今年も、このブログを読んでいただき、ありがとうございました。
ブログは、私の日記代わりでもあり、友人への安否情報代わりでもあります。
闘病ブログにすると重くなるので、詳細には書かないようにしていますが、今後他の方にお役立つ情報となるのであれば、具体的に公開することも考えております。
今年は、不整脈の薬を減量したことから始まった。
2年ほど前に飲み始めた交感神経の働きを抑える薬だが、服用を始めてからすぐに血圧が下がった。
いろいろ不具合があって減量したところ、血圧が上がり、体がだるくてやる気が起きなかったのが、急に元気になった。
低血圧のため昨年は身体が動かなくてつらかったが、また活動的になることができた。
2月の検査では、腫瘍マーカーが上がり、転移の箇所がかなり増えていることがわかった。
慣れてはいるものの、あまりの多さに私も嫁さんも、さすがに落胆した。
作戦を練り直さなければならない。
以前やっていたサプリや、いろいろな治療を再開する。
3月になって、気持ちも落ち着いてきたので、主治医に転移箇所の確認をしてもらった。
画像を印刷し、がんが転移している箇所をマーキングしてもらう。
身体にも、同じようにマジックでマーキングしてもらう。
そのまま鍼灸所に行き、マーキングした箇所を示し、その近くで痛みや違和感がある場所を伝え、血管やリンパの位置を考慮し、その奥にある腫瘍に熱を届かせるためのお灸を追加する場所を確定していく。
悔しいが、痛み等を感じ、既に追加していた箇所と結構合致する。
いつも内観を心がけているが、既に身体が転移を伝えていてくれていたようだ。
身体の声を聴くことの大切さを感じた。
でも、反撃開始だ。
同じ頃、静岡の河崎さんの宇宙氣功の流れをくむ人から話を聞き、病気に対する執着を捨てることにした。
たくさんある病気に関する本を片付け、いつも図書館や本屋で治療に関する本を探すことをやめた。
再度闘い始めて3年半で、少し闘い疲れを感じていた頃だった。
治療は、何もせず、天に任せればいいということだったが、究極のプラシーボなので、悟り切れない凡人の私は治療は止めることはできなかったが、心は軽くしてくれた。
今考えると、今年の後半から病気や仕事に対する気持ちが素直なものになっていることを感じている。
仕事に対する執着もあったが、今はほとんどなくなり、心が楽になっている。
3月末、初めて息子たちみんなと飲みに行った。
何軒もハシゴして息子たちと楽しむことができたし、その後兄弟同士の仲が段々よくなって、一緒にいろいろ遊びに行くようになったり、会話が増えていることがわかる。
桜の時期になり、名所巡りが始まった。
いつも行く、西法寺や真光寺に通った。
でも、今気付いたが、今年はあまり遠出をしていない。
高知の仁淀川町にあるひょうたん桜や、しだれ桜も見に行っていない。
桜を見に行く回数も少なかった。
マーカーがこの頃、上がり始めていた。
この頃、下の子どもが進学したので、広島県によく行くようになり、おいしいものをいろいろ食べることができた。
4月は昨年に引き続き、別府鉄輪温泉の貸間 双葉荘に湯治に行った。
調理は地獄釜で蒸すので、玄米も野菜もすごくおいしい。
宿の温泉も泥湯もよかった。
それと湯治の途中、宇佐神宮に行き、氣を感じることができた。
5月下旬から6月に、秋田県の玉川温泉に2年ぶりの湯治に行った。
湯治を始めると3日くらいで体調が良くなり、身体が軽くなる。
今回も湯治を進めるうちに目標がわかってきた。
「骨を焼き切る」だ。
岩盤浴で、首から背中、腰の骨を上から下まで、飛び切り熱い岩盤に押しつける。
やりすぎて熱中症になったので、少し自重する。
新緑の大谷地は美しかった。
帰りに東京をうろうろ徘徊して、旧友と親交を深める。
温めることで痛みが軽減し、よくなったと感じていたが、検査結果を見るとマーカーがまた上がっていた。
これまでのやり方では、がんの勢いを止められないことを感じたので、分子標的薬による治療を、どこかの段階で行わなければならないと思い、7月に遺伝子検査を行い、適合する治療薬を確認した。
副作用が予想されるので、いつ治療を開始するかをずっと考えていた。
7月から8月は浄瑠璃寺でハスの花を、長い間楽しむことができた。
今年の夏は、ずっと暑かったですね。
なかなか調子が戻らなかったほどでした。
でも、このころ、朝ドラの「あまちゃん」に夢中になっていた。
がんペプチドワクチン接種のため、久留米に行ったり、ベンズアルデヒドを処方してもらうため京都に行ったりして忙しく、夏に嫁さんとどこにも行けなかったので、9月下旬に沖縄に行ってきた。
この頃は、結構しんどくて、食欲もだんだん無くなり、体重も減っていった。
ピールがおいしく感じられず、日本酒ももうひとつ。
8月に久留米に行った時も、一人で博多に泊まる自信がなく、飛行機で日帰りだった。
沖縄に行くとき、冗談で思い出作りと言ってしまったくらい、身体が悲鳴を上げていた。
でも、絶景はいいもんだ。
備瀬のフクギ並木の中にある宿に泊まり、ゆっくりとした時間を過ごした。
沖縄旅行から帰ったら、分子標的治療薬を開始することにしていた。
副作用はすぐに出ると予想されるので、それに対する処置と適正な薬の量を決めるため、10月上旬入院する。
入院時の腫瘍マーカーは、やはり跳ね上がっており、治療を開始できたことに感謝する。
この時から、皆様にお祈りをお願いいたしました。
副作用が最も出ると考えられる3週間病院にいた。
服用を開始して2日目に、効いていると身体が感じた。
4日目には身体の痛みが和らいできた。
2週間後のCT検査で、いろいろな所に転移していたものが、いずれも縮小傾向にあることがわかった。
場所によっては、明らかに小さくなっている。
何ヶ月も空腹感というのを感じたことがなかったが、食欲が出てきて、久しぶりにお腹が減るという感覚を味わえて嬉しかった。
まだ、身体が本当には動いていないので、慎重に、無理をしないように心掛けるが、少しずつ運動を始める。
気分転換のため、紅葉を追う。
11月下旬、後輩ががんを発病した。
私と同じやり方で闘いたいということがわかったので、いろいろな話しをしたところ、すごく前向きで頑張っていたが、薬の影響があまりに強く、まだ体力も十分あったのに亡くなってしまった。
闘う準備が十分できていたので、非常に残念であり、無力感を味わった。
がん治療の難しさをあらためて知らされる。
退院以降も、身体の感覚はいい。
お灸に行っても、いろいろ腫れていたところが良くなっていると言われる。
いつも治療してもらっているので、いろいろな部分の変化に気付いてくれる。
腫瘍マーカーが2度続けて大きく下がり、3年前のレベルくらいになっており、体調もいい感じを維持できている。
がんが増殖を止め、弱っている時こそ、自分でできることを行い、自分の免疫力でがん細胞を制圧するつもりだ。
西洋医学では治癒しないと言われていますが、東洋医学や食事療法を併せて、まずは完全寛解を目指し、頑張っていくつもりです。
すみませんが、あと暫く、思い出した時に祈りをお願いいたします。
今日は、家族と炬燵を囲んで、おいしいお酒を飲みながら、紅白歌合戦を見させてもらっています。
鈴鹿ひろみの渚のメモリーを聴いていたら、なぜか涙が出てきました。
この幸せも、お力添えをしていただいているいろいろな方々のお陰だと大変感謝しております。
あらためて御礼申し上げます。
今年も、ありがとうございました。
来年も皆様方にとって、よりよい年でありますよう、心からお祈り申し上げます。
よい年をお迎えください。
ブログは、私の日記代わりでもあり、友人への安否情報代わりでもあります。
闘病ブログにすると重くなるので、詳細には書かないようにしていますが、今後他の方にお役立つ情報となるのであれば、具体的に公開することも考えております。
今年は、不整脈の薬を減量したことから始まった。
2年ほど前に飲み始めた交感神経の働きを抑える薬だが、服用を始めてからすぐに血圧が下がった。
いろいろ不具合があって減量したところ、血圧が上がり、体がだるくてやる気が起きなかったのが、急に元気になった。
低血圧のため昨年は身体が動かなくてつらかったが、また活動的になることができた。
2月の検査では、腫瘍マーカーが上がり、転移の箇所がかなり増えていることがわかった。
慣れてはいるものの、あまりの多さに私も嫁さんも、さすがに落胆した。
作戦を練り直さなければならない。
以前やっていたサプリや、いろいろな治療を再開する。
3月になって、気持ちも落ち着いてきたので、主治医に転移箇所の確認をしてもらった。
画像を印刷し、がんが転移している箇所をマーキングしてもらう。
身体にも、同じようにマジックでマーキングしてもらう。
そのまま鍼灸所に行き、マーキングした箇所を示し、その近くで痛みや違和感がある場所を伝え、血管やリンパの位置を考慮し、その奥にある腫瘍に熱を届かせるためのお灸を追加する場所を確定していく。
悔しいが、痛み等を感じ、既に追加していた箇所と結構合致する。
いつも内観を心がけているが、既に身体が転移を伝えていてくれていたようだ。
身体の声を聴くことの大切さを感じた。
でも、反撃開始だ。
同じ頃、静岡の河崎さんの宇宙氣功の流れをくむ人から話を聞き、病気に対する執着を捨てることにした。
たくさんある病気に関する本を片付け、いつも図書館や本屋で治療に関する本を探すことをやめた。
再度闘い始めて3年半で、少し闘い疲れを感じていた頃だった。
治療は、何もせず、天に任せればいいということだったが、究極のプラシーボなので、悟り切れない凡人の私は治療は止めることはできなかったが、心は軽くしてくれた。
今考えると、今年の後半から病気や仕事に対する気持ちが素直なものになっていることを感じている。
仕事に対する執着もあったが、今はほとんどなくなり、心が楽になっている。
3月末、初めて息子たちみんなと飲みに行った。
何軒もハシゴして息子たちと楽しむことができたし、その後兄弟同士の仲が段々よくなって、一緒にいろいろ遊びに行くようになったり、会話が増えていることがわかる。
桜の時期になり、名所巡りが始まった。
いつも行く、西法寺や真光寺に通った。
でも、今気付いたが、今年はあまり遠出をしていない。
高知の仁淀川町にあるひょうたん桜や、しだれ桜も見に行っていない。
桜を見に行く回数も少なかった。
マーカーがこの頃、上がり始めていた。
この頃、下の子どもが進学したので、広島県によく行くようになり、おいしいものをいろいろ食べることができた。
4月は昨年に引き続き、別府鉄輪温泉の貸間 双葉荘に湯治に行った。
調理は地獄釜で蒸すので、玄米も野菜もすごくおいしい。
宿の温泉も泥湯もよかった。
それと湯治の途中、宇佐神宮に行き、氣を感じることができた。
5月下旬から6月に、秋田県の玉川温泉に2年ぶりの湯治に行った。
湯治を始めると3日くらいで体調が良くなり、身体が軽くなる。
今回も湯治を進めるうちに目標がわかってきた。
「骨を焼き切る」だ。
岩盤浴で、首から背中、腰の骨を上から下まで、飛び切り熱い岩盤に押しつける。
やりすぎて熱中症になったので、少し自重する。
新緑の大谷地は美しかった。
帰りに東京をうろうろ徘徊して、旧友と親交を深める。
温めることで痛みが軽減し、よくなったと感じていたが、検査結果を見るとマーカーがまた上がっていた。
これまでのやり方では、がんの勢いを止められないことを感じたので、分子標的薬による治療を、どこかの段階で行わなければならないと思い、7月に遺伝子検査を行い、適合する治療薬を確認した。
副作用が予想されるので、いつ治療を開始するかをずっと考えていた。
7月から8月は浄瑠璃寺でハスの花を、長い間楽しむことができた。
今年の夏は、ずっと暑かったですね。
なかなか調子が戻らなかったほどでした。
でも、このころ、朝ドラの「あまちゃん」に夢中になっていた。
がんペプチドワクチン接種のため、久留米に行ったり、ベンズアルデヒドを処方してもらうため京都に行ったりして忙しく、夏に嫁さんとどこにも行けなかったので、9月下旬に沖縄に行ってきた。
この頃は、結構しんどくて、食欲もだんだん無くなり、体重も減っていった。
ピールがおいしく感じられず、日本酒ももうひとつ。
8月に久留米に行った時も、一人で博多に泊まる自信がなく、飛行機で日帰りだった。
沖縄に行くとき、冗談で思い出作りと言ってしまったくらい、身体が悲鳴を上げていた。
でも、絶景はいいもんだ。
備瀬のフクギ並木の中にある宿に泊まり、ゆっくりとした時間を過ごした。
沖縄旅行から帰ったら、分子標的治療薬を開始することにしていた。
副作用はすぐに出ると予想されるので、それに対する処置と適正な薬の量を決めるため、10月上旬入院する。
入院時の腫瘍マーカーは、やはり跳ね上がっており、治療を開始できたことに感謝する。
この時から、皆様にお祈りをお願いいたしました。
副作用が最も出ると考えられる3週間病院にいた。
服用を開始して2日目に、効いていると身体が感じた。
4日目には身体の痛みが和らいできた。
2週間後のCT検査で、いろいろな所に転移していたものが、いずれも縮小傾向にあることがわかった。
場所によっては、明らかに小さくなっている。
何ヶ月も空腹感というのを感じたことがなかったが、食欲が出てきて、久しぶりにお腹が減るという感覚を味わえて嬉しかった。
まだ、身体が本当には動いていないので、慎重に、無理をしないように心掛けるが、少しずつ運動を始める。
気分転換のため、紅葉を追う。
11月下旬、後輩ががんを発病した。
私と同じやり方で闘いたいということがわかったので、いろいろな話しをしたところ、すごく前向きで頑張っていたが、薬の影響があまりに強く、まだ体力も十分あったのに亡くなってしまった。
闘う準備が十分できていたので、非常に残念であり、無力感を味わった。
がん治療の難しさをあらためて知らされる。
退院以降も、身体の感覚はいい。
お灸に行っても、いろいろ腫れていたところが良くなっていると言われる。
いつも治療してもらっているので、いろいろな部分の変化に気付いてくれる。
腫瘍マーカーが2度続けて大きく下がり、3年前のレベルくらいになっており、体調もいい感じを維持できている。
がんが増殖を止め、弱っている時こそ、自分でできることを行い、自分の免疫力でがん細胞を制圧するつもりだ。
西洋医学では治癒しないと言われていますが、東洋医学や食事療法を併せて、まずは完全寛解を目指し、頑張っていくつもりです。
すみませんが、あと暫く、思い出した時に祈りをお願いいたします。
今日は、家族と炬燵を囲んで、おいしいお酒を飲みながら、紅白歌合戦を見させてもらっています。
鈴鹿ひろみの渚のメモリーを聴いていたら、なぜか涙が出てきました。
この幸せも、お力添えをしていただいているいろいろな方々のお陰だと大変感謝しております。
あらためて御礼申し上げます。
今年も、ありがとうございました。
来年も皆様方にとって、よりよい年でありますよう、心からお祈り申し上げます。
よい年をお迎えください。