えみこママのブログ

こんにちは。お元気してますか?いつもいつもエネルギーを分けてくださってありがとうございます。おかげで元気ですよ~。

お楽しみ会

2023-08-29 21:59:00 | Weblog
残暑お見舞い申し上げます。
毎日どっと暑いです。
朝夕、ほんの少しですが、あれっ、前と違うな…と思うことがあります。すこーし涼しいような。

音楽教室の年に2回のイベント。

発表会と発表会の間に、演奏経験を積むことを目的として始めたのが、夏はお楽しみ会、冬はクリスマス会だ。

初めは、ある先生がやってらした。
生徒たちの演奏が終わると、先生自ら目隠しをして生徒をつかまえたり、とても賑やかにやっていたのを覚えている。

そのうちに私もやるようになって。

あの頃は生徒がたくさんいたので、先生5人とその生徒でやっていた。
みんなの演奏が終わると、生徒の1人がバチッと電気を消す。
私が怖い話をするのが恒例になっていたから。

クリスマス会の時だけ、プレゼント交換をしたが、そのうち夏にもプレゼント交換するようになった。

あの頃は、35人から40人くらい集まっていた。だんだん少なくなって、20人くらいでも楽しかった。

今日は生徒は6人だけ。講師が3人。
ほんとに少なくなりました。

私の音楽教室人生は50年以上経つが、小さなやる気はもっともっと昔からあった気がする。

あの時代だから、子供の頃はオルガンだった。
ピアノが家に来たのは高校生の頃。
なのでよく、井の頭線沿線の貸しピアノ、渋谷の楽器店の貸しピアノを利用していた。
そこには高齢の女性がいて、たくさんの鍵をガチャガチャさせながら、狭いピアノ室の鍵を開けてくれた。

その時のおばさんのようなことを、今私がしている。

自分が生徒のレッスンをするほかに、別の先生のレッスンのために教室を使ってもらっているから、そんな時はなるべく家にいて、始まる前に教室のエアコンをつけておいたりしている。

やりたかったことを仕事にして、いつも人の出入りがあるのが、私は幸せなことだと思う。やりたかったことをやれているのが幸せだと思う。

発表会やお楽しみ会、レッスンも気に入っている仕事だし、こういう人生を送りたかった私が続けて来たことだ。

この教室を開設してゼロから始めて今日に至っていて、この教室の責任者としてもうしばらく、この人生を楽しんでいたい。

25年ほど前に長女が音大を卒業して、講師になったが、しばらくは結構大勢の生徒を持たせることができた。
しかし10年ほど前から、徐々に生徒が少なくなって来ました。

少ないながらも、今日もお楽しみ会は楽しくできました。

時代が変わっても、音楽を通じて子供さんや大人の生徒さんはかけがえのない大切な友人のような気がします。

今通って来てくださる生徒を指導して、心に感じたものを作詞作曲して、仲間と歌い、ボランティアコンサートや、仲間とのコンサートを開催する。
ピアノ、エレクトーン、オカリナ、ウクレレ、リコーダー、などなど音楽講師として、また音楽愛好家として、音楽好きな高齢者として、このままやれていれば言うことない人生です。

あ、そうそう、キツいパートで身体を鍛えながらね。

ではまたね。
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記憶

2023-07-29 23:57:00 | Weblog
暑中お見舞い申し上げます。

3歳の頃、母と山を歩いたことがありました。
帰りにとても疲れて、歩くのが大変で「Iamtired」と叫びたかったほどだ。
母は竹で編んだカゴを背負っていたが、帰りは何も入ってなかった。その空っぽのカゴに私を乗せてくれないのか…と思った。ほんとに足が疲れていた。今思うと、母は多分お腹に私の妹がいたのだと思う。

私は10月5日生まれ、妹は3つ違いの同じく10月の25日が誕生日だ。そのまた下の弟は同じ10月の15日が誕生日なのである。
4人兄妹のうちの三人が、10月生まれだった。

6歳の頃私の家族は福島から東京に引っ越しして来た。家も畑も、うさぎもみんな売って上京したのだ。

母のすぐ上の姉が、両国で製本業を営んでいた。戦後の貧しい日本の復興の勢いのある時代だったから、その叔母は自分の兄妹に上京してくるように呼びかけていた。
そして叔母は兄妹達に仕事を教え、みんなを独立させた。

うちの父は無口な大工だったが、嫁の兄妹の世話にはなりたくないと思い、自分の従兄弟を頼ったのだった。
その従兄弟は、杉並区で風呂桶屋を営んでいた。
その近くに借家して、私たちの東京の生活が始まった。
父は木工大工として、職を得たのだった。

8歳の小2の最後のこと。
3年になるとクラス替えがあるので、お別れ会があった。
机を並べて舞台を作り、反対側に椅子を並べて客席を作った。
親も呼ぶので、他のクラスからも椅子を借りて来たようだった。
出し物は、オルガン弾くのが3人、バイオリン弾くのが健君だった。
机の上にオルガンを乗せた。
今考えたら机を舞台にして、その上を歩いたのは教育的には良くないことではなかったかな?
机の舞台に上がるまで、椅子を一つ階段がわりにした。
2人の女の子がオルガンを弾いたが、私の知らない曲だった。ブルグミュラーとか、バイエルを弾いていたのかもしれない。楽譜の読めるその2人は時々間違えたのか止まって弾き直しをしていた。楽譜が読めるのだなと羨ましかった。
次が私の番だった。
曲はブラームスの子守唄と、みかんの花咲く丘だ。
私はピアノを習っていなかったので、楽譜は全然読めなかった。あの頃の小学校の音楽はアンプの読み方の授業はなかったから、ちんぷんかんぷんだった。
担任の岡田礼子先生が弾くオルガンをじーっと見て、伴奏のことメロディのことの仕組みを自分なりに理解して弾く二曲だった。
楽譜を読めない人は感で弾くものだから止まらずに最後まで弾いた。私の母は薄ピンクの着物を着て、見に来ていたが、ニコニコしていた。最後に弾いた健君のバイオリンは、圧巻だった。

10歳の頃のこと。
近所の母よりだいぶ年上の知り合いと、母はよく立ち話をすることがあった。その人の若いお嫁さんの話題のようだった。
母はしばらくして街でそのお嫁さんに出会い、おしゃべりをして来たようだった。

さらにだいぶ経ったころ、お嫁さんのお姑さんが遊びに来た。また話を始めたその時だった。
「あなたはお嫁さんのことを悪く言うが、この前偶然会って話をしたけど、あなたの言うような悪い人ではなかったですよ。とても良い人ではないですか。今後お嫁さんの悪口は聞きませんからね。」と母。
そのお姑さんは、鼻を噛んでいた。
泣いているのかもな、と私は思った。

私は子供心に、母は白黒はっきり言う人間なのだなと思った。
何もあそこまで言わなくても、中間にいて2人の話を聞いてあげるだけで良かったのになあと思った。
10歳でも、ここまで覚えているのだ。

まだまだたくさんのことを覚えている。

昔のことを思い出すことが多くなった。
それと亡くなってしまった人を思い出すことも。

話はガラッと変わるが、昨日、夫の介護認定が下りた。
要介護4である。
要介護2くらいかなとおもっていたので驚いた。

でも、リハビリを頑張れば1年後にはもっと良くなるかもしれない。
8日の日に、先生からの説明があるので、ちょっとドキドキする。

入院生活が長くなると、認知機能が落ちてしまう人もいると聞いたことがありますが、夫は何とか大丈夫そうです。

まだまだ暑い日がもっともっと続きます。
涼しくなるまで、ご飯をしっかり食べて生きていきましょう。

キツい仕事も、汗だくになりながらやってみます。

お互いに元気にしていましょう。





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どうする!エミコ

2023-06-14 01:27:00 | Weblog
音楽教室の仕事以外のパートを始めて、2年5ヶ月経ちましたよ。

この仕事はキツイという事は言いましたね。
この年でもう仕事など無いのだし、習い事が好きな私のために自分の身体で働いて稼ぎたいし、教室だけの仕事では埋められない時間が有り余ると、自律神経失調症とか鬱のようになるのが怖いから、仕事はしていたい。

でもキツい仕事だ。っていうか、私が汗っかきなのが半端ないからかなあ。

仕事始めてすぐに、びっしょりになる。

一緒に働く人は、ほとんどいい人と言っても良い。

私に仕事を教えてくれた人と早番遅番で組む時、なぜか疲れが倍増する。
小柄なぽっちゃりめのその人は、ネズミのようによく動く。その他の私を入れた3人は大柄なので、動くのは遅い方だ。

3人は無駄な動きはないが、導線に動いて効率よく仕事をしている感じ。なので小柄なぽっちゃりの方と組むと、調子が狂うのか疲れるのかなと思っていた。

洗い場の洗い物は大きく分けて3種類。
お盆というか、トレイというかトレー、箸スプーンフォークナイフたち、食器。食器はいろいろな形、お皿、どんぶり、小皿、小鉢、茶飲み茶碗などなど。

手で洗ってから食洗機に流し、洗い上がったものを種分けしてカゴに入れる。湯呑み、トレー、箸などはそのあと乾燥機に入れる。食器は調理の人が持っていく。

この食器を洗うのがすごく大変なんです。

もう1人の方と組むと、その方が食器洗いは1人でやってくれる。やりますよと言ったら「遅番の人は2時から1人で洗うから、私が2時までは洗います」と。

でも仕事を教えてくれた人は、1時に私が入ると「東條さん、食器、お願いします」と言う。
2時までに、2回洗わされた。
その日は2時からとても疲れたのを覚えています。

私は長文のメールを送りました。

2時から1人になり、食器洗いを4回やる事。2時前に2回洗うと大変だった事。
早番の人遅番の人、平等に回数を考えてほしい事。何か取り決めがあるなら教えてほしいなど。

仕事中そのことに触れ少し話しましたが、「食器洗いは交互にやっている」と。

1人で洗っている人は、洗いたいから洗ってもらっています。と。

1時に私が入る前に早番の人は一度食器を洗って、2回目のを私が洗い、3回目をその方が洗い、4回目をまた私が洗う。
早番のその方は2回洗い、私は6回洗うのだなと思う。

不満がいっぱいになってきました。

そんな時、夫が転んで大腿骨を骨折し、救急車で入院したのです。
病院に駆けつけ、医者の話を聞いたり、子供たちと心配したり、夫がいつの間にかとても早く歳をとった気がしてショックだった。
キツいパートなんかやってる場合じゃない。パートする暇があったら、夫の食事のことを完璧にやる方が良い。もっと真正面から向き合ってやる方が良い。などなど、反省したりいろいろありました。

昨日は夜11時から、NHKで立て続けにやっていた番組を観た。
余命…と、松田優作のアナザーストーリー、再放送の失われた時をこえて…である。

このブログ書き始めてから中断してテレビを見ていて、いろいろ心境も変化して悪意に考えないように、良く考えてみることにした。

早番の人は遅番の私が1時に入るまで、やはり掃除やキツい仕事を3時間半やり、やっとお昼になって30分の休憩に昼食を急いで済ませ、1回目の食器洗いを頑張ってするのだ。

早番の人だって疲れているのだ。

1時に遅番の人が来るのを首を長ーくして待っているのだな。そして「食器お願いします」と、言うのだ。

それが悪くはないな。

私はゆとりの笑顔で「はい、了解!」と言って、洗えば良いのだ。
溜まっている食器を一目散に早くなど洗う事はないのだ。
早く頑張って洗おうと夢中になってやるから、汗もかくし疲れてしまうのだ。

そして溜まっている食器をぜーんぶ一つ残らず洗わなくても良いのだよ。
次に洗う分に少しくらい残しても良いのだ。
そういえばみんな、そうしているもの。

私はいつも前ばかり見て、夢中だからいけない。もっと手も抜いていいし、力も抜いた方が良いのだ。

夫の入院、手術のことで仕事を辞める、その人から逃げる…なーんてことの結末にしようとしないこと。

このパートはキツい仕事だって事は、全部引っくるめてキツいのだと知る事だ。

あーあ、仕方ないね。もう仕事って無いんだから。
あるとすれば、交通整理だね。
あれもまた、小僧から始めるのは大変だ。

仕方ないねーーー。

夫の入院中、時間がありますよ。
練習もできますよ。
食材は減りませんよ。
食費がかかりませんよー。

家の中の要らないものを、どーんどーん捨てよう。

鬼のいぬ間の洗濯をしよう。

そうだ、そうしようっと。
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人生のスポットライト

2023-05-27 22:51:00 | Weblog
発表会が無事に終わりました。っていうか私にしては疲れた発表会でした。

1週間前に、出られなくなった講師がいて、その代わりの伴奏を快く引き受けてくれた講師がいて、困ったり助かったり、心がぐちゃぐちゃになって、弱くなったなと自覚しました。

講師演奏でも、ほんの少しだけヒールのある靴を履いたら、右足がずーっと痙攣してるみたいにまたは貧乏ゆすりみたいに震えて止まらない。あがっていなかったのに、結果だんだんあがってきてしまった。

自意識過剰なのかしら。

股関節が痛くないので、ついついあの広いホール内を動き回って、始まってすぐ疲れてしまったりもした。

つまりは、年なのだ。

発表会が終わって次の日からウクレレのレッスンもあり、火、木、土とパートも入っていた。

疲れが取れるのに1週間かかってしまいました。

最近ロバートデニーロの映画を何本か観た。
歳をとっても素敵だ。

そうだ、歳をとることはいいことなんだな。

人生のスポットライトは私の足元には当たっていない。当たっているとするとほんの1割くらいかな。
私の娘の足元はまだ半分以上は当たっていると思うが、そのまた下の代の孫の足元も半分くらい照らしているようだ。

孫は小さいうちだな。
大きくなると思春期だの受験だの、テストだの、部活だのといそがしくなる。
また年頃で異性への関心や自分のことが大変になるから忙しそうだ。

ばあばは遠くになりにけりって感じ。
それが普通だろうと思う。

幸いにも私にはまだ、小さい孫が2人いる。

まだ可愛い。

昨日は我が家の冷蔵庫にあの子たちの絵を貼っておいたのだが、それがないことに気がついた孫が「ばあば、ここにあった絵は?」と聞かれて困った。
でも本当のことを言った。
「捨てたよ…」
ひどいばあばだね。
「じいじとばあばを描いたあの絵は大事だった」と言われた。
また敬老の日が来るからさ。

また新しいのを描いてね…と言ったが、ほんと、悪かったな。

今日パート先の同僚が「今60歳なんですけど、今から70歳になった頃に楽しめることを始めてた方がいいかしら?」と聞いてきた。

60歳はまだまだ若い。

「公民館とかを利用して、近くて通いやすいところがいいと思いますよ」と答えた。

発表会が終わった途端に空の巣症候群みたいに、急に元気がなくなっていたが、今日はマシになった。

なんとか元気が戻ってきました。

次は、コンサートでもやろうかな。
ゆったりコンサート!

よしっ、今度仲間に言ってみよう。

始めるのは、私からだからな。

「言い出しっぺ」復活するぞ。
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24歳のころ

2023-04-22 22:55:00 | Weblog
私が24歳のころ、夫の実家に入りました。
コバちゃんは56歳でした。

何もできない私にコバちゃんは、婦人の友社出版の料理の本を3冊くれました。
これを読んで学びなさいと言いました。
私はそれを読んで料理の基礎を学びましたが、コバちゃんが教えてくれることもありました。

ある日甥っ子たちが遊びに来た時のお昼を作ろうとしました。
焼きそばがあったので、野菜や肉を炒めて焼きそばを入れてさらに炒めていたら、コバちゃんが代わって炒め始めました。

私は菜箸で炒めていましたが、コバちゃんはステンレスのフライ返しを使って、ガチャガチャとやっていましたが、そのうちに焼きそばがフライパンに焦げ付いてしまうので、そのステンレスのフライ返しでそばを切りながら炒め始めました。

出来てみたら、それは焼きそばにはほど遠い、焼きそばのチャーハンみたいでした。
私は、せっかくの焼きそばなのにとても残念でした。

この時ちょっと、コバちゃんは料理が上手くないのかもと思いました。

コバちゃんはいろいろと教えてくれることがあり、それは私は嫌ではなかったのですが、教えてくれる時、コバちゃんの口が臭うのが辛かった。
それは歯の臭いか歯茎の臭いかはわからなかったが、コバちゃんも口によく手を当てることがあったので、自分でもわかったようでした。

ある日からコバちゃんは歯医者に通い始めました。
そして、今日は二本抜いてきた。と言うことがあるかと思うと、数日経ってまた、今日は三本抜いてきたと言うのでした。
そして、今のコロナでもないのにマスクをして過ごしていました。

とうとうコバちゃんは歯を全部抜いてしまったのでした。
あんな丈夫そうな大きな前の出っ歯も、無くしてしまいました。

あれは整形手術だったと思います。

コバちゃんは自分の顔が嫌いだと言ってました。顔よりも歯が嫌だったのかもしれません。
コバちゃんのアルバムの写真に、ボールペンでグリグリっと落書きがたくさんあるのをみたことがあります。

いつか大人になったら嫌いな歯を抜こうと思っていたと言ったこともありました。

そしてコバちゃんは総入れ歯にしたのでした。まだ56歳でした。

コバちゃんは小さくて大きな劣等感から、解放されたかった。

そしてコバちゃんの顔は、別人になった。

と同時に、今まで膨らんでいた前歯が小さくなったので、唇の周りがホタテのようにしわしわになった。

でもコバちゃんはとてもご機嫌でした。
なりたかった自分になったから。

コバちゃんは小さい時から、可愛いと言われたことがなかったと言っていた。
大きなお家のお嬢様だったのだから、お金を出せば歯の矯正もあったと思うのに。

子供の歯の矯正をするのは、意味があると思う。一生の問題だとも思う。

今日はなぜか、コバちゃんのことを思い出した日でした。
怪物みたいな強い女性でした。
とてもとても、私は敵わない人でした。

発表会が終わったら、お墓参りに行こうかな。



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春に向かって

2023-03-12 03:35:00 | Weblog
パートの仕事ですが、暮れから色々またありましたよ。暮れに新しい人が入ると聞いていたのが、来ないことになったかと思うと今度またその同じ人が3月から入ることになった。

一度私の株が上がったが、また私は補欠になった。
こんな仕事、キツいしやめてやるーと言いたいところだが、年老いた私に新しい仕事などないのでこの先どうなるか、様子を見ることに。

今日、新しい方と一緒に仕事をしてきました。57歳と聞いていた。
いろいろメモを取ったりしていました。
2年前の私と同じ。でもお若いからすぐに仕事を覚えられるでしょう。

2年前、私は仕事を始める時すでに月に6日しか仕事出せませんと言われた。それが嫌ならほかをあたってと。
それというのは、コロナ禍で売り上げが伸びず人件費削減の意味だった。それまでは午前2人午後2人で仕事をしていたが、それを1人ずつすることになったからだった。

それで一年やってみた。

一年前ここを引き受ける会社が変わってからは、数人辞めたため回すために私も10日ほど仕事することになった。そのうち12日から13日くらいに増えていた。

8月に股関節の置換手術を受けて、2ヶ月ほど休みをもらって復帰してからはまた10日ほどに減りました。

1月にで75歳になった方が1人、3月いっぱいで辞めることになっています。
4月からは私の勤務も増えるかと思いきや、新しい人が入ることに。
その方は週三の勤務とのこと。

いやいや違うだろう、2年間頑張った私を増やしてーーっと言いたいが、世の中高齢者にはそう甘く無い。

きっとそのうち良いことが…と望みを持ってしがみつく私だが、かと言って月の半分も仕事が入ったらこれはこれで大変だと思う。ほどほどでいいと思うが、毎月もらうシフト表がとても楽しみな一面もある。

欲張りのくせに、ゆっくりする日も欲しいのね。

もうこの年である仕事といえばね、駅のトイレ掃除とか交通整理くらいだから、せっかく慣れた仕事を続けたいと思っています。

音楽教室もちっちゃーくなってしまったし、余生が知れているのだから膨らむことはないのだ。しぼむ一方の高齢者なの。

ここの仕事の中に、月一回の機械の掃除がある。今まで75歳の人ともう1人でやっていたが、4月からは75歳の人の代わりに私がやることになりました。

ここの良いところは、いい方々ばかりなところ。これはすごいことだと思う。だから居心地がとても良いのが助かっている。


先日講師会議があった。
発表会に向けての準備が始まっています。

プログラムも出来上がってきたようです。
生徒たちも頑張っています。
講師も、講師演奏に何を弾くか決まりました。

パートの仕事をしながら、発表会も無事に迎えたい。

時間をうまく使って、練習やアレンジもします。

暖かくなりましたねー。
希望が湧いてきます。

2足、いや3足のわらじ、頑張ります!

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今のままでいいのだ

2023-02-12 10:48:00 | Weblog
足が痛いことが無くなったとは言え、どこも痛くないわけではない。ちょっとしたことで足首が痛くなったり、膝が痛くなったりはある。

股関節が治ったのだから、もうどこも痛いはずがないと思ってるのも変な話だ。
変な座り方をすれば、それなりにどこかに歪みはいく。でもずーっとその痛みは続かない。いつの間にか痛く無くなるし、また別のところが痛くなることもある。

つまり痛いということは、生きている証拠なだけだ。そして、痛みに関して敏感になりすぎているだけだ。
そう考えると、どうということはない。

出かけたら結構歩けるし、翌日は仕事もできる。ジムにも通える。明日、急に死んでしまうわけもない。

病気や手術、痛い経験が長かったから、まだこの先に何かがあるのではないかと思ってしまうだけなのね。

まあ、気にしないで生きてなさいよ。と、もう一人の私が言っている。

股関節の半年検診に行ってきたが、症状に関するアンケートがたくさんあって、どんな時にどのくらい痛むかとか足の爪は切れるかとか、寝ている時の痛みはあるか、その痛みの大きさはどのくらいかなどなど。

先生の診察の時、順調でもっとさらに良くなるからどんどん歩きなさいと言われた。

そうか普通にしてて良いんだな、怖がることはないし、もっと馴染んでくるのだな。と再確認した。
1月と2月はいろいろな部位の健診があって、それぞれ無事に終わったところです。

さあ、明るい気分で新車に乗ってみましたよ。図書館の地下の駐車場に入った途端、車のライトが自動でついたり、私の年代にはとても親切な可愛い顔をした車なのよ。

夫は、いつ私が車に乗るかを伺っていた。
「ジムに行かないの?」と何度も聞いてきた。
私は家にいる時はピアノやエレクトーンも弾くので、色々都合もあるし初めは1人でゆったり運転したかったので、「まだ行かないよ」と答えた。

夫は何かをこぼしたりこぼしたものを踏んづけたりして台所の床を汚したり、トイレは使うが掃除などしたことがない。汚したあと、汚れていたよと言ってもどこ吹く風だ。あまりにひどい時は拭いてもらったが、かわいそうな感じだった。

糖尿のせいかと思うが、多分手先や足先に力が入らないのかもしれない。
とても悪い言葉でそれを知らしめようとしたこともあったが、すごくそのあと気の毒に思う。しかしまたすぐあと夫は毒舌で返してくるので、やはり可愛くないなとは思う。

もうその繰り返しだが、夫はいてくれるだけで良いのだと思うことにする。
ひとり暮らしの友人がいるが、多分私は難しいと思うから。

あの家にひとりは、キツい。

10歳で母親と差別し、25歳で1番仲の良かった妹と死別したトラウマがある。

私がコバちゃんだったなら、自分がいなくなったあとの息子や娘の行く末を見ることができないので、それぞれが幸せでいてくれなくては困る。良い伴侶に恵まれてて欲しいと願うだろう。伴侶と変わらず仲良くしてて欲しいと願うはずだ。

だから私は、自分のことを棚に上げて夫を批判しないことにしたの。
長女の私は何かと上からものを言う。妹や弟に対してもそうだったような気がするし、ピアノやエレクトーンを教えていたから、先生という立場からも尚更だ。

さも自分が正しいかのような。

気をつけるようにするの。

今日も車に乗って、D2にお花を見に行ってきます。

お天気もいいしね。

ではまたね。


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どこに行こうかな

2023-02-09 02:38:00 | Weblog
股関節置換手術をしてから、半年が経ちました。
術後すぐの頃は、筋肉痛に悩みましたが、リハビリしてくれる担当者が、筋肉剥がしをしてくれませんでしたので、マッサージを受けたり鍼を受けたりとあちこちに出かけたものでした。

その後リハビリの担当者が変わってから、いい感じにやってもらっていましたが、20分しっかりやってくれないことがあり、少しばかり不満を感じるようになりました。

仕事であっても、人がやることだ。
1時間に3人を、何時間もやるのは骨が折れることかもしれない。
機械なら動かし続けられるだろうが。

リハビリの担当者が「今日は学生に見学させますがいいですか?」とおっしゃいました。
私はちょっと頷いただけにした。
本当は嫌だからね。

学生に色々説明したりするし、私のことを見せ物のようにするので、またか…と不満だったから。
私はその20分間、機嫌良くはしていなかった。
このところ決まった時間に呼ばれず、20分きちんとやってくれないことが続いたからだ。

不機嫌とまではいかないが、あまり気乗りしてない様子の私に、機嫌を取るような格好で20分きちんとやってくれた。

こういうの嫌だよな。と思った。

私が50歳くらいの頃のことだが、生徒はかなり多かったのですよ。
次から次と30分ごとに生徒がやってくる。夜の7時も過ぎると、まだ来るのか…とうんざりすることもあった。
そのくせ誰かの紹介で新しい生徒が増えると、それはそれで嬉しかったりしてね。
勝手なものですね。

特に金曜日の生徒は、ストレスの溜まる子が多かったのです。
もう、吐き気がするくらいのストレスだった。

ヤンチャな生徒が大変だったの。

多分私もその頃、更年期にもなっていたのか、とても辛い日もありました。
その金曜日のレッスンは月に一度くらいの頻度で、ある先生に代講を頼んだりしていた。
生徒の少ない先生なので、ラッキーなようだし私も心身ともに楽になれたから。

しかしそのうちに、生徒からクレームが来た。急の代講は良くなかったのだ。

頑張っていい講師でいることは、大変なことだったな。でも責任もあるから、踏ん張ってやっていたのを覚えています。

そんな頃の自分と、リハビリ療法士を照らし合わせたりして…。

好きで選んだ仕事でも、時にはマンネリ化もするだろうな。
しかし私は今のままでは困るので、一度このクリニックを辞めようと思う。

鍼の先生もいいのだが、鍼してもらう時あちこち肌を晒すのが嫌だし、その先生のマッサージはとてもいいので、マッサージだけにしてもらおうかな。などなど、色々と考えてみることにします。

あー、あともう少しで暖かくなりますね。

我が家は昔の家なので、今は寒いのですが春から先はとても過ごしやすいです。

歳とって家賃のいらない家があるなんて、本当に幸せだと思います。

親からの譲りだね。

色々あったけど、あれはあれで仕方なかったね。それに私の人間形成には必要だったのかね。

コバちゃんは、今日は子守りしてくれる日というその日になって、ぷいっと、やーだよ!と言って出かけてしまうことが何度かありました。
ほんとに困って、息子をねんねこでおぶってレッスンしたりして。

コバちゃんは同居だったから、それなりに大変だったのかもね。
でもさー、こっちだって、そりゃあもう、てーへんだったんだぞ。

でも私はまあなんとか、理想と言える老後だな。

今まで、どうでもいい、可愛くない車に乗っていたのですが、超かわゆい車が🚗我が家にやって来た。
私が買ったのではないけど、なぜだかやって来た。

うんと可愛がろうっと。

じいじは、助手席には乗せるけど、運転席には乗せないのだよ。

じいじは何も言わないのですよ。
「まだ車に乗らないの?」とか
「俺にも乗らしてよ」とか、何も言わないで、隣に乗せてくれるのかな?と待っている感じです。

車が来てから忙しかったので、土曜日まで私も乗れないのです。

早く土曜日が来ないかなー!

❤️足は、とても快適です。
⭐️7日に、甲状腺の病院に行って来ました。それで1万歩以上歩きました。
⭐️8日に、パートの仕事で歩き回って来ました。
⭐️9日は、今日ですが、股関節の病院に半年検診に行って来ます。
⭐️10日は恩師の家に、出かけて来ます。

そのほかは、歳相応で頑張っています。

では、これから少し寝ます。

おやすみなさい。


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合唱合奏団陽気妃

2023-01-02 03:53:00 | Weblog
あけましておめでとうございます。

もう30年ほど続いている陽気妃だが、メンバーの高齢化や退団した人が出て、少ない人数になって来た。

退団した人の多くは、私のせいと、それぞれの都合のようだ。

小さな問題も、私さえ我慢すれば良かったのだろう。だからおおかたは、身から出た鯖のようなものだ。

しかし無理に我慢して、身体を悪くしても仕方ないのだから、なるようになったことだと思う。

少なくなったメンバーで来年からまたボランティアやコンサートをやることにした。

その日に来れる人だけで続けていければ良い。最悪、3人でやったこともあった。

コロナ禍ではあるが、前に進んでいこうと思う。

音楽教室の仕事、パート、練習、ウクレレレッスン、ジャズピアノと、やる科目が増えて来ているから忙しい。

忙しいならパートを辞めたら良さそうだが、その決心はまだつかない。

そのパートだが、1月から59歳の新しい人が入ったらしい。

新しい人が入る前には、75歳の人が3月で辞めるから東條さんの働く日数が増えるのでよろしくと言われていた。
補欠の私が、少しポイントが上がったかと思ったが、新しい人が入ることになればまた話は違う。

しかしだ、年末にその人から断って来た。
入らないということ。
するとまた、私のポイントが上がった。

重要人物、必要な人材ではない70歳過ぎの私は職場の都合で、いらなくなったり重宝がられたりの繰り返しである。

キツい仕事なのに食らい付いているのは、私の磋硪。
負けずっ根性の70過ぎの意地っ張りの、O型の、ええかっこしいの欲張りな証拠だ。
それと、職場にとって、必要な人材として認めてもらいたいの。
さらにさらに、どうだー、私がいて助かったかー!と、水戸黄門のように印籠を見せつけたいのかもしれない。

普通なら家で大人しく老後生活をそれなりに送ればいいのにと思うが、身体がまだまだ動くと思っていて、さらに習い事の月謝と、孫に使うお小遣いも必要だから。

だが実の所キツい仕事だと言い続けてるということは、本当に身体にこたえるほどキツいのだと思う。

暮れの30日の仕事帰りに、翌日の年越し蕎麦のために天ぷらを買った。
そこでは若い子たちに混じって、80もとっくに越したかと思われる女性が働いていた。そこのパートではなく、パートを使っている女将さんのようだった。

その人がいることで、優しく家庭的な、温かみのある売り場だった。
「素敵だな、カッコいい」と思った。

私も純粋に仕事と向き合って、背中をピンと伸ばして続けて行こうと思いました。
仕事をする姿はほんとに美しい。

今年の目標はこれです!
つべこべ言わず、ゆっくり静かに、しかし積極的に頑張ること。

本年も宜しくお願いいたします。





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歳がネック

2022-11-29 19:35:00 | Weblog
1年10ヶ月前、今のパートの面接にこぎつけた。
面接に行くまでの、電話で「70歳なんですね、キツい仕事なんですよ」と言われて、これをまた辞退したら後がないと思い「70歳と言われましても、なったばかりですし」と反論したら、少しお待ちくださいになって、翌日面接になったのだ。

見た目は年より若いつもりなので、会ってもらうのが大事だった。

しかし採用になって仕事を習っている間の1ヶ月で働き方が変わり、午前と午後で2人ずつ仕事していたのが1人ずつになった。

採用になって仕事を教わってひと月で、私はやいなくてもいい人になってしまった。

「東條さん、仕事を覚えてもらったけど月に6日くらいしかあげられません。それが嫌だったら、もっと他を探すか、辞めるかご自分で判断してください」と言われてしまった。

なにくそ精神の私は、やることにした。
ずーっと月に6日だけ仕事させてもらっている感じ。それが1年続く。

一年経ってから別会社になった時、4、5人辞めた人がいたので、仕事する日数が少し増えて10日ほどになった。

以前の会社の定年は70歳。
別会社になったら定年は70歳とのこと。しかし今までいた私ともう1人は、すでに70を超えていたので、75歳が定年とのこと。

来年の1月で75歳になる人は、3月に退職することになっています。

先日こう言われました。
「東條さん、3月に〇〇さんが退職したら勤務が少し増えますが大丈夫ですか?」と。

ご都合主義だなー。

しかも歳をとるほど忙しくなる。

ここで募集をかけたところ2人ほど面接に来た。そのうちの1人が来年の1月末から入ってくるらしい。

「東條さんも、後何年かはできるけどわからないからね」とのこと。

結局私は、いなくてもいい人のようだ。

問題は、私自身が仕事をしたいかしたくないかなだけ。

それで良いのではない?

単純なことだ。

自分が何様のつもりでいるのかな?

世の中忙しいのだ。
私のプライドやポリシーなどに構ってはくれないのだ。
…と考えればどうってことないの。

やりたいかやりたくないか…なだけが大事なことなんです。

今日は音楽仲間との練習日だった。

7人の仲間のうち1人は静岡在住で、他の2人は電車で来るのだがお休みだった。
最近一番高齢の人は休みがちだ。

なので今日は4人での練習でした。

来月介護施設でクリスマスコンサートをやることになっているが、最悪この4人でやることになるかもなー。生徒の1人が入ってくれても5人である。

大丈夫、やるしかない。

4人での練習も楽しくやれて、ホッと胸を撫で下ろした。

オカリナもたまに吹いたのではダメだと強く反省する。

夕方長女にあった時、来月のクリスマスコンサートに入ってくれると言った。
えーっ、考えてもなかったよー!

いいねいいね、平均年齢も下がるしね。
オカリナの譜面と歌の楽譜を写メして帰って行った。

ま、パートの仕事はキツいし、ま、いろいろ悔しいこともあるけど、ま、こういう楽しいことを長年やって来たのだから、ま、我慢もできることでしょう。

がまんがまん…。



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