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森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

世の中の人は何とも云えばいえ 我がなすことは我のみぞ知る

2009年10月07日 00時10分53秒 | 過去ログ
今日は研究会の確認、本に使用する写真の確認、論文査読を終え、
冬木学園全体の教育ビジョンを考える会に出席した。

「意表をつく」「驚く」「イメージを壊す」
そんなキーワードを自分は出して、
顧客の抱え込み、そして、戦略的に定期的にフォーラムを行うこと議論した。

想像通りっていうのは長続きしない。
リカレント教育も大事だが、
若者、中堅が公開講座に来る大学でなければならない。

やまとフォーラムの聴衆者の高齢化が気になるところである。

その後、大学院生の指導を行い、
4年生ゼミに入る前にメールの確認をした。

先日のgeneのアンケートを早速送ってもらったが、
長丁場にも関わらず、好評をいただいたようで、
まずまずの講演だったと思う。

自由回答も良好であり、
学生アンケートを眺めているのに似ている感があった。

ほとんどが「ほめちぎり」で少々照れくさいかつ自信満々になったが、
その中で、自分にとっていいものを見つけた。

「学会に行っても満員で入れなかったりしてようやくお話を聞けました。森岡先生の批判的な話を聞くこともありましたが、実際にお話を聞いてみて、大変興味深く私たちも運動学習に関連した勉強会、研究を実施していますので今後の参考にさせて頂きます。ありがとうございました。」

と。

批判というのがまずうれしい。
表現していないと批判は受けない。
批判は大いに結構。
これが批判的吟味であればよいが。
吟味されなく、妬みやっかみ、そして自分を保護するための蓋をする的批判あれば、どうしようもない。

批判されることは自らが仮説を提唱する学者になったことと思う。


しかし、それが受け売り的批判であれば、そいつは抹殺に値する。

自分の目で見て聞いて確認しないと何も見えない。

全国研修会でも言ったが、私は20代の時、自分の好きな論文を見つければ、
その人に会いに、アイスランドまで行ったり、フランスまで行ったりし、
最終的には人の勧めでなく自分で見て話して留学先を決めた。

行ってみないとわからない。
しゃべってみないとわからない。

私がロマンティックリハビリテーションを提唱しているのはその理由でもある。

誰が何と言おうと、自分の五感で確認し、そのものの信念に触れ、本質かどうか自分自身が見極める。

PTやOTの世界はまだまだ成熟していない。

自分を保身するために、知らない、しゃべったこともないやつを批判する。
書きものだけでは本質は見えない。

そんな先輩にはなりたくないものだ。

先日、教え子の越智くんにあったが、
どこの大学でもそういうのはある。
学者でなく、医師(派閥)のまねごとである。
それこそが、宗教である。
EBMだろうが、RCTだろうが、受け売りでまねごとをするのも同じである。

しかし、所詮、人は人に生かされている。
誰かの影響を潜在的に受けている。
ニュートラルな立場なんて存在しない。
もしあるとすれば、それは機械だ。

文字は記号でしかない。
感情が付与されることで言葉になるのである。

Geneの自由回答に印刷物の文字が見えにくかったという意見があった。

文字だからである。
自分の言葉に変換することができれば、それは見えてくる。
心の眼である感情を注入してあげないと、自分の言葉にはならない。
言葉にならないと創造は起こらない。
文字は無機であり、言葉は有機だ。


4年生のゼミを終え、20時より、藤田君、千賀さんと話、
大学院とは何かを確認した。

学術の批判、仮説の批判は大いに結構。
深い議論を、熱い議論を、激論を交わしたいものだ。
論理的に。
片麻痺は「こうなんだ」と決めつけられると、とたん私の情熱は情念に変化する。


「世の中の人は何とも云えばいえ 我がなすことは我のみぞ知る(坂本龍馬)」