一昨日、岡山の朝日リハで昼間部、夜間部での講義。
導入、そして、これから話す「感情発達」「認知発達」「行動発達」「コミュニケーション発達」の序論と
「神経系の発生」そしてその「進化」について説明する。
目がまだ受動性な者がいるが、
専門学校だろうが、
そのあと、大学院などに行かないのなら、
それが自分の人生のとって、最高学府となるのだから、
生徒ではなく学生として存在できるように、
接近していただきたい。
昨日、朝早い新幹線で奈良に。
本学の健康科学研究所開所記念シンポジウム
http://www.kio.ac.jp/images/news/pdf/shinpo_seminar.pdf
の準備に携わる。
今回は看護医療学科開設記念シンポジウム(日野原重明先生)、
昨年の冬木学園60周年記念シンポジウム(養老孟司先生)とは違って、
一般には知らせておらず(新聞広告などはしてない)、企業、研究者向けに行おうと意図したものだが、
実際は地域住民もこられ、
どこに焦点を置くかが大変むすかしいシンポジウムになった。
伊藤正男先生、来学。
80歳にきわめて近い先生は、まだ現役で、
そして、仮説を貪欲に生み出し、
貪欲に解明していこうとする、
仮説検証型研究者であり、
関係研究より、因果研究をこよなく愛している(つまり科学することを愛する)。
その人柄も横柄でない。
生理学者のお手本のような謙虚な方であった。
群馬の全国PT学会の特別講演では、
EBM研究よりも仮説をガイドする研究の意義を語ってくれた。
それこそが、世界のトップランナーの研究者の魂である。
最初に、自意識(一人称な意識)の解明の難しさに触れられた。
その壁が乗り越えられない理由を述べられた。
自由意志問題である。
そのあと、おそらくローゼンバーグの知見を説明され、
神経可塑性について、環境の重要性について語られたが、
ヒトとラットの根本的な違いについても触れられ、
だから環境だけの問題でない意識の問題の重要性がヒトには内在し、
それが神経可塑性に修飾するため、
マウスやラット実験がそのまま人間には置き換えることができない事実に触れられた。
Hard problem & easy problemである。
チャーマーズがそれを提言して、10年たつが、
だれもその領域に達していない。
そこには進化プロセスが重要な視点ではないかということも言われた。
マクリーンの3つの脳の視点がやはり役に立つ。
ノーベル賞を受賞したエックルス博士に師事した伊藤先生ならではの展開だった。
聴講していた方の何名がその流れについて意識したかはわからないが、
次の世代への、ブレークスルーを意識した流れだったと思う。
そして、長期抑圧から内部モデルへ。
内部モデルの逆モデルと順モデルを考えているとき、
その時、どうも役に立つ神経学的な地検は大脳―小脳連関の解明ではないかと僕自身は思ったところだ。
また、側性化の進化過程の意味についても大いに意識した。
Theory of mind, autism, context, meta cognition、など、
解明していかない事実を最後に提言され終了した。
そして、いつまでも付きまとう、「わたし」とは何か?
つまりホムンクルス問題である。
フリスの絵が最後の絵であるのは昨年のPT学会と同じだった。
「認知」の解明はある程度めどがたった。
つぎは「意識」の解明である。
「理学療法」は「認知」前の「行動」レベルで停滞しているのも事実であり、
こうした学問が我々人間をみるために、
重要な視点であるという、
教育への展開(コペルニクス的転回にならざるをえない)。が必要だ。
そのために、brainとなる教育者・研究者の生産をしないといけない。
それが、僕がこの世界を引退しているときかもしれない。
その使命は最近感じている。
自らの研究を封印してまでも、
プロパガンダに徹さないといけないのも感じている。
両方したいが、周りにそういう仲間が少なすぎる。
ある一線を越える、ブレークスルーする、人生にはその感じが大事だ。
その後、金子先生、森先生、山本先生から、
視覚(光受容)、食感、味覚から脳・神経を考えるといった話題提供がなされた。
この全然違う視点を司会者である僕がまとめるのは並大抵な作業でなかったが、
いつもどおり何の準備もせず、
その時々のワーキングメモリを総動員して、整理した。
勉強とは、記憶と今の現実(感覚)をつねに比較照合すること、
それが、リアルタイムで要求されると、
脳が相当に鍛えられる。
そういう場所にいられることはありがたい。
いつまでも勉強できる(学べる)ことは、
この世に生れて幸せなことだ。
日本にいる環境がそうさせてくれるのだから、
先人たちの履歴の賜物だと、感じ、それを尊敬できる。
そういう環境がない世界中の人々たちにもおなじように、
その場を供給できるよう、社会科学者たちは研究を続けないといけない。
各先生方とのディスカッションは、長くなるので、筆をおきたい。
実は、相当に全身疲労なのである。
その後の交流会では、企業の方、企業研究者、他大学の学者と相互の意見交流ができ、
本学が社会に寄与できると、
なんとなくであるが、
未来が拓けてきたような感じがした。
画一的なものは人間のこころには存在しない。
物は物理かもしれないが、
物を見るひとには物理では証明できない現象に遭遇する。
神経を学ぶものはそれを痛感しながら、
分子から社会まで研究しているのである。
疲労全開ながら、今日は本学入試のお仕事。
今終わり、原稿締め切りの原稿、
まだ書いていないのかといわれそうだが、今日仕上げ、送信する。
まだ、3本原稿が、それでも残り、本の編集など、まだまだ続く。
週末の講演も3月10日前後まで、まだまだ続く、全部埋まってしまったのだ・・・・・・・・・
時代を生きているものとして、前向きに進む、といいたい。
寺山修司的に自らに「振り向くな」といいたい。
前にしか夢はない(後ろには夢はない)。
おもてなし、おもてなされ、その繰り返しが、ヒトとヒトとの人間コミュニケーション。
それは生涯鍛えられる。
おもてなす、それを忘れない人間であり続けたい。
導入、そして、これから話す「感情発達」「認知発達」「行動発達」「コミュニケーション発達」の序論と
「神経系の発生」そしてその「進化」について説明する。
目がまだ受動性な者がいるが、
専門学校だろうが、
そのあと、大学院などに行かないのなら、
それが自分の人生のとって、最高学府となるのだから、
生徒ではなく学生として存在できるように、
接近していただきたい。
昨日、朝早い新幹線で奈良に。
本学の健康科学研究所開所記念シンポジウム
http://www.kio.ac.jp/images/news/pdf/shinpo_seminar.pdf
の準備に携わる。
今回は看護医療学科開設記念シンポジウム(日野原重明先生)、
昨年の冬木学園60周年記念シンポジウム(養老孟司先生)とは違って、
一般には知らせておらず(新聞広告などはしてない)、企業、研究者向けに行おうと意図したものだが、
実際は地域住民もこられ、
どこに焦点を置くかが大変むすかしいシンポジウムになった。
伊藤正男先生、来学。
80歳にきわめて近い先生は、まだ現役で、
そして、仮説を貪欲に生み出し、
貪欲に解明していこうとする、
仮説検証型研究者であり、
関係研究より、因果研究をこよなく愛している(つまり科学することを愛する)。
その人柄も横柄でない。
生理学者のお手本のような謙虚な方であった。
群馬の全国PT学会の特別講演では、
EBM研究よりも仮説をガイドする研究の意義を語ってくれた。
それこそが、世界のトップランナーの研究者の魂である。
最初に、自意識(一人称な意識)の解明の難しさに触れられた。
その壁が乗り越えられない理由を述べられた。
自由意志問題である。
そのあと、おそらくローゼンバーグの知見を説明され、
神経可塑性について、環境の重要性について語られたが、
ヒトとラットの根本的な違いについても触れられ、
だから環境だけの問題でない意識の問題の重要性がヒトには内在し、
それが神経可塑性に修飾するため、
マウスやラット実験がそのまま人間には置き換えることができない事実に触れられた。
Hard problem & easy problemである。
チャーマーズがそれを提言して、10年たつが、
だれもその領域に達していない。
そこには進化プロセスが重要な視点ではないかということも言われた。
マクリーンの3つの脳の視点がやはり役に立つ。
ノーベル賞を受賞したエックルス博士に師事した伊藤先生ならではの展開だった。
聴講していた方の何名がその流れについて意識したかはわからないが、
次の世代への、ブレークスルーを意識した流れだったと思う。
そして、長期抑圧から内部モデルへ。
内部モデルの逆モデルと順モデルを考えているとき、
その時、どうも役に立つ神経学的な地検は大脳―小脳連関の解明ではないかと僕自身は思ったところだ。
また、側性化の進化過程の意味についても大いに意識した。
Theory of mind, autism, context, meta cognition、など、
解明していかない事実を最後に提言され終了した。
そして、いつまでも付きまとう、「わたし」とは何か?
つまりホムンクルス問題である。
フリスの絵が最後の絵であるのは昨年のPT学会と同じだった。
「認知」の解明はある程度めどがたった。
つぎは「意識」の解明である。
「理学療法」は「認知」前の「行動」レベルで停滞しているのも事実であり、
こうした学問が我々人間をみるために、
重要な視点であるという、
教育への展開(コペルニクス的転回にならざるをえない)。が必要だ。
そのために、brainとなる教育者・研究者の生産をしないといけない。
それが、僕がこの世界を引退しているときかもしれない。
その使命は最近感じている。
自らの研究を封印してまでも、
プロパガンダに徹さないといけないのも感じている。
両方したいが、周りにそういう仲間が少なすぎる。
ある一線を越える、ブレークスルーする、人生にはその感じが大事だ。
その後、金子先生、森先生、山本先生から、
視覚(光受容)、食感、味覚から脳・神経を考えるといった話題提供がなされた。
この全然違う視点を司会者である僕がまとめるのは並大抵な作業でなかったが、
いつもどおり何の準備もせず、
その時々のワーキングメモリを総動員して、整理した。
勉強とは、記憶と今の現実(感覚)をつねに比較照合すること、
それが、リアルタイムで要求されると、
脳が相当に鍛えられる。
そういう場所にいられることはありがたい。
いつまでも勉強できる(学べる)ことは、
この世に生れて幸せなことだ。
日本にいる環境がそうさせてくれるのだから、
先人たちの履歴の賜物だと、感じ、それを尊敬できる。
そういう環境がない世界中の人々たちにもおなじように、
その場を供給できるよう、社会科学者たちは研究を続けないといけない。
各先生方とのディスカッションは、長くなるので、筆をおきたい。
実は、相当に全身疲労なのである。
その後の交流会では、企業の方、企業研究者、他大学の学者と相互の意見交流ができ、
本学が社会に寄与できると、
なんとなくであるが、
未来が拓けてきたような感じがした。
画一的なものは人間のこころには存在しない。
物は物理かもしれないが、
物を見るひとには物理では証明できない現象に遭遇する。
神経を学ぶものはそれを痛感しながら、
分子から社会まで研究しているのである。
疲労全開ながら、今日は本学入試のお仕事。
今終わり、原稿締め切りの原稿、
まだ書いていないのかといわれそうだが、今日仕上げ、送信する。
まだ、3本原稿が、それでも残り、本の編集など、まだまだ続く。
週末の講演も3月10日前後まで、まだまだ続く、全部埋まってしまったのだ・・・・・・・・・
時代を生きているものとして、前向きに進む、といいたい。
寺山修司的に自らに「振り向くな」といいたい。
前にしか夢はない(後ろには夢はない)。
おもてなし、おもてなされ、その繰り返しが、ヒトとヒトとの人間コミュニケーション。
それは生涯鍛えられる。
おもてなす、それを忘れない人間であり続けたい。