今日は再試の監督、そして再試の口述試験。
学生はまだ肢体として物として扱っている。
一つ一つのもちかたの細部にまで気を配る。
愛護的という本当の意味を理解してほしい。
動かされるほうの気持ちになったことがあるのかという視点だ。
ADL練習をするときもそうだ(僕はしないが)。
何気ない健康側の上に非健康側の足を乗せるときもそうだ。
内転、伸展が健常者でも強くなる。
神経系とは何かをもっと極めるべきである。
剛体として扱っていることが一番気になる。
受けて側(患者役)がもっと意見を言うことだ。
同じように動かされても患者の脳の活動は違うのだ。
それは自らの脳でわかると思う。
プロとはそういうものだ。
今日はそれを自らの接触(touch)で教えることができたと思う。
再試に来てよかったと思ってもらえればそれでいい。
損だと思わないでほしい。
そのまま5時間ぐらいやりたいぐらいだった。
昼休みに朝日の人間発達学の試験問題を採点し、その後、再試の採点を行う。
メールの返事に2時間ぐらいかかり、大学院の仕事を行う。
今日は休みなのに何をしているんだろう。
グラミーだったね。
明日にも見よう。
何のために勉強してるんだ。
自己と他者、そのバランスだ。
先日のコースでピカソのキュビズムがメタファーで使われたが、
ダヴィンチからドラクロワまで続く「奥行き知覚」物理主義は、マネ、モネ、ルノワールらの印象派で壊される。さらに後期印象派では二次元と三次元空間が輪郭で操作された。
当時、印象派に対する批評はひどいものであったが、今ではそれが逆転だ。
自分の目(脳で感じる)印象を描く、その一人称が時代を変えた。
その後、ピカソらのキュビズムは「観察者の視点」だ。
私の目、あなたの眼、そして彼女の目、など、3者から見た絵が同時に描かれている。見方を変えれば顔は変わる。
その後、脳(観念)の問題をパロディったのが、ダリらのシュール レアリズムである。僕はマグリットに興味を持つ。
自分の研究室はマチス、モネ、クリムト、そしてミュシャに大いに囲まれているが。
芸術もしかり、科学もしかり、そしてその時々の臨床も。
国家試験という教育にルールはあるが、そのあとのスタンダードにルールはない。
秩序的なスタンダード、それは人間を対象にしているということだ。
医療のスタンダードは、ひとを対象にする、それだけだ。
「コンビニ」が「スーパー」に取って代わる、「お茶」が一番売れる、なんてのは当時のスタンダードにはなかった。
しかし、国家試験という呪縛もつらい。
教員をしていて一番つらいのは今の科学では・・・なものを、あたかもマニュアルとして教えないといけないという点だ。臨床実習しかり。それをするから世の中甘いのも事実。自分の心を踏みつける瞬間に幾度となく遭遇する。
自分がスタンダードになればいい。
そこまで、科学的にも技術的にもそして人間的にも自信を持てるために、日々精進を重ねるだけだ。
外科医は「空けてみないとわからない」、それはジャズピアニストのセッションにも似ている。やってみないとわからない。しかし、それは無秩序じゃない学習だ。
赤ちゃんのキッキングにも似ている。
臨床家(教育者)は他人がどうのこうの関係ない。自らがその現在進行形でディシジョンメーキングできるかだ。そこまで追い込まれないといけない。有名な学者ではなく、その理論がどうかを吟味する必要がある。リゾラッティがどうかでなく、デシティがどうかでなく、ラマチャンドランかどうかでなく、彼らの昔の理論、そして今の理論がどうかである。
ラマチャンドランの自閉症に対する接近の理論なんか、僕からみておかしすぎる。伊藤正男さんの長期抑圧理論のような美しさかつ繊細さはない。
クリエイティブな仕事をする、そういう人は他人の意見にさらさせる。
小さくまとまらず、50年先を想像する、そして創造する。
俺は大きく行くつもりだ。
それができないやつは小さくコツコツとすればいい。
システムなんだから。
ただし、50年先もその理論、技術は目が出ないかもしれない。
世の中を席巻するということはそういうことであり、長生きすることでない。
大久保利通のような人生は<僕は>あじあうつもりはない。