SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

養老天命反転地24

2008年10月13日 | Weblog


 このクリップは藝大モギケン教室での荒川修作の発言を私が勝手にカットアップして作ったフォトストーリーである。「とうとう僕言っちゃったんだよ。亡くなったほうがいい、人類は早く亡くなったほうがいい......」 教室に沈鬱で悲劇的なムードが最も高まっているシーンだが、普通に聞くと何か怪しいカルト宗教家の妄言のようにも聞こえる。しかしこの直後の言葉に注意してほしいのである。「亡くなる前に、俺は完璧に違った種を生み出すよと言ったんだ。そしたら荒川あると言うんだ。名前を早く付けよう......」 注目すべきは、この「亡くなる前に」という「最後の一つ前の言葉」である。

>そして『孤独な散歩者の夢想』でふたたび語られた言葉こそが、ほんとうの最後の最後の言葉となります―――極限の終末(エスカトロジー)として。ド・マンの分析にはいくつもの興味深いところがありますが、とくに独創的なのはほんとうの最後の言葉と、最後の言葉の一つ前の言葉の違いを考察しているところです。究極の物語と同時に、最後の言葉を最後の一つ前の言葉に貶めてしまう原動力を説明するために必要と思われるものを考察しているのです。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』上巻122ページ「有限責任会社Ⅱ」より抜粋)

 今年は底なしに深い秋の夜長になりそうだ。

養老天命反転地23

2008年10月12日 | Weblog
 この奈義の龍安寺について高橋幸次氏が書いた「3つの会話」というテキスト(の抜粋)は、いくつもの重要なポイントを押さえた、なかなかいい解説文となっている。とりわけ「時間の逆戻り」や「〈非人称〉の視点の入手」といった視点はすこぶる重要だが、ここではまず「意識が身体から、あるいは身体が意識から前のめりに〈ずれて〉しまっている」という感覚の指摘に注目したい。というのも、この「前のめりにズレる」という感覚は、養老天命反転地の「楕円形のフィールド」のなかで誰もが実際に体験することだからだ。

>自己意識と身体感覚のバランスが崩れ、〈軸〉がずれ、意識が前のめりになって〈二重化〉がおこり、「何か」が生まれ出る。それは新生児の知覚にあって、私たちが大人になるにつれて忘れてきたもの。それは「不安」や「信仰」「心」と呼ばれるもの。私たちの〈根〉であり、「懐かしさ」とでも呼ぶのか、ある〈雰囲気〉である。人工的に「インスタント・ノスタルジー」を作り上げることと彼らは言う。

 高橋氏の説明は簡単で明快だが、次に読む殉教者デリダの「前のめり」と「先取り」についての謎の記述は理解困難である。誰かどういうことだか簡単に説明してくれないか。大事な話だとは思うが、いまのところ意味不明である。

>「先取り」(anticipation)とは前部をつかむこと、前から、前もって(ante)取る(capere)ことである。「前のめり」(precipitation)は頭を危険にさらす(prae-caput)こと、頭からつっこみ、頭から先に出ていくことであるが、先取りはそれとは異なり、むしろ手にかかわる事柄である。盲者の素描の主題は、まずなによりも手である。手は向こう見ずに出ていく。前のめりには違いないが、この場合は頭の代わりに、それに先行し、それを予防し保護するかのように手が出ていくのだ。手すりすなわち狂人保護(garde-fou)というわけだ。先取りは前のめりを防ぐ。先につかもうとし、把握、接触、把持の運動において前方におもむくために、空間へと前進し空間に働きかける。立っている盲者は手探りで進む.........以下略。(ジャック・デリダ著『盲者の記憶』6ページより抜粋)

セカイを肯定する哲学

2008年10月12日 | Weblog
「にもかかわらず、文学が知の中心であるかのように思われていたのは、そこに人工的な操作があったからです。虚構の体験を通して知の精度があがっていくという、ほとんどなんの根拠もない幻想が支配していた時期があり、その前提のうえで論壇誌や文芸誌の話題が決まっていたというだけの話です。しかも、日本では、歴史的経緯から妙に文学の地位が高かった。でも実際には、ビルや道路を作っていたひとたちにはそんなの関係ない。そして、情報技術の地位上昇によって、そのような非小説的なメンタリティのひとたちが実際に社会制度を設計したり、文化創造を支援できるようになってきた。そうなったら、文学の地位は落ちざるを得ませんね」(東浩紀『批評の精神分析』336ページより抜粋)写真は保坂和志。

養老天命反転地22

2008年10月11日 | Weblog
>このような大きさの尺度を採用しなければ、たとえば人間が地上に登場する5400万年前という尺度を採用しなければ、知について考え、知り、考えることを知り、知について考えることを知り始めることはないのかもしれません。あるいは昨日のこと、わたしがそこにいないとき、「わたし」が、とくに「わたしは人間だ」と語る「わたし」がそこに存在しないとき、あるいは明日、おそかれはやかれ、もはや存在しなくなるときに。
 さてこのような大きさで考えると、文学の歴史において、告白、夢、「すいません」、そして乞われた許しのような人間的で、最近のもので、微細で、しかもまったく脆いもののアーカイブについて、国立の図書館や、国際的な図書館についてわたしたちがいま抱いていいる関心は、いったいどうなるでしょうか。この文学の歴史は、人間の歴史というまったく小さな尺度で考えても、ついさきほど生まれたばかりの新生児にすぎず、若くても年老いても、せいぜい数世紀の歴史しかもちません。これは生命の歴史、地球やその他の事物の歴史からみると、一秒のごく数分の一にすぎないものなのです。(ジャック・デリダ著『パピエ・マシン』197ページより抜粋)