前回、自然地理学についてお話ししましたが、
Narashino Geography④ 自然地理学 - 住みたい習志野 (goo.ne.jp)
今回はそのおまけ、習志野の地理と昔の想い出についてお話しします。
古代から住みやすい土地、習志野
台地のへりに位置する習志野は、古代から住みやすい土地でした。
(習志野市の地盤)
https://www.jiban.co.jp/tips/kihon/ground/municipality/chiba/narasino/P12_narasino.htm
それは、今でも言えることで、大河川がないので、大水害も発生しにくく、高度経済成長期には東京のベッドタウンとして宅地化が進みました。
工業地帯にはならなかった習志野の埋め立て地
海岸部も遠浅で埋め立てに適していたため、やはり高度経済成長期に埋め立てられて住宅地として開発が行われました。千葉市南部から市原市、袖ケ浦市の埋め立て地には、製鉄所や発電所、石油工業の工場地帯が形成され、その後、大気汚染公害で住民は苦しみましたが、習志野市の埋め立て地には煙突が並ぶような工場は立地せず、都市型の食品加工業や流通業のセンターが形成されました。
※ 習志野市の埋め立て地が工業地帯にならなかった経過は、「住みたい習志野」の以下の記事でご覧いただけます。
秋津・香澄団地、最初は工業地帯になる予定だった?(投稿) - 住みたい習志野
埋め立て地と内陸部には東京へ通勤する人たちのベッドタウンとして、住宅団地や戸建ての宅地開発が進められました。
参詣電車から通勤電車に変わった京成電鉄
東京と成田を結んで、新勝寺への参拝客を運んでいた京成電鉄は参詣電車から通勤電車へと性格を変えました。
(以下、wikipedia「京成成田駅」より)
1911年(明治44年)1月20日、成田山新勝寺至近に、鳴鐘山東勝寺(宗吾霊堂)とを結ぶ成宗電気軌道(せいそうでんききどう)の京成電車前(当駅とは別駅)が当駅近隣に開通したが、1944年(昭和19年)12月11日 不要不急線として廃止となり、当駅および東日本旅客鉄道(JR東日本)成田駅が成田山新勝寺の最寄り駅となった。
1925年(大正14年)12月24日 - 現在の公津の杜寄り400メートルに、成田花咲町駅(仮設駅)が開業。下記の成田国際空港への延伸までは、当駅が終着駅であった。
1930年(昭和5年)4月25日 - 路線延伸時に成田花咲町駅を廃止し、本設駅として成田駅が開業。
1931年(昭和6年)11月18日 - 京成成田駅に改称。
(成宗電気軌道の記憶)
行商の女性「カツギ屋」たちを乗せた専用列車があった
かつては専用車両(通称「なっぱ電車」)もあった、農産物を担いで東京に売りに行く「カツギ屋」さんの女性たち。高齢化し、今では見かけなくなりました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%95%86%E5%B0%82%E7%94%A8%E5%88%97%E8%BB%8A
(朝早くから、自分の身長よりも高いカゴに「もち」や「野菜」や「コロッケ」など、何十キロも詰め込んで東京に行商に行く、「カツギ屋」のおばちゃんたち。懐かしい写真です)
手にあかぎれをつくりながら海苔の生産
稲毛、幕張、習志野、船橋の遠浅の海岸部は、かつては海苔の産地で、冬に女性たちは手にあかぎれをつくりながら海苔の生産を行っていました。
(海苔干し。「新版習志野ーその今と昔」より転載)
(【今が旬!「船橋の海苔」】ふなばしCITYNEWSより)
春にはアサリ、ハマグリ。(埋め立て前は波打ち際だった)国道沿いや船橋駅前で売っていた
春にはアサリや蛤(ハマグリ)が採れ、貝むきや焼蛤(やきはま)、佃煮などの加工業も立地していました。
(船橋駅前で、こんな感じで貝を売っていたおばちゃん)
(こんな店が、国道沿い(埋め立て前は東京湾の波打ち際だった)に良くありました)
今でもわずかに残る貝などの加工業者は原料を輸入に頼っています。
東京湾の蛤は絶滅危惧種となり、貴重なものになりました。(近)
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