SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

六本木ガチ盛りアート・ナイト その1

2010年03月28日 | Weblog
 私が黒瀬陽平にガッチリ粘着しているあいだに、千葉・池田組は新たなステージに上がっていた。3月27日の深夜の六本木ヒルズWIRED CAFEにて行われたシンポジウム『美と崇高のリ-クロッシング--芸術理論の再起動へ向けて』は、東京都主催のアート・イベント『六本木アート・ナイト2010』をディスクールの次元で盛り上げるプログラムとして、その批評筋に注目されていたものである(たとえば浅田彰はただちに「美と崇高なんて問題設定などいまさら古い」という脅迫めいたメールを池田剛介に送りつけたらしい)。招聘されたのはグリーンバーグ・ガチの加治屋健司氏と、カント・ガチの星野太氏である。深夜の1時から朝の4時というありえない時間帯で強行されたこのシンポジウムは、その内容の硬質さにもかかわらず、(すでに終電が無いせいもあってか)、最後まで盛況を極めた。というか、千葉・池田組からすれば、このイベントは何としても成功させる必要があった。もし失敗させてしまえば、同じ日にやはり六本木に暗躍していた黒瀬陽平に、あろうことか「ニュー・アート・リーダー」の座を許すことになるからだ。司会の千葉の「盛り付け」は、ゆえに最初から凄まじいものとなったのである。(続く)

イストワールの現在 その6

2010年03月24日 | Weblog
>「兄弟なら、刃傷沙汰」。「去るもの、日々にうとし」。この二つの格言は引用したアリストテレスの『弁論術』や『詩学』の文章に含まれる矛盾を分からせてくれる。過度の距離は無関心を呼ぶ。過度の近接は、同情も、抜き差しならない敵対も生じさせる。この両義性はギリシア悲劇で驚くべきほど生き生きと表現されたのだが、アリストテレスが生きていた社会の日々の現実の一部をなしていた。それは顔見知り関係に基づく、狭い社会だった。(カルロ・ギンズブルグ著『ピノッキオの眼-距離についての九つの省察』(せりか書房)322ページより抜粋)

このギンズブルグの本の第八章「中国人官吏を殺すこと-距離の道徳的意味」には、他にも「昆虫の苦しみへの私たちの無関心を宇宙的尺度で投影する」というセカイ系的にもかなり重要なことが書かれている(327ページ)。この本の内容がセカイ系とは直接関係無いとはいえ、こうした「距離」への表象論的な考察無くしては、いかなるセカイ系論もありえないだろう。およそヴァールブルク的図像学だけでは足りないのだ。

イストワールの現在 その5

2010年03月19日 | Weblog
>なかでも、「暗い絵」と題された最終章で言及されている、藤田嗣治による戦争画《アッツ島玉砕》は、本来の「聖戦美術」という「あかるい」使命と、藤田自身の内なる「くらい」加害者意識がないまぜになった、きわめて不気味な作品である。この作品に表れている微細で複雑、かつ過剰な情念のうずまきが、堪木を『日本・現代・美術』という歴史を遡る旅へ誘ったであろうことは間違いない。(黒瀬陽平著『新しい「風景」の誕生』より抜粋、『思想地図』4号129ページ)

 図1の「いたる原画」と、図2のデューラーの「オルフェウスの死」は、ページ見開きで対置している(122~123ページ)。この『思想地図』の編集者たちによるレイアウトの無意識は、藤田嗣治の《アッツ島玉砕》に描かれた風景それ自体の無意識と連結している。《アッツ島玉砕》の画面上部には、ゆるやかな山並みが見える。玉砕する兵士達の背後の遠景に、もっこりと盛り上がった地形が描かれているのである。

>異化された立体性のイメージとして在ること、それはいわば、隆起しつつ表層に再‐内在化しているトポスとして在ること、盛り上がったところ、丘、塚、墳墓のようなもの、「マウンドmound」として在るところである。(千葉雅也著「パラマウンド-森村泰昌の鼻」ユリイカ3月号より抜粋)

(続く)

イストワールの現在 その4

2010年03月14日 | Weblog
>『エヴァ』のTV放映が終了した直後、1996年6月から『美術手帖』にて連載を開始した『日本・現代・美術』は、1990年代後半以降のサブカルチャーにおいて流行したセカイ系の影響を受けていたどころか、それらの登場をあらかじめ先取りするかのようなタイミングで現れた、セカイ系の作品(アート)だったのである。(黒瀬陽平著『新しい「風景」の誕生』より抜粋、『思想地図』4号113ページ)

 千葉・池田組からも指摘されていたように堪木野衣の『日本・現代・美術』という著作は、しかし「虚構の時代の末期」的な想像力で書かれている。ゆえにその内容は、むしろ「セカイ系」に対する「自虐系」として捉えるべきである。前世紀末から、オタク・アニメの領域で「セカイ系」が流行したとき、ほぼ同時期にアートの領域では「自虐系」が流行していた。あるいは、「萌え」というオタク用語が一般にも広まったとき、現代美術家たちのあいだには何故か「アートはテロリズムである」という認識が強まっていたのである(少なくとも米国同時多発テロ勃発の直前までは)。おそらくセカイ系と自虐、あるいは萌えとテロのあいだには、なにかしらの「遠隔作用」が反発的に働いている。(続く)