1945年敗戦、今年で76年
吉田松陰のアジア侵略プラン
日本は明治以降、アジアを侵略し、戦争で多くの人びとを苦しめました。吉田松陰は「幽囚録」に「蝦夷を開墾して、諸侯を封建し、間に乘じてカムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球を諭し朝覲會同(謁見)し比して内諸侯とし、朝鮮を責め、質を納め貢を奉る、古(いにし)えの盛時の如くし、北は滿州の地を割り、南は台灣・ルソン諸島を牧し(おさめ)、漸に進取の勢を示すべし」と明治維新後の日本の東アジア侵略の道筋を示していました。
佐倉高校の「東郷池」
30年前に勤務していた佐倉高校の旧校舎前庭には日露戦争日本海戦でロシアのバルチック艦隊を日本の連合艦隊が破ったことを記念して、校長が生徒に掘らせた池がありました。授業ではその池が何をかたどっているか考えさせました。朝鮮半島と中国の山東半島を模した池のそばには東郷平八郎が書した記念碑が建っていました。生徒に池を掘らせた当時の校長が、池の写真を撮影して東郷に送り、一筆書いてもらったものを石に刻ませたものでした。
佐倉の街角記憶: 佐倉高校の東郷池 (maxumarochazuke.blogspot.com)
千葉県立佐倉高校記念館の前にある池は東郷池といいます。東郷とは日露戦争で連合艦隊司令長官だった東郷平八郎氏のことです。この池は日本海海戦でバルチック艦隊に勝利したことを記念して、明治43(1910)年に、当時の先生と生徒が協力して造ったもので、池の形は日本海を模しているそうです
日本側の戦史にも記録された南京での住民虐殺
1931年12月の満州事変に始まる「事変」と呼ばれた中国侵略戦争は、1937年7月中国北京郊外盧溝橋で軍事訓練中の日本軍の兵隊が行方不明となり、日本軍は中国軍の仕業として日中全面戦争が始まりました。実際は腹痛で離脱した兵隊が迷子になったのでした。
しかし、日本軍はこれを口実に、中国各地で民間人も含め多くの人々に犠牲を強いていきました。特に当時の中国(中華民国)首都であった南京(ナンジン)を攻撃し、混乱する中で日本軍による住民虐殺が起りました。日本軍(偕行社)の「証言による南京戦史」でも日本軍が1万3千人を虐殺したとあります。中国側の主張する40万人の犠牲者数とは大きく異なりますが、日本軍の記録にも虐殺があったことが確かに記録されているのです。敗戦後の極東軍事裁判でも住民虐殺は戦争犯罪とされました。
八三年十一月、旧陸軍将校の親ぼく団体「偕行社(かいこうしゃ)」の機関紙「偕行」に「いわゆる『南京事件』に関する情報提供のお願い」という記事が載りました。
「偕行」は翌年四月号から約一年、連載「証言による南京戦史」を掲載。しかし編集部の意に反して、元将兵からは虐殺を告白する手記が多く寄せられました。
最終回の八五年三月号で、編集部の加登川幸太郎氏は「弁解の言葉はない」と日本軍の責任を認めました。犠牲者数は「三千ないし六千」「一万三千」と少ない見積もりを示しています。それでも「三千人とは途方もなく大きな数である」とし、こう述べたのです。
「旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫(わ)びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」
右派勢力による「新しい歴史教科書をつくる」運動
しかし、1990年代になると日本の右派勢力が歴史修正主義の「自虐史観」キャンペーンを始め、日本の侵略戦争を肯定するような「新しい歴史教科書をつくる」運動を始めました。この運動の成果で、現在一部の中学校で扶桑社(フジサンケイグループの出版社)の歴史教科書が使われています。全国で8校、千葉県内では県立中学校の2校のみで使用されています。また、2019年の教科書検定で400箇所以上の検定意見がついて不合格となった自由社の中学歴史教科書が今年、再検定で合格とされ、来年4月から使用する中学校があるかもしれません。
自由社の「新しい歴史教科書」を優遇する文科省の「異例」の通知が混乱まねく
通常、義務教育学校で採択された教科書は4年間使用され、昨年、新しい教科書が決定されこの4月から使用されています。しかし、昨年度まで不合格だった自由社版歴史教科書が本年度の検定で合格とされ、来年度からの使用も可とするという、異例の文科省の通知が出されました。この通知を受け、全国の教育委員会は混乱しています。
日中戦争泥沼化。マレー半島、真珠湾攻撃からわずか半年で戦況悪化、そして敗戦
本格化した日中戦争は泥沼化して日本軍は一部の都市を占領したものの広大な中国全体を支配するには到りませんでした。
その後、東南アジアにも戦線を拡大し、さらに1941年12月8日には日本軍はマレー半島と米国ハワイの真珠湾を奇襲攻撃してアジア・太平洋戦争へと突入しました。当時の米国は、世界一の工業力を持っていたものの、軍事力による世界覇権は目指さず、その軍事力は現在のような大きなものではありませんでした。19世紀の米国は中南米諸国の独立に不介入という、ヨーロッパの外交政策に干渉しない「モンロー主義」の立場にたちました。その米国の孤立政策を転換させたのが真珠湾攻撃でした。日本海軍は真珠湾で米国の太平洋艦隊を壊滅させれば、復活までその後数年を要すると考えていましたが、巨大な工業力を持つ米国はわずか3カ月で修理などを終え艦隊を復活させました。その後、日本軍が優位だったのは1942年6月のミッドウェー海戦までで、この海戦で日本は主力空母と艦載機のすべてを失い敗戦への契機となりました。巨大軍艦の時代は終わり、空母と航空機による機動部隊への時代に転換し、さらに現代はミサイル艦による海軍形態へと変容しています。当時すでに武蔵・大和のような巨大軍艦は陳腐なものになっていたのに、建造に力を入れた日本軍は戦略的に失敗していたということでしょう。
その後、1945年4月以降の沖縄地上戦敗北、8月6日の広島、8月9日の長崎への原爆投下により1945年8月15日に大日本帝国は敗戦しました。
アジア民衆にも、日本国民にも謝罪や十分な補償を行っていない日本政府
チョッと歴史の話になりました。しかし、日本が行ったアジア侵略や戦争の結末はまだ決着がついていません。慰安婦や徴用工問題などは解決せず、日本の責任がいまだに問われ続けています。そもそも、国内で戦争被害を受けた日本国民に日本政府は謝罪せず、被害や犠牲に対する十分な補償も行っていません。こういう未解決な問題が残っていることは、現代の問題として地理で扱うことが大切です。
地図帳で、昔は「北京」、今は「ペキン(北京)」
文科省検定高校教科書の地図帳がお手許にあれば中国首都「北京」を見てください。6年ほど前までは「北京」とだけ記されていましたが、現在は「ペキン(北京)」と記されています。
ちなみに、中国の首都の「北京」は、現在の中国語(普通話)では「ベイジン」が近い読みとなりますが、中国南方の発音で江戸時代から用いられている「ペキン」という読みが日本では定着しています。外務省でも「ペキン」を用いていますので、地図帳・教科書では「ペキン(北京)」と表記しています。(地図帳の出版社「帝国書院」の説明)
ボクは20年ほど前から地図帳(二宮書店や帝国書院)の編集者に「『北京』の正しい読みを地図帳に記すべき」と訴えていました。
外務省の各国基礎データには、「北京」という漢字表記は示されていますが、読みについては記されていません。8年ほど前に地図帳編集者(二宮書店)に「『北京』に『(ベイジン)』と読みを示すことは検定上問題なのか」と聞くと「検定ではなく教科書会社の申し合わせなので提案してみる」ということでした。経緯は詳しく確認していませんが、現在使われている教科書「地図帳」には「ペキン(北京)」と表記されています。
都教委は「イスラエルの首都はエルサレム」と説明。しかし外務省は「(イスラエルの首都がエルサレム、というのは)国際社会の大多数には認められていない」と明記
各国の首都については外務省の見解に合わせるのが基本です。都教委のオリンピック・パラリンピック教育でイスラエルの首都がエルサレムと記述されていたことが問題になりました。
外務省はイスラエルの首都をエルサレムと記していますが、「日本を含め国際社会の大多数には認められていない」と注記しています。
(簡単な説明)
イスラエル政府は1980年にエルサレムを恒久首都と定める「基本法」(憲法に匹敵)を制定しました。しかしこれは1967年の第三次中東戦争で東エルサレムを占領し、さらに併合したうえで首都としたものであり、占領地の併合は明確な国際法違反です。
1947年の国連総会決議は、エルサレムを「国際管理地区」に指定しました。その後1967年の第三次中東戦争に際し、国連は、停戦後、イスラエルに占領地からの撤退を要求する安保理決議242号を採択し、それを今日もなお維持しており、それに基づいて日本政府もエルサレムを首都と認めておりません。
⇒各方面から抗議の声があがったため、その後「東京都オリンピック・パラリンピック教育」も「日本を含め国際社会の大多数には認められていない」という注を付けくわえました。(近)
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