goo blog サービス終了のお知らせ 

森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

相変わらず

2007年02月12日 22時51分00秒 | 過去ログ
相変わらず車の宣伝ソングはロックだね~

午後の紅茶が「あやや」バージョンのジャニスからスティービーになってるね。
久しぶりにTVを見ている。

ピストルズバージョンなくて、ルースターズバージョンのカモン・エブリバディでもやろうか? テキーラからの流れで。

ロックは魂だ。

その世界は人間を単純な機械には喩えない。
そのような「リハビリテーション」の時代も終わった。
それが「脳科学」が明らかにしている。

「離散運動」が「周期運動」とはならず。
難易度は抵抗重力の単純なヒエラルキーにあらず。

何をもってスタンダードとするのか?

2007年02月12日 22時11分23秒 | 過去ログ
今日は再試の監督、そして再試の口述試験。
学生はまだ肢体として物として扱っている。
一つ一つのもちかたの細部にまで気を配る。
愛護的という本当の意味を理解してほしい。
動かされるほうの気持ちになったことがあるのかという視点だ。
ADL練習をするときもそうだ(僕はしないが)。
何気ない健康側の上に非健康側の足を乗せるときもそうだ。
内転、伸展が健常者でも強くなる。

神経系とは何かをもっと極めるべきである。
剛体として扱っていることが一番気になる。
受けて側(患者役)がもっと意見を言うことだ。
同じように動かされても患者の脳の活動は違うのだ。
それは自らの脳でわかると思う。
プロとはそういうものだ。
今日はそれを自らの接触(touch)で教えることができたと思う。
再試に来てよかったと思ってもらえればそれでいい。
損だと思わないでほしい。
そのまま5時間ぐらいやりたいぐらいだった。

昼休みに朝日の人間発達学の試験問題を採点し、その後、再試の採点を行う。
メールの返事に2時間ぐらいかかり、大学院の仕事を行う。

今日は休みなのに何をしているんだろう。

グラミーだったね。

明日にも見よう。

何のために勉強してるんだ。
自己と他者、そのバランスだ。

先日のコースでピカソのキュビズムがメタファーで使われたが、

ダヴィンチからドラクロワまで続く「奥行き知覚」物理主義は、マネ、モネ、ルノワールらの印象派で壊される。さらに後期印象派では二次元と三次元空間が輪郭で操作された。
当時、印象派に対する批評はひどいものであったが、今ではそれが逆転だ。
自分の目(脳で感じる)印象を描く、その一人称が時代を変えた。
その後、ピカソらのキュビズムは「観察者の視点」だ。
私の目、あなたの眼、そして彼女の目、など、3者から見た絵が同時に描かれている。見方を変えれば顔は変わる。
その後、脳(観念)の問題をパロディったのが、ダリらのシュール レアリズムである。僕はマグリットに興味を持つ。

自分の研究室はマチス、モネ、クリムト、そしてミュシャに大いに囲まれているが。

芸術もしかり、科学もしかり、そしてその時々の臨床も。
国家試験という教育にルールはあるが、そのあとのスタンダードにルールはない。
秩序的なスタンダード、それは人間を対象にしているということだ。
医療のスタンダードは、ひとを対象にする、それだけだ。
「コンビニ」が「スーパー」に取って代わる、「お茶」が一番売れる、なんてのは当時のスタンダードにはなかった。

しかし、国家試験という呪縛もつらい。
教員をしていて一番つらいのは今の科学では・・・なものを、あたかもマニュアルとして教えないといけないという点だ。臨床実習しかり。それをするから世の中甘いのも事実。自分の心を踏みつける瞬間に幾度となく遭遇する。

自分がスタンダードになればいい。
そこまで、科学的にも技術的にもそして人間的にも自信を持てるために、日々精進を重ねるだけだ。

外科医は「空けてみないとわからない」、それはジャズピアニストのセッションにも似ている。やってみないとわからない。しかし、それは無秩序じゃない学習だ。
赤ちゃんのキッキングにも似ている。

臨床家(教育者)は他人がどうのこうの関係ない。自らがその現在進行形でディシジョンメーキングできるかだ。そこまで追い込まれないといけない。有名な学者ではなく、その理論がどうかを吟味する必要がある。リゾラッティがどうかでなく、デシティがどうかでなく、ラマチャンドランかどうかでなく、彼らの昔の理論、そして今の理論がどうかである。
ラマチャンドランの自閉症に対する接近の理論なんか、僕からみておかしすぎる。伊藤正男さんの長期抑圧理論のような美しさかつ繊細さはない。



クリエイティブな仕事をする、そういう人は他人の意見にさらさせる。
小さくまとまらず、50年先を想像する、そして創造する。
俺は大きく行くつもりだ。
それができないやつは小さくコツコツとすればいい。
システムなんだから。
ただし、50年先もその理論、技術は目が出ないかもしれない。

世の中を席巻するということはそういうことであり、長生きすることでない。

大久保利通のような人生は<僕は>あじあうつもりはない。




超える、超えない?

2007年02月12日 08時24分08秒 | 過去ログ
一昨日は1講義をした。脳のなかの身体を治療するというテーマだったが、これがひどい講義だった。いや~久しぶりに空回り状態だった。あまりにも前後の講義を意識しすぎたばかりに力が入りすぎた感がある。これには精神的緊張も起ったのではないかとも思える。ほんまに難しい、相手に対して言葉を使うということは。言葉を選ぶということは大事だ。

おかげで、喉の左奥が切れたような感じになり、声を出すのもつらいし、つばをのみこむのもつらい。20日あたりの神経部会のあとにもなった。ちょっとロードが続き、しゃべり続けた病気なんだろう。3月のライブが怖い。

夜、めずらしく懇親会に出たくないという気持ちがわく。立場上行く。それが人間関係だから。が、結局は気を使われる。仇となる場合もある。11時に戻った。早いホテルへのお帰り。

翌日の講習会を聞きたかったのも事実だが、仕事のため、富士山を背を向けながら帰る。

今日は富士山がきれいだと思い、一路、奈良へ。
奈良県理学療法士会の新人研修会「世界の理学療法」

WCPTのこと、国際貢献のこと、欧州の理学療法のこと、UK、北欧、フランス、イタリアなどなどの理学療法について写真を交えて話をした。
旅行にいった気分になってもらおうと難しいことは言わず、興味だけもってもらえばいいと思った。

しかし、1名だけ、最初から最後まで内職を続けていたものがいた。
授業ならもちろん雷だが、他の人に対する文脈、精神的緊張を起こす、などからやめた。
内職がいけないというのでなく・・・していながらも、何度が顔を上げ、少しは他人、あるいは文脈にあわせるという人間らしさがないことに問題がある。

つまり、講師-受講者の関係性をある1名が乱すという行為なんだ。
相手に対する意見(乱す)でなく、自分-他者の関係性に土足で踏み込む行為は、許されない。これはSVにもよく起こる。

ある関係性に入るという行為は慎重にならなければならない。
それは見えないから。
不倫でもつれる、あるいは、先日起った兄弟での凶悪な事件に対する両親の意見もそうだ。

そうした行為は、その文脈で超える、超えないの自己が大きく関与する。
「賭けマージャン(ほんとは悪い)」はよいが、ある一線を越えた「賭けマージャン」はやってはいけない。それが破滅、細胞分裂による悪玉流入になるから。研究会も更新ということを意識するばかりに、解体が起るかもしれない。それはよいこと、シンポだという人もいると思うが、癌化する恐れもある。研究会や学会を白紙にするというのも必要かもしれないし、休息することも必要なのかもしれない。恐竜になるか、aero smithになるかだ・・・

これは、ソマティックマーカーとか言うが、単純なものだと思う。経験による「何か」が学習されたのだと思うが、心と運動は似ている。
ニューロエコノミクスをパラドックスとして捉えたらそうなのかもしれない。

一方、科学が進行するにつれ、ニューロエシックスという倫理についても語られてきた。超える、超えないを考えたときに重要だと思う。誰も関係性なんか見えないから。本人同士しかわらないから。

自分には越境することが学習かもしれないが、人と人(歴史)についてはある一線を越えてはならない。おろかな戦争になるだけだ。そういう思考を持っていた自分が若いときにはあった。現職者講習会に来ていたみなさんは若いので興味が沸いた人がやはり多い(柔軟な脳をお持ちだから)と思うが、「どのように」これから解決していくかは、自分の思考を押し通してもよくない。みんなもがき続けているのはそこだと思う。ま~うまくやらないといけない。それしかいえない。人間は受けて側が「どう捉えるか」だから。

偶然は準備のできていないものを助けてくれない。
臨床や研究だけでなく、人間関係も、そう思う。
偶然とは「余裕」を含む。

さて、つらいが今日も仕事。
9月からず~と働き尽くめであるが、25日が待ち遠しい。