フィールドワーク
地理の醍醐味の一つは「フィールドワーク」にあります。地理業界用語では「巡検」と言います。ボクの属している地理教育研究会では「現地見学」と呼んでいます。
聞き取り(インタビュ)
フィールドワークを行うときには、調査を行う地域と、目的を決めて、見学先や聞き取り(インタビュ)の内容や相手を検討します。学生の頃には、アポなしで、飛び込みのインタビュもやらされました。事前の準備が不十分だと調査内容のレベルも下がります。それでも、現地の人からいろいろと話を聞くことで新たな疑問が湧いて、地域の理解が深まっていくことが、良い勉強になりました。
「普通」のことを知ることは、意外と難しい
また、地域の姿を直接目にすることによって知ることがあります。最近は直接地域に行かなくてもオンラインでかなりのことが可能ですが、現地の空気に直接接することは地域理解の重要なポイントです。直(じか)に足を運ばなくては分からないことや感じられないことが多くあるからです。例えば、沖縄の基地問題などは、沖縄で米軍が日常的に生活圏に存在することを肌で感じることで、沖縄の人たちへの共感的な理解が深まります。
新聞記者などが現地で取材するのと似ていますが、地理では「事件」などではなく「普通」のことに目を向けます。この「普通のこと」を知ることは、意外と難しいことです。例えば、隣家のお正月のお雑煮がどういうものか知っていますか。
当たり前のことを他所の人に改めて「普通のこと」として示すのは易しくありません。よくインタビュをすると「何もありませんよ…」と言われることがありますが、「何もない」などということはあり得ません。地元の人たちの日常に新たな価値付けを行うことが、インタビュでは重要になります。そこに発見と、理解の深まりがあるのもフィールドワークの楽しみです。
「趣味外泊」で、知らない街でも「いい店を見つける」”勘”が働く。これぞフィールドワーク?
ボクは「趣味外泊」と言って、全国の800都市以上にお泊りして、夜の街を徘徊して安い居酒屋を放浪してきました。多くの街を徘徊して蓄積した情報は、体系だっていなくても、知らない街で“勘”が働きます。これは、高度な情報処理が自動的に行われているのだと勝手に思っています。12年ほど前に香川大学で地理学会があったときに、知り合いの地理教員が「近さんと行くといい店にいける」とついてきたことがあります。高松の街は初めてでしたが、地元の人が行くお店に入れて責任を果すことができました。
最初のフィールドワークは埼玉県の三富新田
ボクが学生の頃のフィールドワークでは、徒歩で地域を歩き回ることが基本でした。学部の頃の自主ゼミで毎週のように東京近郊を歩き回ったのは懐かしい思い出です。学生になって最初のフィールドワークは埼玉県の三富新田(さんとめしんでん)でした。
朝霞台から川越まで約20㌔を歩くのは、足にマメができて大変でした。毎週のように20~30㌔も歩いていると体力もついて、マメさえできなければ、40㌔は平気になりました。
車いすで暮らすようになっても国内を行脚
車いすで暮らすようになっても、あちこちを徘徊したり、国内を行脚(あんぎゃ)しています。ボクは千葉市中央区に住んでいるのですが、千葉の都心は平坦で車いす利用者も多く見かけます。
毎月第4土曜日に津田沼パルコのスターバックスで、千葉アムネスティ茶話会と称して数人で、はがき書きをしています。しかし、津田沼駅周辺で車いす利用者を見かけることは今までありません。若い人が多いせいか、車移動で駅には近づかないのかもしれません。
最初の海外はロシア・サハリンでした
千葉県地理部会、千葉地理学会、全国地理教育研究会などで海外フィールドワークを企画・営業・添乗していました。ボクの最初の海外は、ソ連崩壊直後のロシア・サハリンでした。旅行業者にサハリンのスタディツアーを依頼すると、「サハリンには何もありません」と困った顔をしていました。ボクは「何もないなんて、そんなところがあったら地理教員はぜひ行きたいと思う」と慰めました。業者としては観光地などの見所をつないでコースを考えるのでしょうが、そういう観光スポットがほとんどないことに困惑したということです。
ここで、サハリン雑学⇒どうでもいい情報も含まれています(笑)
➀大横綱「大鵬」はサハリンで生まれた
昔の大横綱「大鵬(たいほう)」のお父さんは元々ウクライナ人のコサック将校でしたが、ロシア革命の時に日本に亡命し、昔は日本の領土だったサハリンに住んでいました。そこで大鵬も生まれたのです。
昔の少年は、「巨人(野球)・大鵬(すもう)・卵焼き」が大好き、と言われていました(この言葉は当時経済官僚で、後に作家や政治家になった堺屋太一氏が記者会見で言った文句だそうです)
➁「サハリンの灯は消えず」という曲(ザ・ジェノバというグループサウンズ=ロック・グループの曲)も流行りました(1968年)
歌詞の中に「フレップは初恋の味」というのがありますが、「フレップ」というのは、サハリンのアイヌ語で「赤いコケモモの実」を指すそうです。
作詞した「北原じゅん」さんは、1929年、当時日本領だったサハリンに生まれ、弟は「骨まで愛して」の歌手、城卓矢(じょうたくや)さん、叔父さんは「月光仮面」の原作者、川内康範さん。川内さんは「骨まで愛して」や「伊勢佐木町ブルース」などの作詞家でもあります。
➂「サハリン」は満州語、「樺太(からふと)」はアイヌ語
ロシア語のサハリン州(Сахалинская область:サハリンスカヤ・オブラスチ)は、満州語の※ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ ᡠᠯᠠ ᠠᠩᡤᠠ ᡥᠠᡩᠠ sahaliyan ula angga hada「黒い川(黒龍江)の河口の岩山」から来ています。
日本語では「樺太(からふと)」と呼ばれましたが、これはアイヌ語の「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ (神が河口に造った島)」に由来します。
※満洲文字、ここでは横書きで表示しましたが、本当は縦書きです。
サハリン、ベトナム、ウイグル、モンゴル、インド、台湾、韓国、パプアニューギニア、上海のスタディツアーを企画
ボクが企画したスタディツアーはサハリンに始まり、ベトナム、中国・新疆(シンチャン)ウイグル自治区、モンゴル、インド、台湾、韓国・釜山(ブサン)、パプアニューギニア、上海などで、ほとんどが発展途上地域でした。
パリ旅行ではエッフェル塔にのぼる。東京と違い、パリに高層ビルはほとんどない
先進国は、家族旅行で行ったパリ10日間だけです。パリもエア&ホテルでパリの街をほとんど徒歩で移動していました。パリに行った方も多いと思いますが、エッフェル塔の上まで登った方は多くないと思います。ガイドブックにも「エッフェル塔は見るもので、上まで登るのはお勧めしない」とありました。現地でも、「日本人は登らない」と聞きましたが、ほぼ1日かけて一番上まで上ってきました。8月初めで旅行者も多く、行列が続いていましたが、確かに日本人は居ませんでした。アジア系は韓国人が多く、ほかはEUの「おのぼり」さんという感じでした。なぜ日本人がいないのかは、エレベータの乗り継ぎで片道4時間ほどかかり、往復で8時間近くかかるので、弾丸ツアーの日本人観光客には向かないということです。
それでも、エッフェル塔の上から眺めるパリは格別です。パリの街の価値を直接感じることができました。
パリは100年以上前にグスマンが計画したまま現在もその佇(たたず)まいを変えていません。パリの都心部は新しいビルの建設は制限され、高層ビルはほとんどありません。東京のように都心の空間をお金に変えることなく、景観を維持していることがパリの価値を維持していることが実感できました。
フィールドワークの醍醐味は、こういう納得やホリスティック(全体としてまとめあげること)な理解を得られるところにあると言えます。
エッフェル塔すごい!東京やニューヨークの方位板も正確
エッフェル塔についてもう一言。エッフェル塔の頂上に向かうと、エレベータが小さくなり、鉄骨も細く少なくなっていきます。そして、パリの街並みを見降ろすことで印象派に描かれたパリの空が写実的だったことが分かります。もう一つ余計なことを書くと、東京やニューヨークという方位板が掲げてあるのですが、これが正しいことに驚きました。日本の横浜の港の見える丘公園や犬吠崎などにある方位版は「メルカトル図法による方位」という大間違いが堂々と示されていました(今は撤去されているようです…)。メルカトル図では、方位は分からないのですからとんでもない方位板を横浜市教育委員会などが設置していたのです。それが、エッフェル塔の方位板は正しい方位が示されていたのです。その時「世界に植民地を広げた国は違う」と妙な感想を持ちました。20年前より、新しい建物も少し増えたようですが、パリは120年以上前の姿をとどめています。この20年で東京の空は狭くなり、高層ビルが林立して経済空間が占領しています。この文化の差は大きいですね。(近)
(編集部より)
投稿の中の「ホリスティック」の意味については、 Narashino Geography⑦ 地誌 - 住みたい習志野 をご参照ください。
コメントをお寄せください。
<パソコンの場合>
このブログの右下「コメント」をクリック⇒「コメントを投稿する」をクリック⇒名前(ニックネームでも可)、タイトル、コメントを入力し、下に表示された4桁の数字を下の枠に入力⇒「コメントを投稿する」をクリック
<スマホの場合>
このブログの下の方「コメントする」を押す⇒名前(ニックネームでも可)、コメントを入力⇒「私はロボットではありません」の左の四角を押す⇒表示された項目に該当する画像を選択し、右下の「確認」を押す⇒「投稿する」を押す