SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

擬似ドキュメンタリーについて その5

2010年06月10日 | Weblog
>われわれはヴァールブルグが自分自身を木片からなる「地震計」に譬えていたことを思い起こすべきだろう。それはいわば精神の大地を形成する文化の地層の波動を感受し記録する装置である。電報(Telegramm)や電話(Tele-phon)はヴァールブルグのなかで「テレパシー(精神感応 Telepathie)」の概念と結びついていたのかもしれない。彼が「距離感覚(Ferngefuhl)」と呼ぶ「遠い(fern)」という距離の「感覚(Gefuhl)」は、「遠く(fern)」離れて「感じること(Fuhlen)」、すなわち「テレパシー(Fernfuhlen)」の経験において空間的な遠さが感覚の身近さと二重化することによって惑乱されてしまう。疎遠なものが身近に感じられるという距離感覚の崩壊は、身近なものが疎遠になるという経験をともない、いずれの場合も自己性と他者性は見きわめがたく混濁する。疎遠な対象と化した身近なものとはまさしく「不気味なもの」にほかならない。精神の波動を感知するテレパシー同様、電報や電話の伝える電気信号や音声もまた、不可視の波動であることによってさらにその危険性が増す。(田中純著『アビ・ヴァールブルグ 記憶の迷宮』第4章「蛇儀礼講演」110ページより抜粋)

 擬似ドキュメンタリーの対象はもちろんフィクションだが、ハンディカメラの揺れ自体は何かリアルなものに感応している。というわけで上記ヴァールブルグの「地震計」の譬えは重要だ。そして擬似ドキュメンタリーとの関係が指摘されるセカイ系作品の設定において「中景」が無くなっているのは、距離の撹乱によって象徴界が破壊されているからである。ヴァールブルグはすでにその事態を危惧していたという。いずれにせよキーワードは「地震計」だ。「精神の大地を形成する文化の地層の波動を感受し記録する装置」としての「地震計」である。

>ジャン=フランソワ・リオタールは83年の『争異』において、アウシュヴィッツの経験を巨大な地震にたとえている。「地震のために生命や建物や物ばかりか、直接的、間接的に地震を測定するために用いられる器具もまた破壊された、と仮定せよ。地震を数量化することが不可能だからといって、生き残った人々がとてつもない大地の力という観念を抱くことが禁じられるわけではなく、反対にその観念はかきたてられる。学者はその地震について何も知ることができないと言うが、一般の人々は、決定できないものの否定的な現われが引き起こす複雑な感情(sentiment)を経験する。(東浩紀『存在論的、郵便的』50ページ)

ホサカ的なもの

2010年06月09日 | Weblog
>メール的なもの、ネット的なもの、ブログ的なもの、パソコン的なもの。それを私が批判したところで、批判に対する反論が出てきたら私はそれに太刀打ちできないから反論はぜひともしないでほしい。ただ、メール的なものによって失うものがたくさんある。メール的なものが世界の中心になるということは、メール以前の世界ではぱっとしなかった人たち力を持ったり脚光を浴びたりすることだ。(保坂和志の「寝言戯言」より)

 ホサカ的なものサエキ的なものフルヤ的なものマスノ的なもの。それを私が批判したところで馬の耳に念仏、なにをかいわんやである。ホサカ的なものへの批判は、今まさしくネット的なものの世界の中心で喝采を浴びている黒瀬陽平の、このあまりにも有名な発言を引くだけで十分だろう。

>ここまで来てもまだ純文学作家は、荒唐無稽なファンタジーやMAD的な生成力に一度も振り切れることなく、自然主義的リアリズムとの「ズレ」程度の操作で、現実の過剰さに手が届くと思い込んでいるのではないだろうか。(「新人小説月評」、〈文學界〉2010年6月号)

疑似ドキュメンタリーについて その4

2010年06月07日 | Weblog


>僕は、擬似ドキュメンタリーと言えば手持ちカメラによる手ブレ映像だと思っているのですが、その撮影スタイルが、まさにセカイ系的な世界観そのものであるように思えたのです。これは、セカイ系の話でよく出てくる「ボクとキミ」という話で説明すると分かり易いかもしれません。手持ちカメラを用いて撮影する時、「キミ」当たる、撮るべき対象が画面の真ん中に一人居るわけです。そしてカメラを持つ「ボク」はその対象をずっと追いかけていく。(佐々木友輔

 最古の擬似ドキュメンタリー映像作品は、1967年にロジャー・パターソンによって制作され、公開された。もし佐々木の仮説が正しいのだとすれば、この有名なサスカッチの映像こそが、セカイ系最古の映像作品だということになる。そしてのち、UMA(未確認動物)をめぐる擬似ドキュメンタリーの対象が「スカイフィッシュ」にまで至る頃には、ついに「キミ」への幻想は「昆虫」としてしか捉えられなくなってしまうのである。ここまでくれば、「鉱物」まであと一歩だろう。ずいぶん遠くまで来たものである。

>率直に結論から言うと、このスカイフィッシュはビデオ上にしか存在しません。その向こうの現実の世界にあるのは、実はただの飛翔する昆虫でしかありません。つまり、スカイフィッシュとは、ビデオ上で電子的な残像を身にまとった昆虫なのです。しかしこのあからさまな事実も、少し角度を変えてみると示唆的です。〔...〕現代においては、メディアに記録されたあらゆるものが、ノイズ(雑音、インクのしみ、レンズの汚れ、誤植、ハレーション、イラジエーション)を含め、実在として機能しています。現代においては、メディアの向こうにある現実、結局は生で体験することの不可能な現実よりも、メディアに記録された「現実」、好きな速度で好きな時間にじっくり眺められる切り取られた「現実」の方が、「現実」として機能しているのです。(木原善彦著『UFOとポストモダン』(平凡社新書)161ページ)

夢ばかり、眠りはない

2010年06月06日 | Weblog


藤田直哉のテキスト「無意味な世界で、孤独で空虚な幽霊として彷徨うこと」を読んで、思いっきり脱力した。これがあの東浩紀の弟子筋にあたる人間の書く文章だろうか。いくらなんでもナイーブにすぎる。「俺の見ていた景色だ」とか「僕の情緒を揺さぶる」とか「世界の真実の姿」とか「ふるさと」とか、偽日記の古谷かと思った。はたしてそんな感傷的なポエムの言葉で17人をも無差別に殺傷した人間の心境に関われるのかどうか。この映画の上映はいまのところ6月14日の一夜限りのようだが、もし藤田の言うとおりの作品なのであれば、観る価値は無いだろう。すくなくとも予告編を観る限りでは、かなり文芸的に腐りきった映画のように思える。

擬似ドキュメンタリーについて その3

2010年06月01日 | Weblog
「フロイトが無意識を発見した19世紀という時代の背景には、考古学をめぐる飛躍的発見があった。シュリーマンやエヴァンズによるミケーネ文明やクノッソス宮殿の発掘は、それまで神話にすぎなかった世界を実在のものとしてしまった。フロイトの収集物から察するに、彼がこの方面に多大な関心を寄せていたことはあきらかだろう。ひとの意識も、それを「発掘」することで神話という領域に行き当たると考えたとしてもおかしくはない。もしそうだとしたら、フロイトの「無意識」とは、意識における考古学的な領域にあたるものだったのではなかろうか。「夢」とは、その発掘のための現場であり、そこで見つかるイメージは過去の神話の破片で、失われた文脈までは読み取れない。夢が断片的で唐突なのはむしろ当然なのだ」(椹木野衣の海外研修報告より抜粋)

 考古学、発掘、収集物、無意識、失われた文脈、過去、夢、断片、そして神話か......。擬似ドキュメンタリー作品の先端研究で藤田直哉(限界小説研究会)に追いつかれないためにも、やっぱりマーク・Z・ダニエレブスキーの『紙葉の家』の解読は必須だな。以前、図書館で借りたときはページを眺めただけで返却したが、こんどは購入してガチ読みするつもりだ。いよいよ覚悟を決めるときが来たのだ。