこれから荒川修作の頭のなかに構築されている「多層的迷宮」の内部の探検に挑むわけだが、何が起こるかわからないので事前の準備は十分にしておいたほうがいいだろう。装備は登山用具の専門店で買い揃える。食料と水は3日分くらいあればいいだろうか。どう考えても圏外だろうから携帯電話は必要はない。もしものときは覚悟を決めるだけだが、それでも威嚇のためのモデルガンは持っていくことにしよう。だがその前に、うさぎ跳びや腕立て伏せ等のトレーニングをしておいたほうがよさそうだ。ガイドブック『建築する身体』の170ページには、こんなことが書かれている。かなりキツそうだぜ。

>人は、自分の残ったすべての指を多層的迷宮のなかに入れることによって、自分の身体を迷宮のなかへ進め、押しつける。―しかしそれじたいでみれば親切な―迷宮のなかを這っていくのである。身体は、前側にあるいは反対側にみずから折れ曲がり、いくつかの角でただちにそれじたい動き、障害物の周りで首を傾け、異なるカーブの一部では頭を前にだし、胴体が引き入れられる。こうして人は、大股で足を進め、他の位置では腿を折り、ふくらはぎと腿がふれあっている。一方の肩は、胸の側へ曲がり、他方の肩は背側へ曲がる。人は、肘で押し分け、肩で押し、また肘で押し分け、全身で押し、そして引く。さらにそれ以外に、繰り返し獲得すべき骨や肉へと入り込み、少しずつ動き、詰め寄り、割り込むような収縮の動き、そしてあふれるほどの肉のなかで、椅子をとおしてみずからを隠す。これらは人が、建築的身体の多様な軌道をみずからにあたえ、自分の軌道に突き当たったときに生じることである。