森岡 周のブログ

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自己の意図による自己の感覚フィードバックの意味(主体感)

2014年03月12日 19時44分44秒 | 日記
実習の谷間に久しぶりに3年生のゼミを行う。研究よりゼミ旅行するのどこにするか、がほとんどの話題だった。。その後、久しぶり。。に今は代表取締役の川崎社長(高知の教え子)がきて、講習会のあり方、職場の教育とは、と2時間も話した。喉をやられた。。笑。彼はなかなかの理念をもっている。それを視線取得の面をより活かして、フレキシブルな理念として追求してもらいたい。

さて、最後に話したことは以下のこと。

誰しも、そもそもは自己が何者か明確でないとき、もっと向上したいという欲求や、もっと成長したいと思うのかもしれない。あるいは自己だけでなく、他者のためにと、利他的にその欲求が生まれる者もいるかもしれない。そして自己顕示欲が強い人は、それがより強いかもしれない。そしてその意図は、例えば勉強に向かえば、講習会や研修会に足を運ぶことになるのかもしれない。

その意図は足を運ぶという行動として生まれるが、その講習会が予想通り(それ以上)であれば、その感覚フィードバックや情動によって、「良かった」と自己の脳は評価するかもしれない。

けれども、よくよく考えてみると、そのフィードバックは他者(講師や外部環境)から与えられたものである。自己の欲求を満たすための意図に対して、他者によるフィードバックによって、その自己の脳内メカニズムが成立するのである。これは自己による行動によってフィードバックが得られていないため、結局はまたその報酬をもとめて、講習会に足を運んでしまう(痛みの治療を継続する脳内メカニズムと同じ)。そしてこれが継続されてしまうと、それが自己による問題解決でないため、自己効力感が結局のところは生み出されず、「自己によっては解決できない」といった学習性無力感を起こしてしまう。

自己の意図は、自己の行動による感覚フィードバックによって、その整合性を保つべきである。他人任せにしてしまうと、徐々に前頭前野の働きは減弱化し、目先(すぐ)の報酬に走ってしまう。腹側線条体が強化されてしまうのである。「明日にでも」「今すぐに使える」とか「将来がどうなるかわからない」「この仕事はこれでいいのか」とあおるの外部刺激に走るのはこの動物的な報酬系によるものである。片麻痺者の行動にも似ている。他者や物が感覚を入れるだけでは本来の脳のシステムが理解できていない。

しかしながら、人間はその報酬を先延ばしすることができる。これに決定的に関わっているのが前頭前野である。そして、その問題解決は自己の行動によってフィードバックが得られることで、もっと高い問題解決をと、その価値が変わる。これが教師なし学習の本質的な意味である。

講習会や研修会が意味を持つのは、1つは誤差を得るためである。現状の自分と他人の情報や考え方の誤差の確認、そして、その誤差を認識し、どのようにそれを自己の行動に活かしたり、修正したりするかを考える場である。そして、他者の価値観や行動力に触れる事で、自己の意欲を高めることである。人は人によって育てられるというのは、この事をさすのではないか。つまり、他者任せの感覚フィードバックによって、自己の意図を成立させるのではなく、この他者のフィードバック情報による誤差を利用して、普段の行動を修正するのである。そして、その行動によって、自己のフィードバックを得るのである。

これが臨床の場になるかもしれないが、リハビリテーションが教育の範疇に入るのであれば、この効果はすぐにはあらわれない。報酬を先延ばしする気構えと、即時的な報酬を他の何かによって得て行く必要がある。これに僕は口頭にて誰かに対して伝える(情報を与え共有する;共同注意)というのが効果を示すのではないかと思っている(ノルマではない)。自分の意図によって学習したことを他者に伝えるという行動に出て、他者の評価でなく、それが自己の意図通り、あるいはそれ以上の自己フィードバックが得られたか、その整合性から自己の成長を自らが確認することが大切だと思っている。

伝達講習といった他人の言葉を三人称で伝えるのではなく、自分の言葉にかえ、その意図通り自分が説明できたか(誤差)、これにより学習効果を自分が計ればいい。人にその評価をゆだねると、これまた他者によるフィードバックの期待を求める結果になってしまうわけである。

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