岩波書店発行の「未来に語り継ぐ戦争」を読んだ。
戦争経験者と戦争を知らない世代の老若世代14人の対談を
まとめたものである。
例えば、むのたけじ×雨宮処凜、半藤一利×田口ランデイ、
品川正治×鈴木邦男などなどである。
共通して言えることは、加害者であり、そして悲惨な被害者
であった、あの戦争が、70年も経ったのに国として国民と
して総括できていないということである。
だから、戦争を知らない連中が、自衛のための戦争だったと
か、アジア諸国を欧米列強の支配から解放するために仕方な
くやった戦争だとかご託を並べるわけだが。
当時新聞記者であった、むのたけじ氏が国からの圧力の有
無を問われ、そんなものは無かった。当局の圧力よりも隣
近所の方が怖かったと言っている。無言の圧力によって、
自主規制をしてしまう。思うに、普通の国民にしてみれば、
憲兵よりも隣組の圧力の方が怖かったのかも知れない。こう
いう雰囲気は、国民の自主規制から自然に醸成されていった
ものだろう。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものが
いてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のよ
うな戦争は成り立たなかつたに違いないのである。
戦争の総括の話に戻るが、国としての反省(権力者のみで
は無く国民も含めた)がされなかったから、共通認識が形成
されなかったから、今になって、あの戦争を美化するような
小説や、映画が戸惑いもなく賞賛されているわけだ。
終戦当時、多くの国民は、新憲法の下、戦争の恐怖と無言の
重い圧力から解き放された開放感で、反省などに気が回らな
かったのかも知れないが、このあたりにも押しつけられた
(与えられた)民主主義を深く考えることもなく、経済復興
のみに邁進したツケが今になって出ているがあまりにも大き
すぎる負債である。
日本が米国と戦争したことも知らない世代や、朝鮮、中国も
侵略したことも知らない連中、嫌中、嫌韓の行動の台頭に見
られるように、侮蔑する意識だけは、戦前から引き継がれて
いるのも皮肉だ。考えてみるに、日本に空前絶後の殺戮を行
った米国を畏怖し、脱亜入欧を掲げ、侵略で多大なる苦痛を
与えた、中国、韓国を毛嫌いするのだから、何ともおかしな
話だ。
やはり、日清戦争で、勝利し、近代化が日本よりも遅れてい
る中国、韓国を侮蔑する国民的意識が教育で形成されたのか
も知れない。
反省の話に戻るが、ドイツの場合は、ナチスの所為にしない
で、政治指導者達がしっかりと反省し国民にも共通の認識が
形成された。一方の日本は日本の場合は、中国、韓国で行っ
てきた残虐行為に心を閉ざし、子孫に語り継ぐこともせずに、
戦争経験者や語り継ぐ残された人も僅かになっている。この
期に及んでは、村山、河野談話を見直すなどと歴史の針を戻
すような馬鹿なことを言わないで、これを明確にして、都合
良く外交上の免罪符として使うのではなく、国民共通の認識
として、反省すべきは反省し、卑屈になるのではなく毅然と
した態度でお互いに対等な立場で、付き合っていくことが大
切だと思う。
以前にも触れたが、伊丹万作の「戦争責任の問題」を引くと、
『つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものと
だまされるものとがそろわなければ戦争は起らないというこ
とになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにし
ても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという
事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだ
まされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家
畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつてい
た国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが
悪の本体なのである。』
戦争経験者と戦争を知らない世代の老若世代14人の対談を
まとめたものである。
例えば、むのたけじ×雨宮処凜、半藤一利×田口ランデイ、
品川正治×鈴木邦男などなどである。
共通して言えることは、加害者であり、そして悲惨な被害者
であった、あの戦争が、70年も経ったのに国として国民と
して総括できていないということである。
だから、戦争を知らない連中が、自衛のための戦争だったと
か、アジア諸国を欧米列強の支配から解放するために仕方な
くやった戦争だとかご託を並べるわけだが。
当時新聞記者であった、むのたけじ氏が国からの圧力の有
無を問われ、そんなものは無かった。当局の圧力よりも隣
近所の方が怖かったと言っている。無言の圧力によって、
自主規制をしてしまう。思うに、普通の国民にしてみれば、
憲兵よりも隣組の圧力の方が怖かったのかも知れない。こう
いう雰囲気は、国民の自主規制から自然に醸成されていった
ものだろう。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものが
いてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のよ
うな戦争は成り立たなかつたに違いないのである。
戦争の総括の話に戻るが、国としての反省(権力者のみで
は無く国民も含めた)がされなかったから、共通認識が形成
されなかったから、今になって、あの戦争を美化するような
小説や、映画が戸惑いもなく賞賛されているわけだ。
終戦当時、多くの国民は、新憲法の下、戦争の恐怖と無言の
重い圧力から解き放された開放感で、反省などに気が回らな
かったのかも知れないが、このあたりにも押しつけられた
(与えられた)民主主義を深く考えることもなく、経済復興
のみに邁進したツケが今になって出ているがあまりにも大き
すぎる負債である。
日本が米国と戦争したことも知らない世代や、朝鮮、中国も
侵略したことも知らない連中、嫌中、嫌韓の行動の台頭に見
られるように、侮蔑する意識だけは、戦前から引き継がれて
いるのも皮肉だ。考えてみるに、日本に空前絶後の殺戮を行
った米国を畏怖し、脱亜入欧を掲げ、侵略で多大なる苦痛を
与えた、中国、韓国を毛嫌いするのだから、何ともおかしな
話だ。
やはり、日清戦争で、勝利し、近代化が日本よりも遅れてい
る中国、韓国を侮蔑する国民的意識が教育で形成されたのか
も知れない。
反省の話に戻るが、ドイツの場合は、ナチスの所為にしない
で、政治指導者達がしっかりと反省し国民にも共通の認識が
形成された。一方の日本は日本の場合は、中国、韓国で行っ
てきた残虐行為に心を閉ざし、子孫に語り継ぐこともせずに、
戦争経験者や語り継ぐ残された人も僅かになっている。この
期に及んでは、村山、河野談話を見直すなどと歴史の針を戻
すような馬鹿なことを言わないで、これを明確にして、都合
良く外交上の免罪符として使うのではなく、国民共通の認識
として、反省すべきは反省し、卑屈になるのではなく毅然と
した態度でお互いに対等な立場で、付き合っていくことが大
切だと思う。
以前にも触れたが、伊丹万作の「戦争責任の問題」を引くと、
『つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものと
だまされるものとがそろわなければ戦争は起らないというこ
とになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにし
ても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという
事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだ
まされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家
畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつてい
た国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが
悪の本体なのである。』