水曜から新潟で、やっと奈良に帰る。
新潟へ 学会行けども 酒浸り
甘口の日本酒は、全く、私の脳には届かず。超辛口が恋しいが食材はいうことなし。
三日三晩、仕事は口頭発表、セミナーの司会、座長だったが、夜はいろんな会合が続く続く。以前のようなエネルギーはなく、違うグループへの梯子はさすがにできなかった。
いろんな意識が湧いたが、この巨大化したスタイル(京都学会からだと思う)は、これはこれで受け止めないといけないのかなと思った。
以前の僕なら、もっと議論を!とか、教育セミナーばかりで、学会は教育する所じゃなく、議論する所で、それに基づきあらたな研究が共同で起こるところだと、攻撃的だったが、これだけPTが突然に生産されるようになり、また、そうしたセミナーがないと、おそらく参加しないであろう顔がちらほら・・・ そう考えるとしかたないのか。
学会が全国研修会化した今日、学会そのものを、小規模へシフトさせる、それを早急に進めないといけないのか(このお祭りは残して)。
専門領域の体力がそこまで耐えれるかだが、なんとかしたいものだ。専門領域の分け方の問題もあるが、年に1回のこのお祭り的PT学会で、基礎~臨床まで臨床のPTが意識できればと考えている。
巨大化すれば経済効率を考えねばならず、それはそれは難しい。
準備委員長の大西先生にお疲れ様でしたと心からいいたい。
経済効率のツケは週末のANAの問題もその一つだ。機械に支配されると、人間は無力だ。アイロボットの時代もそう遠くはないのか・・・人間はもろくなった。そして、その機械の不具合に真剣な感情を生起しはじめた。機械に起こることができないので、介入している人間におこりちらすしかない。
そもそも、機械は壊れるもの。
機械は完璧だといつからそういう意識が生まれたのか。それも経済効率化のツケだ。
一方、人間のシステムも破たんしている。社会保険庁の問題は、歴史が根深い。
機械と人間・・・
その逆の世界がある。
河瀬さんの映画だ。奈良出身であり、以前から気になっていたが、彼女の言葉は重い。
以前、実の母親(認知症)の介護のドキュメンタリーがあったのだが、「死」は終わりでないという言葉が響いた。
その魂は誰かに根付いている。脳に記憶があるように、その記憶は残り続ける。人間関係の円環だ。記憶の結晶がある以上、「死」は終わりでない。誰かの心に宿り続ける。たとえ意識にのぼらなくとも(顕在化しなくとも)
スピーチで目に見えないものに真実があるようなことを言っていた。「博士が愛した数式」で博士もそのようなことをいった。脳とはそういうものだ。僕も「星の王子さま」からいただき、「リハビリテーションのための認知神経科学入門」のあとがきでそうかいた。私もまだまだ青二才。どこまで哲学的思考を持ち続けるか、次の目標に向けて頑張ろうと思う。
概して語らず、日本人として、どのような生き様の美学を養うか、人生の折り返しを過ぎ、考えている。
アメリカナイズされていない、この自然がフランス人には受ける。
日本の文化は自然との共存だ。
それが欧米とは違う。
それを大事にしたいものだが・・・ 効率ばかりの教育じゃそれもできない。