昨年の10月から始めた分子標的薬のお陰で、次々と身体が変化していく。
1月に入ってしばらくして、身体が柔らかくなっていることに気付いた。
がんが再発する前くらいから太股の内側の筋がすごく張って、ストレッチをしようと思っても、開脚ができないようになっていた。
それがだんだんひどくなり、90度くらいしか脚が開かなくなり、身体を曲げることも難しくなっていた。
お灸を筋にしようかと考えたが、箇所数が増えすぎるのでできなかった。
それが、いつのまにかかなり開脚できるようになっていた。
筋が柔らかくなってきたので、風呂の後などに少しずつ伸ばしていると、180度近くまで開くようになった。
そして、呼吸が深くなっていることに気付いた。
これまでは、整体などをした後だけ深く息を吸うことができていたが、何もしないのにいつも深呼吸ができるようになっていた。
横隔膜が緩んだような感じだ。
楽に呼吸ができることができ始めた。
また、夜中に痛みで起きたり、朝目覚めた時、いろいろ痛みを感じて起きるのが辛かった。
ところが、痛みを感じることなく普通に目が覚めることがあり、何でこんなに身体が楽なのかと驚いた。
当たり前のことなのに、こんなことがあるのかと幸せを感じた。
また、散歩をするとすぐに疲労感を感じていたが、長い距離を歩くことができ始めた。
少し負荷も掛けて散歩を楽しむ。
2月の検査で、腫瘍マーカーが基準値未満になった。
マーカーは治療開始以来、少しずつ下がっていたが、5年ぶりにとうとう正常値になった。
ただ、がんは、リンパ節や骨等にまだたくさんあるので、治癒したわけではない。がんの増殖が抑えられ勢いが無くなり、だんだん縮小しているということだ。
また、この頃から仕事を含め、いろいろにものに対する執着が薄れてきた。
いつも病気のことが頭から離れなかったが、それもあまり考えないようになり、心と身体がリラックスし、病気は治ると心から思い始めた。
ある時、嫁さんが言った、最近やることなすこと上手くいくと。
実は、私も同じように思っていて、嫁さんに話そうと思っていたところだった。
やはり、流れが変わってきたようだ。
3月に初孫が生まれた。女の子だ。
後で嫁さんから聞いたが、私が危なかったため、息子夫婦が少し配慮してくれたようで、思ったより少し早かったが次の代に命を繋ぐところを見させてくれた。
ただ、薬の副作用かどうかわからないが、この1年間時々、ひどい倦怠感というか身体が重くなって1歩も動くこともできないことが何度かあったが、一過性のもので、他にはほとんど副作用はない。
いつも、季節の変化を追って、花や景色を見に行っていたが、行く回数が減ってきた。
体調が安定しているため、来年見れないかもしれないという刹那的な気持ちが少し無くなっているようだ。
死に対する恐怖心が弱まっているため、ストレスが消えつつあるということなので、身体にはいい方向に向かっているようだ。
それと、長い闘いに疲れて、変化のあまりない普通の生活をしたいという気持ちがあるようにも思う。
回数は減ったものの、桜の季節からは、いつも行くところを廻った。
5月に一緒に闘ってきた方が亡くなられた。
1年くらい前に、御縁のある方から弟さんの病気の相談に乗って欲しいと依頼を受け、一緒に闘ってきた。
今考えても、知り合ったのが1年前と思えず、ずっと昔からの友人と感じるほど行き来をした。
がんには、いろいろな治療方法や代替療法があるが、本人が自分の身体で感じて、どうするか自分が決めることが本当に大事だと教えてくれた気がする。
5月中旬仕事に復帰した。
闘病にはやはりお金がかかる。
蓄えが尽きかけて、家のローンもあるのでどうしようかと思っていたが、よく考えてみれば仕事が可能なくらいまで体調は良くなっている。
そこで、復帰を決めた。
不思議なことがあった。
復帰の1週間前から、病気の相談の電話がぱたりと来なくなった。
その頃、何人かいつも連絡をしてくる方がいたが、突然電話が来なくなり、新しい方の依頼もなくなった。
1ヶ月経っても何もないので思った。
仕事に復帰したので、神様か仏様か御先祖様が負荷を減らしてくれたのだろう。
それから4ヶ月、病気の相談は、まったくなかった。
9月になって大学のクラブの同級生から、身内の病気ついて相談があり、久しぶりなので、とうとう来たかと思った。
仕事にも慣れてきて、余裕ができてきたと感じていた頃だった。
その電話から10日間で、新たな6人ほどの方から相談が来た。
そろそろお役を務めなさいと言われたような氣がした。
またそれは、身体が順調に回復していると教えてくれたということかもしれない。
7月から仕事の疲れもあるのか、ブログを書く回数が激減した。
いま、確認して驚いた。8月はゼロだった。
9月には大学の同級生からイエローカードが来た。
このブログは、私の安否確認も兼ねており、いつも友人がお祈りを送ってくれているのだ。
申し訳ないけど、まだ書けない状態が続いています。
写真は撮るものの、手が動かない。
7月29日付で、2013年7月29日に書いた手紙が届いた。
1年前の手紙だ。
私が5年前初めて秋田県の玉川温泉に行った時知り合い、松山にもお灸に来られ、ずっとお付き合いさせていただいた佐々木理臣氏からみんなに当てた手紙を親族の方が送ってくれたものだ。
昨年、ホスピスに入られたことはわかっていたが、ずっとその後を聞けてなかった。
親族の方も実感が湧かず挨拶が遅れたと書かれていた。
佐々木氏らしい言葉が書いてあった。
「あの世というのはどういう所なのか、皆が困らない様に良く調べておきますから、あとからゆっくりお出で下さい。」
天国からの手紙だった。
今年の後半は、仕事には慣れたものの、不整脈がひどくなり、最近はほぼ毎日起き、結構きつい時もある。
カテーテルを使った治療方法があるので、来年受ける予定だ。
今年は、何をしたのかとブログや撮った写真を再度確認したが、やはり孫の存在が大きかったようだ。
親バカでなく、爺バカになって、楽しませてもらった。 そして、氣をもらった。
報告します。
先週15ヶ月ぶりにPET-CTを受けました。
報告書には、前回と比べると多発リンパ節転移も多発骨転移も、いずれも縮小し、FDG集積は減弱という、いい結果でした。
2月から腫瘍マーカーの正常値は続いています。
担当医に、がんはまだ残っていると言われたので、少しがっかりしたけど、その後、主治医に全体像と輪切りの断面を詳細に見せてもらったところ、ほとんどの転移箇所が見えないくらいになっていました。
画像上見えなくてもがんがないとは言えないということと、分子標的薬をやめたり、耐性ができたりすれば、またがんが現れることが多いということから、がんは残っていると言われたようだ。
しかし、全体像では、黒く散らばっていた患部は、見えなくなっている。
大きく光っていた転移部はいずれも光が無くなり、がんは縮小している。
主治医は驚くべき結果ですねと言ってくれた。
御礼申し上げます。
いつも、お祈りをありがとうございます。
成果は出続けています。
家族と皆様のお陰だと、いつも感謝しております。
あともう少しなので、完治を目指します。
先日、ある先輩に「なぜ、君は治療が上手くいっているのか」と尋ねられたが、当たり前のことを答えてしまった。
その後、「インビクタス/負けざる者たち」という映画を見た時、ある詩が心に響き、その答えだと思った。
紹介します。
反アパルトヘイト運動に尽力し、南アフリカ共和国大統領となったネルソン・マンデラと、同国のラグビー代表チームとの人種を越えた友情を描いた映画だ。
ワールドカップの前、ネルソン・マンデラが、ラグビー南アフリカ代表のキャプテンに「私はこれに助けられてきた。」と言って紙を渡した。
英国の詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩「インビクタス」の一節だが、映画の日本語訳では少し変えているようだ。
「夜より出でて私を覆う奈落のごとき漆黒の闇。
どんな神であれ感謝する。
征服されざる我が魂、過酷の魔の手に落ちてなお、私は怯みも叫びもしなかった。
運命に打ちのめされ、こうべが血にまみれようと、決して屈しまい。
怒りと涙尽きぬこの地の彼方、死の影が恐怖をほのめかす。
だが幾年月脅威に晒されようとも、私は何一つとして恐れはしない。
その門がいかに狭くとも、如何なる苦しみを負うことになろうとも、私が我が運命の支配者。
我が魂の指揮官なのだ。
どんな神であれ感謝する。
征服されざる我が魂に私が我が運命の支配者。
我が魂の指揮官なのだ。」
いつもありがとうございます。
今年も、いつもと同じ言葉を言うことができる幸せを味わっております。
来年も皆様方にとって、よりよい年でありますよう、心からお祈り申し上げます。
よい年をお迎えください。
1月に入ってしばらくして、身体が柔らかくなっていることに気付いた。
がんが再発する前くらいから太股の内側の筋がすごく張って、ストレッチをしようと思っても、開脚ができないようになっていた。
それがだんだんひどくなり、90度くらいしか脚が開かなくなり、身体を曲げることも難しくなっていた。
お灸を筋にしようかと考えたが、箇所数が増えすぎるのでできなかった。
それが、いつのまにかかなり開脚できるようになっていた。
筋が柔らかくなってきたので、風呂の後などに少しずつ伸ばしていると、180度近くまで開くようになった。
そして、呼吸が深くなっていることに気付いた。
これまでは、整体などをした後だけ深く息を吸うことができていたが、何もしないのにいつも深呼吸ができるようになっていた。
横隔膜が緩んだような感じだ。
楽に呼吸ができることができ始めた。
また、夜中に痛みで起きたり、朝目覚めた時、いろいろ痛みを感じて起きるのが辛かった。
ところが、痛みを感じることなく普通に目が覚めることがあり、何でこんなに身体が楽なのかと驚いた。
当たり前のことなのに、こんなことがあるのかと幸せを感じた。
また、散歩をするとすぐに疲労感を感じていたが、長い距離を歩くことができ始めた。
少し負荷も掛けて散歩を楽しむ。
2月の検査で、腫瘍マーカーが基準値未満になった。
マーカーは治療開始以来、少しずつ下がっていたが、5年ぶりにとうとう正常値になった。
ただ、がんは、リンパ節や骨等にまだたくさんあるので、治癒したわけではない。がんの増殖が抑えられ勢いが無くなり、だんだん縮小しているということだ。
また、この頃から仕事を含め、いろいろにものに対する執着が薄れてきた。
いつも病気のことが頭から離れなかったが、それもあまり考えないようになり、心と身体がリラックスし、病気は治ると心から思い始めた。
ある時、嫁さんが言った、最近やることなすこと上手くいくと。
実は、私も同じように思っていて、嫁さんに話そうと思っていたところだった。
やはり、流れが変わってきたようだ。
3月に初孫が生まれた。女の子だ。
後で嫁さんから聞いたが、私が危なかったため、息子夫婦が少し配慮してくれたようで、思ったより少し早かったが次の代に命を繋ぐところを見させてくれた。
ただ、薬の副作用かどうかわからないが、この1年間時々、ひどい倦怠感というか身体が重くなって1歩も動くこともできないことが何度かあったが、一過性のもので、他にはほとんど副作用はない。
いつも、季節の変化を追って、花や景色を見に行っていたが、行く回数が減ってきた。
体調が安定しているため、来年見れないかもしれないという刹那的な気持ちが少し無くなっているようだ。
死に対する恐怖心が弱まっているため、ストレスが消えつつあるということなので、身体にはいい方向に向かっているようだ。
それと、長い闘いに疲れて、変化のあまりない普通の生活をしたいという気持ちがあるようにも思う。
回数は減ったものの、桜の季節からは、いつも行くところを廻った。
5月に一緒に闘ってきた方が亡くなられた。
1年くらい前に、御縁のある方から弟さんの病気の相談に乗って欲しいと依頼を受け、一緒に闘ってきた。
今考えても、知り合ったのが1年前と思えず、ずっと昔からの友人と感じるほど行き来をした。
がんには、いろいろな治療方法や代替療法があるが、本人が自分の身体で感じて、どうするか自分が決めることが本当に大事だと教えてくれた気がする。
5月中旬仕事に復帰した。
闘病にはやはりお金がかかる。
蓄えが尽きかけて、家のローンもあるのでどうしようかと思っていたが、よく考えてみれば仕事が可能なくらいまで体調は良くなっている。
そこで、復帰を決めた。
不思議なことがあった。
復帰の1週間前から、病気の相談の電話がぱたりと来なくなった。
その頃、何人かいつも連絡をしてくる方がいたが、突然電話が来なくなり、新しい方の依頼もなくなった。
1ヶ月経っても何もないので思った。
仕事に復帰したので、神様か仏様か御先祖様が負荷を減らしてくれたのだろう。
それから4ヶ月、病気の相談は、まったくなかった。
9月になって大学のクラブの同級生から、身内の病気ついて相談があり、久しぶりなので、とうとう来たかと思った。
仕事にも慣れてきて、余裕ができてきたと感じていた頃だった。
その電話から10日間で、新たな6人ほどの方から相談が来た。
そろそろお役を務めなさいと言われたような氣がした。
またそれは、身体が順調に回復していると教えてくれたということかもしれない。
7月から仕事の疲れもあるのか、ブログを書く回数が激減した。
いま、確認して驚いた。8月はゼロだった。
9月には大学の同級生からイエローカードが来た。
このブログは、私の安否確認も兼ねており、いつも友人がお祈りを送ってくれているのだ。
申し訳ないけど、まだ書けない状態が続いています。
写真は撮るものの、手が動かない。
7月29日付で、2013年7月29日に書いた手紙が届いた。
1年前の手紙だ。
私が5年前初めて秋田県の玉川温泉に行った時知り合い、松山にもお灸に来られ、ずっとお付き合いさせていただいた佐々木理臣氏からみんなに当てた手紙を親族の方が送ってくれたものだ。
昨年、ホスピスに入られたことはわかっていたが、ずっとその後を聞けてなかった。
親族の方も実感が湧かず挨拶が遅れたと書かれていた。
佐々木氏らしい言葉が書いてあった。
「あの世というのはどういう所なのか、皆が困らない様に良く調べておきますから、あとからゆっくりお出で下さい。」
天国からの手紙だった。
今年の後半は、仕事には慣れたものの、不整脈がひどくなり、最近はほぼ毎日起き、結構きつい時もある。
カテーテルを使った治療方法があるので、来年受ける予定だ。
今年は、何をしたのかとブログや撮った写真を再度確認したが、やはり孫の存在が大きかったようだ。
親バカでなく、爺バカになって、楽しませてもらった。 そして、氣をもらった。
報告します。
先週15ヶ月ぶりにPET-CTを受けました。
報告書には、前回と比べると多発リンパ節転移も多発骨転移も、いずれも縮小し、FDG集積は減弱という、いい結果でした。
2月から腫瘍マーカーの正常値は続いています。
担当医に、がんはまだ残っていると言われたので、少しがっかりしたけど、その後、主治医に全体像と輪切りの断面を詳細に見せてもらったところ、ほとんどの転移箇所が見えないくらいになっていました。
画像上見えなくてもがんがないとは言えないということと、分子標的薬をやめたり、耐性ができたりすれば、またがんが現れることが多いということから、がんは残っていると言われたようだ。
しかし、全体像では、黒く散らばっていた患部は、見えなくなっている。
大きく光っていた転移部はいずれも光が無くなり、がんは縮小している。
主治医は驚くべき結果ですねと言ってくれた。
御礼申し上げます。
いつも、お祈りをありがとうございます。
成果は出続けています。
家族と皆様のお陰だと、いつも感謝しております。
あともう少しなので、完治を目指します。
先日、ある先輩に「なぜ、君は治療が上手くいっているのか」と尋ねられたが、当たり前のことを答えてしまった。
その後、「インビクタス/負けざる者たち」という映画を見た時、ある詩が心に響き、その答えだと思った。
紹介します。
反アパルトヘイト運動に尽力し、南アフリカ共和国大統領となったネルソン・マンデラと、同国のラグビー代表チームとの人種を越えた友情を描いた映画だ。
ワールドカップの前、ネルソン・マンデラが、ラグビー南アフリカ代表のキャプテンに「私はこれに助けられてきた。」と言って紙を渡した。
英国の詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩「インビクタス」の一節だが、映画の日本語訳では少し変えているようだ。
「夜より出でて私を覆う奈落のごとき漆黒の闇。
どんな神であれ感謝する。
征服されざる我が魂、過酷の魔の手に落ちてなお、私は怯みも叫びもしなかった。
運命に打ちのめされ、こうべが血にまみれようと、決して屈しまい。
怒りと涙尽きぬこの地の彼方、死の影が恐怖をほのめかす。
だが幾年月脅威に晒されようとも、私は何一つとして恐れはしない。
その門がいかに狭くとも、如何なる苦しみを負うことになろうとも、私が我が運命の支配者。
我が魂の指揮官なのだ。
どんな神であれ感謝する。
征服されざる我が魂に私が我が運命の支配者。
我が魂の指揮官なのだ。」
いつもありがとうございます。
今年も、いつもと同じ言葉を言うことができる幸せを味わっております。
来年も皆様方にとって、よりよい年でありますよう、心からお祈り申し上げます。
よい年をお迎えください。
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