森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

臨床実習は現在進行形教育

2006年12月03日 23時44分57秒 | 過去ログ
昨日は卒論発表会を終え,そのまま大阪・扇町の関西医科専門学校へ。
協会主催の臨床実習指導者研修会に講師として参加する。
そのまま懇親会へ。
講師の方々といろんなことに関して談話する。

本日,脳科学と教育を照らし合わせて講義を行う。
はじめての試みだったが,自分としてはまずまずだったと思う。
いいすぎない講義だと思ったが,最後にいらんことを言ってしまった。

脳教育。

ワークショップのコメンテータとして,レポートの意味について話したが,話せなかった部分について少し記述する。

レポートは言語化の手続きである。
その一つが,対人間コミュニケーションのツールとして。
そしてもう一つが,個人内コミュニケーションの手続きである。
前者は,レポートなど必要ない。
対話でいい(対話がいいに決まっている)。
このことは今回脳科学のデータを示し,説明した。
後者は,表象には時間がかかる場合があるので,その場合はその手続きとして介入するといった。
しかし,その繰り返しは結局のところ,そういう時間が必要な人間が生産されてしまう。
つまり,ワーキングメモリが鍛えられないのだ。
レポートの繰り返しだと。
そしてバイザー側もである。
やはり,患者に両者が同じ方向を見て,そして三角形をつくらないといけない。
そのリアルさが教育には求められる。
レポート指導は結局にところ,現在完了形,あるいは過去形である。
その言語は死んでいる。
生きた言語で学習を作らないと,結局のところ,認知過程は活性化がない。
バイザー側も結局のところ,その指導形態であれば,あいまいでいい。
わからないということもわからせることが必要であり,そのときはじめて問題が特定化されて,調査の意味が出てくる。
レポート指導は要はバイザーの甘いところである。
患者を目の前にして,指導し,自省する。
この自省がバイザー,そして学生にないといけない。
そのずれが気づきとなる。

ま,レポートが簡単だと言うことだ。

臨床はリアルであり,現在進行形である。


ところで,言葉遣いなどを情意面で示していたが,これは中川先生が言った様に,社会的スキルの問題だ。
つまり技術領域だし,もしそのことに気づいていない,すなわち社会的認知の発達がないということは認知領域だ。
それは社会としてのバイザーが教えていかないといけない。
学生の脳は空っぽでない。
使い分けている。

あと,広汎性発達障害が情意の問題と提案されたが,これも情意ではない。
LD,ADHDなどは,その名の通り,認知領域なのである。
これも社会がどう受けるかを教育界全体で考えないといけない。
協会幹部の皆さんはどう考えているのだろうか・・・・

あと情報提供のこともそう,最初からフィードバックを与えるという行為は,どうしても学習・教育の視点から納得がいかない。

相手の心を読み,その中で「私」にとって必要とあらば,情報を収集する。
それが観察者としての脳なのである。

ここにもマニュアル至上主義が蔓延する。
自分の脳が楽をしたい。
という自己の意識なのだ。


脳は思い込みが強いのは数々のデータでわかっている。
ほぼ9割がトップダウン解釈なのだ。
情報は一次感覚野ですでにバイアスがかかる。
そのようにしか見えないのだ。
片麻痺が片麻痺にしか見えないのも,そのバイアスのせいなのだ。
学生の心身の問題は,あくまでも環境と相互作用によって起こる行動ならば,環境が変われば,必ずしもそうではない,という思考の転換が必要なのだ。
トップダウン解釈はバイザーの脳を退化させてしまう。
思い込み教育でなく,白紙からスタートしましょう。

もちろん,問題が発生してからは遅いので,その前に認知しましょう。
人間には優れた読心機能が存在しています。
その判断が間違わないように,情報を入れてきましょう。
その情報は脳で統合されはずです。



いずれにせよ,臨床教育ももう少しレベルアップしていかないといけないですね。
みなさんの協力をいただきながら,いろんなプロジェクトを進めていきます。




しかしながら,毎週講演続きでちょっと逃亡したくなった。

準備なくとも時間通りしゃべる自分が嫌になってきた。



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